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6話 理解される心

 ヘルシオン国王城。

 謁見の間にて。


 国王アロウンは玉座より、跪く一人の男を見下ろしていた。

 国王のそばには側近が控えている。


「良いな? 領主とレイスの身柄を確保し、王都へ連行するのだ。それだけで良い」


 王は念を押すように、跪く男へ告げる。


「は、しかしお言葉ですが王よ。王の計画では、アランド領を存続させるという話。反旗を翻した獣人にそこまでの温情をかけるべきものでしょうか?」

「黙れ、フィアン。余は命を下した。従え」


 フィアンと呼ばれた男は、頭を垂れて黙った。

 歯を食いしばって、悔しさに耐える。


「間違っても攻めようとは思うな。相手を威圧するだけで良い。その威圧だけであの地が手に入る。セルヴォの血族さえいなければ、あの地は好きにできるのだからな」


 それでも、獣人が我が物顔で居座るあの領地が存続する事には変わりない。

 フィアンにはそれが気に入らなかった。


 フィアンはケアンの友人であり、同志である。

 ケアンと同じく、獣人が人間と同じ身分を持っている事に常々不快な思いをしてきた人間の一人だ。

 そして、友であるケアンは獣人によって殺された。

 だからこそ、彼は王の命令であっても従う事に抵抗を覚えていた。


「は、確かに承りました」


 搾り出すように声を出すと、フィアンは謁見の間より退室した。


「ちゃんと任務を果たしてくれるでしょうか?」


 側近は心配そうに意見をうかがう。彼はフィアンの心情を見通していた。

 それは王も同じだった。


「果たしてもらわねば困る。もう、あやつしか動かせる手勢は無いのだからな」


 そして彼は王都より出発し、ヘルシオン軍は二十三日をかけてケイリッツの領主街へ到着した。

 アランド領へ情報が入った二十日後の事だ。

 通常の行軍速度と比べて、倍以上遅い到着だった。




「三万の兵が目と鼻の先か……」


 領主の館にて、ジョバンニは一人呟いた。

 彼は今、以前の領主が使っていた書斎にいる。

 机に着いて、思案に耽っていた。

 彼の目の前、机の上には一枚の手紙が置かれている。


「僕がヘルシオンへ身を投じれば、みんな助かるんだな」


 その手紙はフィアンから届けられたものである。


 内容はレイスを解放し、ジョバンニの身柄を引き渡せという旨のものだ。


 事実上の降伏勧告だった。


 その上で、全ての領民が助けられるというものだ。

 自分の保身を無視すれば、かなりの好条件だった。


 レイスはこの手紙を一読し、一蹴した。

 彼女はこんなものに応じるまでもなく、なんとかするつもりのようだ。

 けれど、ジョバンニは彼女の言葉を疑っている。


 彼女は三万の兵士が攻めてきた事にとても驚いていた。

 元々、冬の間には進行がないと彼女は言っていた。

 その予想が外れたからかもしれない。

 そしてその予定外が、致命的なものだったのではないか、と心配になった。

 如何な彼女でも、今回ばかりは勝てないんじゃないか、と不安になったのだ。


「一か八かの賭けよりも、こっちの方がいいんじゃないかな?」


 レイスの言う事は正しいかもしれない。

 戦いに勝つ事はできるのかもしれない。

 けれどレイスは本来、ここにいるべき人間じゃない。

 戦いの中で、危険に身を投じる必要の無い人間だ。


 彼女と自分を捧げれば、少なくとも彼女は安全な場所へ行ける。

 彼女に危険が及ぶ事はなくなる。


 ジョバンニは決意し、部屋を出た。




「予定よりも連中の到着は遅かったが、こちらの情報収集も予定より遅くなってしまった、か」


 レイスは城壁の上で、ケイリッツ方面へ目を向けながら呟く。

 今の彼女はセルヴォバージョンである。

 顔には仮面を着け、男物の服を着ている。


 情報収集に向かわせた黒死隊は、誰一人帰ってきていない。

 雪の弊害はこちらにも降りかかってきたらしい。


 こんな事なら、推論だけで事にあたってもよかったか。

 いや、しかしもし間違っていたら痛い目を見るかもしれない。

 この選択は間違いじゃなかったはずだ。

 自分の選択を思案し、正当性を再確認する。


「レイス王女殿下」


 名を呼ばれ、レイスは不機嫌そうな顔を声の主へ向けた。


「その呼び方はやめろ。お前にそう呼ばれるのは不快だ」


