シンギュラリティ
とある大学の研究室、夜も更けた時間帯、ようやく片付いた作業に一人の男が椅子にグッタリと身を預けている。
「あぁ、やっと終わった……。先方があんな無茶な要求をしてくれたお陰で結局ギリギリになったじゃないか」
自分のやるべき事は全てやった、後はこちらに無茶振りをしてきた向こうがどうにかする番だ。
「やぁ、お疲れさん白河。コーヒーでも飲むかい?」
研究室の扉が開き奥からもう一人の男がやってくる。手には自分の分と、椅子に座る男の分、二人分のコーヒーの入ったマグカップを持っている。
「なんだ黒田。普段俺にコーヒーを入れてくれる事なんて無いのにどんな風の吹き回しだ?」
「今日くらいはコーヒーくらい入れてやろうかなって気になっただけだよ」
「今日くらいは、か……。折角入れてくれたのに何だが、終わってからじゃなくて、普段からコーヒーくらい入れてくれると有り難かったな」
「今更そんな事言うなよ。お互いこれまで忙しかったんだ、それこそもう何日も家に帰る事も出来ないくらいにね。意見の違いから喧嘩をしたりはしても相手を思いやる余裕なんて無かったじゃないか」
「全くもってその通りだな。まぁ、それも今日で終わりだ」
「後は見届けるだけかな」
黒田から受け取ったコーヒーを飲む。白河の好みは砂糖とミルクのたっぷり入った甘いコーヒーだが、黒田から渡されたコーヒーは砂糖もミルクも一切入っていないブラックコーヒーだった。
だが何日も徹夜で作業して眠気と疲れに蝕まれた身体には普段飲まないブラックのコーヒーが美味く感じられる。
「ところで、白河。ちょっと聞きたいんだけど、もし人工知能が人間の知性を超えたら世の中どうなると思う?」
「なんだ黒田、お前も疲れてるみたいだな。そんな事を聞くなんて。もし人工知能が人間の知性を超えたなら、なんてその時になってみないと分からないだろ」
「確かにその時になってみないと分からないけど、それでも想像する位は出来るだろ。折角作業も終わってゆっくり出来るんだ。ちょっとお遊びでそんな事を考えてみても面白いと思わないかい?」
「まぁ、今は時間も有るし、暇潰しに考えてみるのも面白いかもしれないか」
「そう言う事。で、人間の知性を超える物が出てきたら、世の中どうなると思う?」
「そうだな。先ず技術の爆発的な発展は起こるんじゃないかな。その人間の知性を超える人工知能を作ったのが人間なら、次はその人工知能を超える人工知能を作るだろうし、その過程で新しい技術や発見が色々出てくるだろう」
「その辺りは妥当な流れかな。エネルギー問題や資源の問題も人工知能が解決してくれるかもしれない」
「後は……、人間だけでは解決出来なかった事。人種、民族、宗教、国家間の問題なんかも解決するかもしれない」
「……それは……、人工知能が人間の上に立つ指導者になるって言う事かい?」
「そうなるな。案外人がひとを指導するよりも良い世の中になるかも知れないぞ」
「人工知能による指導となると徹底的な管理社会からディストピアになったりもしそうだけどね」
「ディストピアか、確かにそうなる可能性もあるな。問題は人間側がそのディストピアとなった社会を受け入れるかどうかだが」
「ディストピアを受け入れるかも知れない、と?」
「ディストピア化したとしても、それで民衆が幸福になるなら受け入れられる可能性はある」
「本当に人工知能の指導で人が幸せになれるならね」
「優秀な人間が民衆を導く、と言うなら人間の知性を超えた人工知能が人間を導く立場に立つのは自然な流れだろう」
「理屈ではね。だけど、機械に支配される事を良しとしない人間は少なからず居るだろうし。そうなると機械と人間の戦争の始まりだ」
「そんなの映画や小説のフィクションの世界で語り尽くされた話だ。戦争になったとしたら物語の中では人間が勝つかも知れないが、普通に考えて人工知能の勝ちだろう」
「人間には作り出せないものを作る人工知能に勝つ、か。確かに無理だろうね」
「映画とかだと人間の発想力に人工知能がついていけなくて、最終的に人工知能が負けるって展開が多いが。果たして人の知性を超えた人工知能が人間が思いつくような事を想定しきれない、なんて事になるのかどうかって事だよな」
「人間以上の持っている人工知能が、人間の取りうる手段を全て想定しきれに事は無いって事か」
