1 真夏のあれは苦手です
「いっやあああああっっっっっ!!」
耳をつんざくような叫び声に、上松陽太郎はベッドから飛び起きた。
着替えもそこそこに陽太郎はベッドからおりると、叫び声がした方へと足早に向かっていく。少々部屋が脱いだばかりの衣服などでとっ散らかっているが、無視だ無視。
「どうした、らむねっ!?」
廊下でブルブル震えていた髪の長い少女がむくりと顔をあげ、今にも泣きそうな表情を浮かべながら陽太郎を見る。
「よ、ようたろ~……」
彼女が伸ばしてきた手を握った陽太郎はそのまま彼女を抱きしめ、その背中をさすりながらよしよしとあやす。
「もう大丈夫だぞ~。よしよし……。で、何があった?」
あやす割には扱いが適当だが、まぁそこはとりあえず。
ようやく落ち着いてきた、らむねと呼ばれた少女は陽太郎の腕の中から顔をあげ――やはりまだ泣きそうな表情が消えない――、己の指を震わせながら、廊下の壁を指差す。
陽太郎はそちらに顔を向け、思わず「おぉ」と感嘆の声をあげてしまう。
真夏によく見る、あれである。
黒く、テカテカと光るのが特徴的で、たまに茶色いのも混じってはいるが。触覚があって、6本足で、羽があって、それゆえに飛ぶこともできて。
ようするに。
「ゴキブリ、だな」
「いやああああっっ! 言わないでええええええっっ!!」
陽太郎のすぐ耳もとで叫び声をあげ、らむねはすぐにまた陽太郎の腕の中でヒンヒンと泣き始める。当の陽太郎はというと、耳もとでいきなり叫ばれたものだからしばらく耳がキーンという音をたてていて、それを我慢するので精一杯なわけだが。
いったい、早朝から何をやっているんだ。自分らは。
そう自らに突っ込みを入れながら、陽太郎はよいせっと立ち上がる。
「よ、ようたろ……、どこ行くの?」
心細げに言う少女の頭を、陽太郎はあやすようにポンポンと数回たたく。
「君の苦手なGさんを駆除するんだ」
そう言って陽太郎は近くに放り投げてある新聞――おそらくはらむねが新聞などを取りに行って、その際にこのGさんにでくわしたのであろうが――を手にすると、Gさんに向かって、ゆっくり。ゆっくりと歩を進める――ほど大した距離はない、これが。
らむねが不安そうな表情をしている。その様子を背中越しにうかがいながら、陽太郎は身構える。
ふぅっと息をつき、手にしていた新聞紙を振り上げ――るふりをしてらむねの視界に入らないように陽太郎はサッとGさんを手中におさめた。
ようするに、手づかみでGさんに触れているわけである。良い子も悪い子も真似をしてはいけない芸当だ。ほら、手の中でもぞもぞとGさんが動き回ってるよ、気持ち悪い。などと思いながら、陽太郎はサッと壁からどいてみせる。
「らむね」
優しい声音で彼女に声をかける。
体育座りをしてその両足に自らの顔をうずめていたらむねは、おそるおそるという風に顔をゆっくりあげてきた。
「ほら、Gさん駆除したぞ」
そうして壁を見せびらかすと、らむねはホッと安心したように息をついた。
が、すぐに真剣な表情になる。
「ご苦労様でした!」
つっけんどんに言う彼女に多少はあきれながら、陽太郎は背中に隠している手の中で未だにGさんがモゾッているので、そろそろ手も手の中のこいつも自由にしてやりたいと思っていたところ、名案が浮かんだ。
「らむね」
「ん?」
もう一度彼女に声をかけると、らむねは何の疑いも向けることなく、陽太郎の声に反応を示した。
「なんだ、陽太郎」
「ちょっと来てみな」
らむねは訝しむような表情をして、首を45度程度横に傾けながら、陽太郎に近づいていく。