 声の主はジョバンニだった。

 彼に堅苦しい呼び方をされる事は、レイスにとって癇に障る事だった。

 彼とはもっと気安く、親しい間柄でありたいと願っているからだ。

 しかしジョバンニは、謝罪の言葉も無くただ一礼する。


「あなたを王の元へお返しする」


 レイスは不愉快そうにジョバンニを睨みつける。


「最悪の冗談だな」


 ジョバンニはレイスとの距離を詰めた。

 レイスは一歩退いて逃げようとしたが、ジョバンニの腕は彼女の手を掴んでいた。


「手を離せ!」


 怒鳴るレイスを無視して、ジョバンニは彼女の頬に手をやった。

 撫でるように滑らせる。

 極め細やかな肌は、手に吸い付くようだった。

 思えば、こうして彼女の頬に触れるのは初めてだな。

 思いながら、黒い仮面に手をかけて外す。


「殿下。長らく虜囚の辱めをその身に課し、さぞその心身を苦痛に苛まれたかと存じます。その苦痛から、今解放して差し上げます」

「何を言う! 何の茶番だ! そんな演劇のような言い回しをしやがって! この阿呆、離せ!」


 レイスはジョバンニを罵りながら、必死に抵抗する。

 しかし、ジョバンニの手は決して振りほどけなかった。

 彼女はそのままお姫様抱っこで抱き上げられ、連れて行かれる。


「馬鹿め! お前の考えはわかっているぞ! だが、そんな事を私が望んでいると思っているのか? 少しは解かれ、この馬鹿っ!」


 わめき続けるレイス。

 ジョバンニはその一切を無視した。

 言葉に耳を傾けず、黙々と彼女を運んでいく。

 彼女の声は、次第に小さくなっていった。

 最終的に彼女は、抵抗を諦めてジョバンニの胸に顔を埋めた。


「やめてくれ……頼むから……」


 最後に小さく呟く。

 ジョバンニにその声は届いていたが、彼は黙ったまま歩を進めた。




 ケイリッツの領主街。

 領主館にあてがわれたフィアンの自室にて。


 フィアンは固い表情で、窓から西の方角を睨み付けた。

 目視はできないが、その先にはマールの領主街があるはずだ。

 王の命により、降伏勧告の手紙を出した彼はこれから手紙の返事を待つ猶予期間をここで過ごさなければならなかった。

 手紙が帰ってこなければ、相手に時間を与えるだけだな。

 と、フィアンは皮肉っぽい事を考える。


 何故、自分が獣人を助けるような事をしなければならないのか。

 フィアンは不満に思うが、王の命令である以上、相手が降伏を受け入れない限り攻める事はできない。

 違えて攻め入れば、処罰を免れないだろう。


 だがもしも相手がこの降伏勧告に応じるなら、攻め入る事すらできずに戦は終わってしまう。

 自らの手で誅する機会がなくなってしまう。

 それは面白くない。

 会議室にノックの音が響く。


「入れ」


 促すと、一枚の紙を手にした副官が部屋に入ってきた。


「アランドの領主は、降伏勧告に応じるそうです」


 言って、持っていた手紙をフィアンに渡す。ジョバンニからの返答が書かれた手紙だ。

 フィアンはそれを受け取って、内容を確認する。

 全面的に応じるというものだった。


「これで、任務は完了ですね」


 淡々とした口調で副官は言う。

 その声音は、どこか不満そうだった。

 彼もまた、獣人を快く思っていない人間の一人なのだろう。


「……」


 フィアンは答えず、副官から視線をそらす。

 窓から、西へ目を向けた。


「人質とアランド領主の身柄確保は、私が直々に行く。それから、口の堅い者を集めてくれ」

「それはもしや……いえ、わかりました。選りすぐっておきます」

「身柄の引渡しは、川のこちら側。南方よりにある森で行う」

「はい。その様に、返答しておきます」




「まさか、ジョバンニがこんな強硬手段に出るとはな……」


 マール領主館の一室で、レイスはイラつきを隠さずに呟いた。


 彼女はアランドへ拉致された時と同じドレス姿で椅子に座っていた。

 後ろには櫛を持った獣人の侍女がおり、レイスの髪の毛を丁寧に梳いている。

 今の彼女には化粧も施されており、着々とあの日にあった綺麗なレイスの姿に変えられていく最中だ。

 ただし、表情だけは不機嫌そうに歪んでいた。


「侮ったな。人物考察とシミュレーションをしくじった。私の計算通りなら、ジョバンニはこんな事をしなかったはずだ。いや、時間経過による人格変化の誤差を正確に把握し切れなかったか……。何年も離れていれば、仕方ないか。イレギュラーもあるだろう」


