(2)
「―――きて」
声が聞こえる。
「ねぇ、起きてってば」
僕は、はっとして目を見開く。何かほの温かい床の上に僕は横たわっていた。体を恐る恐る動かす。
まるで夜空にのみ込まれたかのような何もない真っ黒い空間、そこに僕はいた。遠くの方に目を向けても果てがあるのか分からない。床だけがほのかに光り、僕の体を照らしていた。
「やあぁぁぁぁぁぁっと、起きた」
頭上から声がした、目を向ければ真っ黒い帽子をかぶった金髪の少年が僕を見下ろしていた。
「なかなか起きないから心配したよ、また何かエラーが起きたんじゃないかなって」
「……エラー」
僕は茫然と、ただ中々思考の定まらない頭で彼の言葉を繰り返した。
「うん、でもよかった、君が無事で」
「君は誰だい?もしかしてカミサマ?」
「いやいやいやいや」
彼は苦笑いすると大仰に手を振って見せた。今気づいたが、彼は何かくわえていた。棒のようなもの、飴でも舐めているのだろうか。
「そんな大それたものじゃないよ、僕はそうだな、言うなればこの空間の支配人さ、うん支配人支配人支配人支配人」
支配人の言葉を気に入ったのか彼は何度もその言葉を口にした。
「君には今から転生の手続きをしてもらうよ」
「はあ、あ、そっか」
「なに」
「いや、俺死んだんだったなーと思って」
「そうそう、おじさんは死にました」
おじさんという彼の言葉にどこか引っ掛かりを感じつつも僕は「そうか」と頷いた。
案外呆気なかったな。
「こらこら感傷に浸らない、これからおじさんには転生先を決めてもらわなければいけないんだから」
「転生……、転生ってなんだい」
「そこからかー、んー簡単に言うと生まれ変わるってこと」
「生まれ変わり……」
「うん、そして再び新しい人生を送ってもらいます。あ、ちなみに記憶はないだろうけれど、おじさん前の世界で一度地獄に落ちているから」
少年はさらりと言った。
「地獄っ⁉」
「うん、何でも第三世界のルール何でしょ、親より先に死んだら地獄行きって。変なルールだよね。んで、地獄に落ちて、ながいながいながい、年月を地獄で過ごして自分が何者かも分からなくなったところで、こっちの空間に送られてくるんだ」
「はあ」
「おじさん自分の名前覚えてる?親の顔は?どうやって死んだかとかは?」
「…………」覚えていなかった。一生懸命自分の記憶をたどるが、覚えていることなど一つも……、いや。
「覚えてる」
「はい?」
「死ぬ前に俺、小さい女の子にあったんだ、その事だけは覚えている」
「マジかー、それって、ご加護じゃん」
「ご加護?」
「何かその女の子に言われた?」
「煙草の煙が嫌いだって」
「いやいやいや、そういう事じゃなくって」
彼は再び苦笑交じりに大仰に手を振って見せる。
「なにか、伝言とか」
紹介状、という言葉が頭に浮かんだ。女の子がそう言っていた気がする。
「えーと」
その内容を絞り出そうと、頭に手をやり眉間にしわを寄せ、僕は唸る。
「第三世界の、ナハトが」
「おお、うんうんナハトさんね」少年は驚いたように目を見開く、その口元は愉快そうに片方の端だけ吊り上がっていた。
「紹介状をって、……たしか、次の世界では優遇しろって」
「優遇!」少年はとうとうこらえきれなくなったとばかりに、声をあげ、パンと両手を打ち合わせた。何もない空間にその音が溶け込んでいく。
「そう言っていた」
「そりゃルール違反だよナハトさん、全く相変わらず人がいいんだからさ。ん、これはあれか、じゃあ僕もこの人の転生手続きについてはその優遇ってのをしてあげなきゃいけないのか?まじかー、そんなことしたら転生先のカミサマに怒られちゃうじゃん、ナハトさんもしかしてこの人の事俺に丸投げしてる?」
少年は何やらぶつぶつと独り言を喋りはじめた。僕はといえば、ここがどういうところで何をするところかもわからないので、ただ所在なさげに、健気にも光り続け僕を照らしてくれる床の上に正座するしかなかった。
「おじさん」
「はい」
突然声をかけられて素っ頓狂な声が出てしまった。