瞬間、陽太郎はらむねの目の前にそいつを繰り出す。
「じゃっじゃーん!」
「いっぎゃあああああああっっっっ!!」
らむねの叫び声と共に、Gさんと廊下と陽太郎の顔に爆発が巻き起こった。
*
頭を包帯でグルグル巻きにしている陽太郎を見て、友人の宮本優は朝の挨拶もそこそこに、彼の様相をあきれるようにしてじろじろと眺めまわした。
「なんだ、その包帯。それとあと頭。すっげぇ爆発してんじゃん。爆弾でも踏んづけたの?」
陽太郎はラムネの入った袋を開けようとした手をとめ、眉をひそめながら優のほうを見る。
「踏んづけたんじゃない。勝手に爆発したんだ」
「となると、相手はらむねさんね。ハッ、まぁた怒らせたのかよ」
ケラケラ笑いながら、優は陽太郎の隣に座った。
第一訓練室では、B級からA級の同い年くらいの人たちが組み手をしている。陽太郎も優もその輪の中には入らなかった。というか、単に面倒だからサボッているだけである。
「で、なんでらむねさんは怒ったのさ。何があったの?」
「別に、なんでもねぇよ」
「なんでもねぇわけねぇだろ。でもま、らむねさんが怒るのはタイテーは陽太郎が嫌がらせをしたから怒るわけだけどさ」
なんでもお見通しな言い方が癇に障る。
陽太郎は軽く舌打ちをして、それからラムネの入った袋を開けると、そこから1粒、2粒、3粒とラムネを取りだした。すっと横から手がのびてきたので、優にも1粒だけあげてやる。
「けちくせぇなぁ」
「うっせ、バカ。感謝しろ」
陽太郎は優を罵倒しながらラムネを口に放ると、ガリガリと噛んだ。
酸っぱい味が口いっぱいに広がり、一気に眠気が吹っ飛んだ。この勢いのまま、訓練も真面目にやり始めるかと思いきや。そんなことするわけない。というか、誰がするか訓練なんて面倒くさい。
「そいえばさ、聞いたか?」
「何を」
多少の苛立ちを胸に秘めながら陽太郎が優の方を向くと、彼はいつになく真剣な表情をしていた。自然と、陽太郎の表情も引き締まる。
「オーシア国にでたんだとさ、“神の使い”が」
「……んだよ、そんなの。ここらへんにもよくでてんじゃねぇか。吐いて捨てるほどに」
「ちげぇよ」
持ち出された話題にあきれて聞く気もなくした陽太郎に、優はしかし。真剣な表情を崩さないまま続ける。
目の前で組み手をしていたうちの1人が床に思いきりたたきつけられ、その音が部屋じゅうに響き渡った。
「それも、尋常じゃねぇ強さだとか。なんだとか。ま、定かじゃないけど」
陽太郎は「ふぅん」とどうでもよさげな声で返事をしながら、だんだんと優と同じ表情をしだした。その様子を優はチラッと視界におさめ、ため息をつく。
「こっちにも、時期に来るんじゃないかって上層部が話してた。なぁ、お前は何か聞いてないのか?」
「んで、俺がそんな情報知ってんだよ。知るわけねぇだろ」
ラムネを手のひらに5粒ほどだして、口に入れてガリガリと音をたてて噛む。相変わらず酸っぱい味がする。
「だってお前、B級でうろついてるくせして。本当はS級並みの強さ持ってんだろ。それに、らむねさんだっている。それなのにお前は、そのB級というクラスに甘んじてる」
「別にこのクラスに甘んじてるわけじゃねぇよ」
「じゃあ何だ」
こういうときの優は、面倒くさい、うざい、どっか遠くへ消えてほしいとさえ思う。というか消す。
陽太郎はすっくと立ち上がった。
「やるぞ、訓練」
何も答えてくれないとわかるやいなや、優はまたもため息をついて「へいへい」とやる気のない返事をしながら立ち上がった。