 レイスは椅子の上に胡坐をかき、太腿を支えに頬杖を付く。

 しかし、どうしたものか? と思案を始めた。


 ジョバンニの事だ。

 アランドの領民と自分を天秤に乗せて考えているのだろう。

 もしかしたら、レイスの命もその天秤に乗せたかもしれない。


 が、レイスにとってそれは個人的に少し嬉しいだけで何の救いにもならない。

 その嬉しさを帳消しにして上回るくらいに、ジョバンニの打った手は最悪だ。


 フィアンはケアンと同じく、獣人を嫌悪するの人間の一人だ。

 獣人への嫌悪はケアン以上に強いかもしれない。

 指揮官としては凡庸なので戦う相手としては恐ろしくないが、今回の状況においては最悪の人選だ。


 王の事だ。

 口酸っぱく念を押しているだろうが。

 フィアンの場合は、王命よりも獣人への嫌悪が勝るだろう。


 しかし、公然と無視はするまい。

 流石に王は恐ろしいだろうから。

 なら、仕掛けてくるなら、身柄の受け渡し時だろうか……。


「くそ……」


 そこまで考えて、悪態を吐く。

 仕掛けてくる事がわかっていても、今のレイスには何もできない。

 黒死隊がいない以上、何も打てる手が無い。

 脱出する事も、アランド兵を制圧してジョバンニを拘束する事も、身柄の受け渡し地点でフィアンを返り討ちにする事もできない。

 できる事と言えば……。


「おい」


 レイスは侍女に声をかける。


「はい。何でございましょう?」

「ジョバンニがこれからどこへ行くのか、知らされているか?」

「存じております」


 やや暗い声音で侍女は答えた。


「場合によっては決裂して帰ってくる事になるかもしれない。決裂した際に備えて、軍の武装解除はしないよう家臣の誰かに伝えておけ」

「……はい。わかりました」


 少しためらってから、侍女は返事をする。


「それから、私の私兵が帰ってきたら、取引の場所へ向かわせてくれ。いや、取引場所までの道を捜索しながら来てもらった方がいいか」


 黒死隊が帰ってくるまでにどれだけかかるかわからない。

 場合によっては、すでにジョバンニとレイスは逃走を図っているかもしれない。

 なら、直接現場に来てもらうより、道の途中を捜索してもらった方が安全の確保をしやすいだろう。

 黒死隊が間に合わずに、ジョバンニ達が殺されている可能性も勿論あるのだが……。


「でもそれは……」


 侍女はためらう。

 黒死隊を現場へ向かわせれば、取引を潰されるのではないか、と思ったからだ。

 ジョバンニ本人からも、黒死隊に伝えないよう言われている。


「ジョバンニが死んでもいいのか?」


 しかし、レイスにそう言われると侍女の心は決まった。

 恐らく、ジョバンニの家臣達は主の判断を心から正しいと思っていない。


 愛すべき領主が命を散らす事に納得はできないだろう。

 だから彼を助ける手段を提示すれば、少しは協力してくれる。


 レイスのその判断は正鵠を射ていた。


「わかりました。伝えておきます」


 今、できる事はこれくらいだ。

 とレイスは両腕を組んだ。

 後は、運に身を任せるのみである。




 ケイリッツから返ってきた手紙には、取引の場所と時間、ジョバンニとレイスの二人だけで来る事という条件が書かれていた。


 馬車で夜の街道を行き、川にかかる橋を渡る。

 川に沿って南下すると、取引場所の森が見えてきた。

 森に到着すると、ジョバンニは御者台から降りる。


 馬車内に足を入れると、紐で手足をくくられ、猿轡をされたレイスを抱き上げた。