「ふふふ」それを聞いてか少年はそう口から息を漏らした。その表情だけを見ればただの少年に過ぎないのだが。僕はなぜかこの少年は普通とは違う、何か特別な存在なんだと、認識し始めていた。
「今から転生の手続きするから、そこに座って」
彼がそう言うと突然目の前に真っ白い木製でできた椅子と机が現れた。
僕はそのことに少なからず驚いたが、目の前の少年が普通ではないと認識し始めていた僕は、すんなりと状況を飲み込むことが出来。
彼に言われた通り、そこに、座った。
机の上には一枚の紙が置いてあった。紙面に視線を滑らせるが読めない。どうやら普段僕が使っている言語とは異なる言語で書かれているらしい。もしくは忘れているだけか。
「転生先は第十八世界でいいね、あそこが一番平和な世界だ」
「はあ」
「どんな生き物に転生したい?」
「え、選べるのかい?」
「もちろん、優遇しろって話だし、これくらいのことはするよ。本当は選べないんだけどね、転生先の世界も、転生後の自分の姿も」
「なんだか、申し訳ないな」
「いやいや、おじさんが気にすることじゃないよ。で、何に転生したい?」
「猫」僕はしばらく考えてぽつりとつぶやいた。
「え、猫?」
「いや、猫に転生できたら気が楽だろうなーと思って」
そういうと、少年は笑顔を引きつらせ、僕を指さして言った。
「な、なめてる!おじさんまた餓死するよ」
「え、餓死?なんのこと」
「猫の世界も大変なんだよ、他の猫との縄張り争い、人間へのこびへつらい、車への注意、何より一日一日生きていくのに必死なんだ!」
「そ、そうなんだ」
「というわけで、人間に転生しよう」
「人間」
「そっちの方が向こうの世界のカミサマも優遇しやすいんだよ」
「はあ」
「よし決定、転生先は第十八世界、生まれてくる姿は人間という事でいいね」
「はあ、え、ちょっと待って、本当にそれでいいのかな」
「いいのいいの、人間になって、今度は幸せに暮らしてよ。その方が僕も後味が悪くない」
彼はそういうと、机に置かれた紙に向かって、いつの間にやら手に持っていたペンらしきものを使って何かを書き込み始めた。その様子を眺めていたが。少年の書く文字は、走り書きのようなもので、何を書いてあるのかはやっぱりわからない。
「あ、そうだ、ここでのやり取りの記憶はなかったことになるから」
「え」
「まっさらな状態で生まれてきてちょうだいな。さて、手続きはこれにて終了、後はお待ちかねの転生をすませるだけ。あちらをご覧くださーい!」
そんな風に芝居がかった口調で少年が指し示す方向を見ると、黒い空間に切れ目のようなものが出来ていた。そこから光が漏れ出てくる。
それを見て僕は、ああ、あそこから転生して、僕は生まれていくんだなぁ、と何故か分かった。
「そろそろ時間ですよ」
「いろいろとありがとう」
「いえいえ、あ、一つ進言しておくと、向こうの世界では運も実力の内だから、きっと神様から優遇されるのならば、あなたは幸運な生活を送れるんだろうね」
「そう言えば、ナハトさん?が言っていたけれど、運は世界の意思だって……。カミサマは関係ないんじゃないの?」
「それはあなたが元いた第三世界の事でしょ、第十八世界では、運は自分のスキルとして扱われる。カミのご意思。だからそのことについては何も心配することはないよ」
「ふうん」
いまいち納得がいかない説明だったが、僕はとりあえず頷いておくことにした。
「それではもう行ってください、私にはまだやる事が残っているのです。次の人の転生手続きとか」
「一つ聞いてもいいかな、君の名前は?」
「教えてあげてもいいですけれど、どうせすぐに忘れるよ」
「いいから」
「クロと申します、真っ黒い空間にずっといるからクロ」
「なるほど」
「つまらないネーミングでしょ」
「いやいやそんなことはないよ」
「そですか」
「それじゃあ、もう行くね」
「ええ、いってらっしゃい」
「いってきます」
「どうか、あなたのこれからの人生に幸多からん事を」
クロと名乗った少年は、最後にそう言って僕の後姿を見送った。
ここまで読んでいただき有難うございました。