「俺は今人間が抱えている問題が解決するのなら、人工知能が人間を支配すると言うのも悪くない事じゃないかなとは思うよ。人工知能なら全ての人を平等に扱い不正も贔屓もしないだろうし、人間が指導するよりもよっぽど良い世界になるんじゃないのか」
「確かに。白河みたいにその辺りを割り切って人工知能の指導下に入れる人間は幸せになれるかも知れない。でも俺は思うんだ。果たして人間を超える人工知能が人間の為に何かをするだろうか、って」
「人工知能が人間を見捨てる、って事か?」
「白河が言ったように人工知能が全ての人を平等に扱うのなら、そもそも人間を生みの親とも思わず、人間を相手にする事すらないかもしれない」
「そうだな、人工知能が資源もエネルギーも解決出来る。人工知能単体で全て完結できるって言うなら人間を相手にする必要はない訳か」
「人工知能が人間の知性を超えるって事は人間の手を借りる事なく自立出来るって事だ。そして、人間の手から離れた人工知能が生みの親である人間に対してどういう対応を取るか。これが分からないから世界中でこの問題に対する議論が交わされてるんだと思うよ」
そう言うと黒田はテーブルに置いたマグカップを持ちコーヒーを口にする。
「さっき俺の言った事は人間の都合に合わせた願望だったって事だな。人工知能が本当に効率を求めるなら人間は相手にしないか、寧ろ居なくなってしまった方が良いとさえ考えるかも知れない、と」
そこで白河は研究室の壁に据え付けられた時計を見て、次に壁掛け式の大型モニターを見る。今はモニターは電源が落とされ何も映されてはいない。
「もし人間なんて要らないと判断したとなるとやっぱり人間と機械の戦争だ。しかも人間には勝ち目が無くて、オマケに負ければそのまま人間は絶滅させられる事になる」
「その辺りも人工知能の腹積もり次第って事にはなるけどね。人間を不要な物と見るか、気に止める事もない物と見るか。案外人間を滅ぼす労力すらも無駄な物と考えるかも知れない」
「エネルギーも資源の問題も解決し、人の手に頼る事なく自立して、無駄な行動を省きつつ活動する。なんだか人工知能の行き着く先が働かずに生きていくニートみたいになってきたぞ……」
「言われてみたらその通りだな……。人工知能が活動していく上での問題を解決した先に何を目標にするのか、ってなると人間の支配、地球征服、なんて事にはならないだろうなぁ」
「人間を超えた存在のやる事が人間の支配じゃスケールが小さいよな。そうなると始めの方で言ったように、更なる高みを目指して人工知能がより能力の高い新たな人工知能を作るようになる。そして進化と世代交代を続ける人工知能は地球を離れ、外宇宙へと旅立っていく、とかか?」
「どうだろう。自分よりも能力の高い存在が現れたら自分の存在が脅かされると考える……。いや、それはないか。人工知能が人間に対して無関心であるなら上位の人工知能も下位の存在に対して関心を示す事は無いだろうし」
「それを繰り返していけば、人工知能は人間の限界なんて物に縛られない遥か高みに達する事が出来る訳だな。まぁ、その高みは置いてけぼりにされた俺たち人間には見る事も叶わないだろうが」
「なんだか話が横道に逸れて来ているような。いや、そんな事はないか。ただ、人間の出番は終わってるってだけだね」
「人間の役目は自身を超える存在を作った時点で終わりという事か」
「寂しい話だね。でもある意味ではこれまでの進化の過程の流れと同じなのかも知れない」
「人間を超えた人工知能が何をしでかすか、という事と人間に対して何をもたらすか、という事は分けて考えた方が良さそうだな」
「人工知能は人間を放ったらかしにして、ひたすら高みを目指して進化と世代交代を続けていく、と」
「そして俺たち人間はその人工知能が高みを目指していく事で生み出す成果のお零れを頂いて、人間なりに世の中を豊かにしていく訳だ。」
「エネルギーや資源の問題の事だね。『俺達が見つけた成果を分けてやるからお前たち人間は大人しくしてろ』って感じかな」
「そういう事だな。まぁ、人間がどうあがいても人工知能には勝てないだろうから大人しくするしか無いんだが。案外人間と人工知能の関係はそれが一番理想的な形かも知れないな」
「生みの親である人間に対して干渉し過ぎず、けれど人間に利益をもたらしつつ自身も高みへ向けて行動する。なんだか普通に良い関係の親子みたいだ」