 かなり抵抗したのだろう。

 レイスの手足には紐の跡が赤く残っていた。


 ジョバンニはそれを見て、罪悪感を覚えた。

 後ろめたい気持ちを振り払い、森の中へと入っていく。


 木々の影のため、森の夜は平地よりも一層に暗かった。

 レイスは自分を抱き上げる腕の中からジッとジョバンニを睨みつけていたが、ジョバンニは目が合わないように前だけを見続けた。


 やがて、指定された場所へ辿り着く。

 そこは森の中の少し開けた場所であり、鎧を着た二人の男が立っていた。

 フィアンとその副官である。

 二組が対峙する。


「私はアランド領主ジョバンニ。約定を果たすために来た」


 声を張り上げる。


「よく来た。私はヘルシオン王国少尉フィアン=アバルトである」


 フィアンもまた声を張り上げて答えた。


「王女殿下の身柄は確かであろうな」

「確かです。解放します」


 ジョバンニはレイスの目を見ないように、手足の拘束を解く。

 解いたのと同時に、拳で軽く顎をかち上げられた。


 続いてどんな罵詈雑言が来るか、と覚悟しながら猿轡を解く。

 が、意外にもレイスは何も言わなかった。

 レイスは黙ったままジョバンニの前に立った。


 フィアンはレイスを見ると、表情を怪訝なものに変える。


「誰だ、その女は? 我々を謀る気か!」


 フィアンは怒鳴る。


「レイス王女殿下様だが、文句があるか? お前とは去年の建国祭で面識があるはずだぞ」


 腕を組み、泰然とした様子でレイスは答えた。


「何だと? 王女殿下は貴様のような顔では無い」

「いつも髪で顔を隠していたというのに、何故貴様が私の顔を知っているというのだ」


 フィアンは言葉に詰まった。


「馬鹿な……本当にレイス殿下だというのか……」


 フィアンは呟くように言う。

 まだ懐疑的ではあるが、完全に否定する事もできないのだろう。


 一応、自分がレイスであるという事は示せた。

 レイスは内心でホッとする。


 貴族の子弟から言い寄られないように、顔を見せなかった事が仇になった。

 信じられなければ、問答無用で殺されていたかもしれない。


 だが、本人だと認められれば不用意に手は出せないだろう。

 レイスはジョバンニを二人の視線から庇うように前へ立つ。

 この小さな体も今は盾くらいになる。


「まあいい。誰何すいかなど知った事ではない。どうであれ、同じ事だ」

「何だと?」


 フィアンの言葉にレイスは眉根を寄せた。


「あの、それはどういう――」


 ジョバンニは言いかけて、言葉を途切れさせる。

 そして、すぐにレイスを抱き締めた。

 フィアン達に背を向け、庇うように。


 次の瞬間、彼の背中に数本の矢が刺さっていた。


「ぐあああああぁ……っ!」


 ジョバンニは悲鳴をあげる。

 その体が瞬く間に力を失って、うつ伏せに倒れこんだ。


「ジョバンニ?」


 足元に倒れたジョバンニを見下ろし、レイスは名を呼んだ。

 彼の背に刺さる矢を見て、何が起こったか悟る。


 見回せば、木々の合間から弓を構えた兵士達の姿が見えた。


 フィアンを睨みつける。

 内心をジョバンニが撃たれた事への不安で満たしながら、威圧的に言葉を発する。


「王女である私に弓を射るとは、どういうつもりだ!」

「あなたを射たのは私ではない。アランドの兵だ」

「アランドに責任をなすりつけるつもりか?」


 なるほど。

 こう仕掛けてきたか。

 身柄の受け渡しと言いつつ、暗殺するつもりらしい。


 何故そんな事をするのか?

 理由は簡単だ。


 フィアン自身が獣人を滅ぼしたいと思っているからだ。

 今回の取引で、アランド領が存続する事。

 それが許せないのだろう。


「アランド兵はあなたを餌に、我々をだまし討ちにした。我々はアランド兵を殲滅したが、王女殿下は乱戦の最中に命を絶たれた。そういう事です」


 木々に隠れていた兵士達がレイスの方へ歩いてくる。


 レイスは歯を噛締める。

 自分の予想は当たった。

 全貌も理解できた。

 しかし、わかった所で自分には何もできない。それが悔しかった。


 ジョバンニを見やる。

 背中に何本もの矢が刺さっている。

 ヘッズの遠射を受けた時とは違う。

 矢じりは深く背中に刺さっていた。


 お前がここで死ぬのなら、私がここで死ぬのも良いか。

 そう思うと、本望な気がした。


 レイスは目を閉じる。

 兵士達はそんなレイスへとにじり寄ってきた。

 兵士達が剣を振り上げる。


「ぎゃあっ!」


 次の瞬間、兵士の一人から悲鳴が上がった。

 レイスが目を開けると、倒れていたはずのジョバンニが兵士の胸を爪で刺し貫いていた。

 襲い掛かる兵士達を振り払うように、腕を振り回す。

 そして、兵士が怯んだ隙にレイスを抱き上げた。


「ジョバンニ!」


 ジョバンニは兵士の囲みを破って、元来た道を走り出す。


「くっ! 逃すな!」


 フィアンは兵士達に命令を発する。

 兵士達が逃げたジョバンニを追い駆ける。

 しかし、獣人の走力に普通の人間が追いつけるはずもなかった。

 追いつくどころか、距離はだんだんと離れていく。


「無理をするな、ジョバンニ!」


 走るジョバンニからは大量の血が撒き散らされていた。

 この場を逃げられても、そのせいで死んでしまうかもしれなかった。


「大丈夫だよ。君だけは無事だから」

「そういう話じゃない! お前が生きなければ意味がないだろう!」

「いいんだ」


 ジョバンニは力なく笑って答えた。


「よくない!」


 レイスの怒声を無視して、ジョバンニは走り続けた。

 森を抜けて川へ出る。

 辺りを見回すが、馬車が見当たらない。

 どうやら、逃げている内に来た時と別の場所から出たらしい。


 ジョバンニはためらう事無く川へ入る。

 川は広いが、深さはジョバンニの腰ほどだ。

 渡れない事はなかった。


 ただ、冬の川はあまりにも冷たい。

 極寒に流れる水が、ジョバンニの肌を刺した。

 容赦なく熱を奪い、体力が削られていく。

 寒いはずなのに体が熱を発し、息が荒くなっていく。

 兵士が追いつき、矢を放ってくる。

 ジョバンニの近くの水面に矢が突き刺さり、沈んでいった。


 レイスに当たらないようギュッと抱き締めながら、ジョバンニは渡河の速度を上げる。

 渡河に成功し、対岸へ上陸した。

 血の混じる水が体中から落ち、パタパタと川原の石を叩いた。

 流れる血を水と共に振り払い、また駆け出す。

 距離を稼ぎたい一身で、彼は走り続けた。


 もしこのまま自分が死んでしまっても、彼女が逃げ切れるように……。


「ジョバンニ、寝るんじゃないぞ?」


 レイスに言われて、自分の視界が段々と狭くなっている事に気付いた。

 限界は近いかもしれない。


「もうこうなったら、立ち止まるな。ここで止まったら、本当に死んでしまうからな」

「わかっているよ。レイスだけでも、無事に帰ってもらわないと――」

「馬鹿が! お前も一緒だ!」


 ジョバンニが言い切る前に、レイスが怒鳴る。


「私は無駄が嫌いだ。お前に死なれたら、私がアランドへ来た意味がなくなる。私の行動を無駄にするんじゃないぞ」

「……うん、ごめんよ。レイス」

「謝るな。お前はまだ、生きているじゃないか。謝るなら、死んでからにしろ」

「うん。だから、ごめん、なんだ……」


 言い終ると同時に、ジョバンニの体から力が失われた。

 ジョバンニの体が傾き、倒れ、レイスはその腕の中から転がり落ちる。