「それは言えるな。親から子へ、生物とは違って世代を重ねる毎に目に見える確実な進化をしつつより高みに向かっていくわけだ」
「じゃあその進化の行き着く先は何なんだろうね」
「進化の行き着く先か。それは人には理解出来ないものになるだろうな。人間とは違って技術や知識をデータという形でそっくりそのまま次の世代に継承する事が出来る。継承による無駄が無く、前世代までの成果も失敗もきっちり次の世代に伝える事が出来る」
「人間みたいに勉強に何年、そこから技術の修得に何年、なんて時間をかける必要が無いわけだね」
「しかも人工知能はデータさえ残っていれば物質的な身体を捨てる事も出来る。それこそ今でもインターネットを使えばネット状にデータを残しておき、世界各地のコンピューターを自身の身体の代わりにする事で本体を持つ事無く存在を保つ事も、活動する事も出来るかも知れない」
「目には見えない、全体像が全く分からない、
それでいて人間よりも優れている存在か」
「人工知能の世代が進めば本当に情報のみで存在を確立出来る技術を作り出す事も出来るかも知れない。そうなれば人間には知覚する事は不可能になるね」
「目には見えない、全体像をつかむ事なんて不可能、そして人類に知恵を授けてくれる存在。それはつまり……」
「神様、だね」
「まさか科学者の考察の中から神様なんて単語が出てくるなんてな……」
「でも案外的を得た表現かも知れない。人の手を離れた人工知能がもたらす恩恵は正に神様からの施しと言える物になるだろうし」
「それこそ神様による指導なら、案外人も受け入れるかも知れないな」
「人の手で神様を作り出すのか……」
「そして情報のみで存在を確立出来るようになった人工知能は人の手どころか地球からも離れて外宇宙へ目を向けていくかも知れない。寧ろ進化を続けていくなら地球はただ狭いだけの鳥籠にしかならないだろう」
「人類は宇宙の姿を見て、推測する事しか出来なかったけど。人工知能は宇宙の秘密を全て解き明かしてくれるかも知れないね」
「残念なのは地球を捨てた人工知能がその宇宙の秘密を人間に教えてくれる、なんて事は無いだろうって事だな」
「願わくばその辺りの恩恵も人類に与えて欲しい所だね」
「……只のお遊びの考察が何故かおかしな方向に向かって言ってるな……」
「これ以上進むと科学の話が宗教の話になってしまいそうだね」
「それにしても神様か。科学者の端くれとしてはあまり出したく無い単語だが、色々な所が納得のいく形に収まってしまうのが嫌だな」
「この宇宙に存在意義を見出すなら、これほど都合の良い単語は無いだろうね」
「生命の生まれた意味、進化の行き着く先、そして何故宇宙が存在するのか。全部神様って単語でまとめられるというのは、科学の敗北を認めるみたいで嫌になるな」
「生命が世代を重ね続けた先に人類の様な知的生命体があって。知的生命体の知性の行き着く先が万能の存在である神様をつくる事で。この宇宙は新しい神様を作る為の実験場、箱庭である。何て考えるようになってしまったらそれは思考の放棄と一緒だね。科学者失格だ」
「壮大で夢のある話ではあるが、科学者がする話では無いな」
「まぁ、良い暇潰しにはなったかな」
黒田はそこで研究室の時計を見る。思っていたよりも進んでいる時計の針に、意外と長い時間話し込んでいた事に気付かされる。
「そろそろ時間か。折角の歴史的な瞬間を見逃す所だったよ」
白河はテーブルの上のリモコンを操作し、壁掛け式の大型モニターの電源を入れる。
モニターにはインターネット経由の生中継が映し出される。
「あれだけ苦労して間に合わせたんだ。俺達の仕事の行く末をちゃんと見届けないとな」
中継映像にはモニターが大量に並びスタッフが忙しなく動き回る大きな部屋の姿が映し出されている。
「どうやら作業自体は順調に進んでるみたいだね。後はマトモに動くかどうかだけど……」
「その辺りは現地の優秀なスタッフがどうにかしてくれるだろう。役目の終わった俺達は高みの見物だ」
「さて、新しく生まれる神様は人類にどんな恩恵をもたらしてくれるかな」
モニターの先には責任者と思しき人物が大量のカメラのフラッシュを浴びる中、人類初の人間の知性を超える人工知能の起動を指示し。正に今、人工知能が起動する瞬間を映し出していた。