 立ち上がり、彼に近づく。


「ジョバンニ?」


 返事は無い。


「ジョバンニ……」


 二回目の呼び掛けは、声が震えた。

 頬を叩き、脈を計る。

 意識は無いが、死んではいない。

 レイスは安堵した。


 しかし、冥界に呼ばれるのは時間の問題であろう。

 レイスはジョバンニの肩を担ぎ、負ぶった。

 そして、緩やかに歩き出す。


 身長が足りず、ジョバンニの足は引きずってしまう。

 ジョバンニの重い体に、レイスの体は悲鳴を上げている。

 降り積もった雪は歩む事すら困難で、靴に入り込んだ雪は足を責め苛んだ。

 冷たさは痛みに変わり、その痛みも次第になくなり始めた。

 そもそもの感覚がなくなり、歩いているという実感すらなくなりつつあった。

 だから容易に転んでしまう。


 だがそれでもレイスは立ち上がり、歩き続けた。

 何度転んでも、どれだけ意識が朦朧としていてもジョバンニを負ぶって歩き続けた。


 月と星に見下ろされながら、どれだけ歩いただろう。

 肩越しに伝わるかすかな心音は、次第に弱くなっていく。

 それを感じた彼女の胸中に焦りが広がる。


 冬の寒さや、足の痛みなどよりも、彼を失う事が怖かった。


 だが今は、歩き続ける意外に彼を助ける方法はない。

 だから彼女は、歩き続けた。

 どれだけ辛くとも、歩く事を止めなかった。


 そんな時、馬蹄が地面を蹴る音が聞こえて来た。

 敵だろうか? ちらりと考え、体を強張らせる。

 が、馬蹄の音は前方から聞こえる。

 視界を上げると馬が一騎、こちらへ走って来ていた。

 馬が近付くにつれ、レイスの心の緊張が解れていく。


「マーティか……」

「姫殿下!」

 マーティは二人を見つけると、声を上げて近付いてきた。




 どうやら、生きているらしい。


 目覚めたジョバンニが最初に思ったのは、その一言だった。


 ボーっとする。

 体も重い。

 多分自分は、ベッドの上にいる。

 だって、天井が見えるもの。


 実際にジョバンニはベッドに寝かせられていた。

 体は包帯でグルグル巻きだ。

 それ以上の事を知るために、ジョバンニは起き上がろうとした。


「寝ていたまえ」


 しかし、声がそれを制する。

 ジョバンニは枕に頭を落とし、声のした方へ向く。

 レイスがベッドの側らで、椅子に腰掛けていた。


「僕は、どうして助かったの?」

「マーティが迎えに来てくれた」


 レイスがジョバンニに連れられて取引場所へ向かった後、黒死隊の数名がマールに到着した。

 そして、レイスが言付けを頼んでいた侍女から命令が伝わり、帰還した黒死隊全員で捜索に出た。

 入れ違わないようバラバラに捜索し、参加していたマーティが彼らを見つけたのである。


「そうなんだ。後で、お礼を言わなくちゃ」


 王都の学校にいた時から彼には助けられてばかりだ。

 ジョバンニはしみじみと思う。

 ふと、レイスの顔を見る。ジョバンニは小さく驚いた。


「レイス……。君、泣いたのかい?」


 レイスの目が赤く、その周辺が腫れていた。

 だから、そう思って訊ねる。


「どうして?」

「お前のせいだ」


 レイスは不機嫌そうに答えた。


「僕の?」

「私を泣かせられる者が、お前以外に存在するものか」


 レイスはジョバンニの鼻の頭を指で弾いた。


「お前は本当に頑丈な奴だな。正直に言って、もう助からないと思っていたんだぞ」

「ごめんね。レイス」

「もっと詫びろ。私を信じなかった事を重点的にな。私は怒っているんだ。わかっているのか?」

「うん。ごめんなさい」


 レイスは溜息を吐いた。


「本当に心配したんだ。……私は無駄が嫌いだからな」


 呟くように言う。


「じゃあ、私は行くぞ。忙しいからな。君は大人しく寝ていたまえ」


 レイスは立ち上がろうとする。


「待って」


 ジョバンニはそんな彼女を引き止めるように口を開いた。

 彼女は椅子に座りなおす。


「何だ?」

「ねぇ、レイスって僕の事好きなの?」

「ばっ、お、お前は何を言っているんだ」


 脈絡の無いジョバンニの問いに、レイスは珍しく取り乱した。

 すぐに落ち着きを取り戻し、顔を歪めて冷ややかな目をジョバンニへ向ける。

 しかし、ジョバンニはその目を真っ向から見詰め返して、答えを待った。

 レイスは根負けしたように溜息を吐き、答える。


「そう思いたければ、思っていればいい」


 否定も肯定もしない。

 彼女は照れているのかもしれなかった。


 けれど、ジョバンニは気付いていた。

 優れた獣人の聴覚は、レイスがジョバンニに接する時の心音を聞き取っていた。

 彼女はジョバンニに近づくと、鼓動が少し早くなる。


 そして、甘い匂いを発する。

 恋をしている人間の特徴だ。

 だから、彼女はそうなんだろうな、とジョバンニは思っていた。

 この機会に、それを確かめてみる事にしたのだ。


「じゃあ、それを前提にして聞くけど、どうして好きになってくれたの?」

「その前提を仮定に話してやろう。自分の言葉を理解しようとしてくれたからじゃないか?」

「そんな事で好きになるの?」


 ジョバンニに問い返されて、レイスは苦笑する。


「そうだなぁ。例えばの話だ」


 その言葉を枕に、レイスは語りだす。


「少しばかり頭の切れる女の子がいたとしよう。そんな彼女の周りには、理解力のない馬鹿ばかりがいた。女の子は正しい事を言っているのに、それが正しいかどうかも判断できない馬鹿ばかりだ」


 それはレイス自身の話をしているのだろうな、とジョバンニは思った。


「しかも理解できないどころか、その馬鹿共は次第にその女の子の頭がおかしくてだからわけのわからない嘘を吐いていると思うようになっていった。

 女の子は本当の事を言っているのに、嘘つきに仕立てられてしまったわけだ。

 だから女の子はいつも一人だ。

 周りに人は多くいたけれど、誰も自分の事を信じてくれない。

 わかってくれない。わかろうとしてくれない人間ばかりだった」

「それで?」

「そんな時だよ。

 自分をわかろうとしてくれる奴が現れた。

 そいつは馬鹿に違いなかったが、素直な馬鹿だった。

 ちゃんと自分の話を聞いて、わからないなりにわかろうとしてくれた。

 そんな奴は、後にも先にも一人だけだ。

 他にも同じような奴が彼女の前に現れたら、どうかわからないが。

 彼女にとってその一人は、特別な一人になったんだよ」

「……やっぱり、わからないよ。そんな事で好きになってくれるなんて。それに僕は獣人だし……」


 レイスは苦笑する。


「彼女は、世界で一人きりだったんだ。

 人は多くいても、彼女という種族は彼女一人だけだった……。

 自分以外は別の種族なんだから、相手がどんな種族であろうとも関係なかったんだ。

 ……お前は知らないだろうな。

 人に理解されないという事がどういう事か。

 自分の知っている事を誰も知らず、説明しても理解されない。

 理解しようともしてくれない。

 それはとても孤独で寂しい事なんだよ」


 確かにそうかもしれない、とジョバンニは思った。

 獣人であるという事で人に虐げられる事はあったけれど、ジョバンニは一人じゃなかった。

 いつも、そばに誰かがいた。

 アランドの獣人達は自分を慕ってくれたし、マーティだっていた。


 けれど彼女は違った。

 彼女の近くには同じ人間が多くいたけれど、その中でも理解されない異端だったのだ。

 ずっと、そんな中で孤独感を味わい続けてきたのだろう。


 そんな中でジョバンニは、彼女にとって孤独の中で縋り付くしるべだったのだ。


「そうなんだ……」

「ああ。だから自分を理解される事はとても嬉しいんだ。それこそ、命の危険がある場所へ飛び込んででも、相手を助けてやりたくなるくらいには好きになってしまうんだよ。君がいない人生に、私はどんな喜びを見出せばいいのかわからないから……」


 レイスはとても優しい声音で、柔らかい笑みを浮かべて諭すように続けた。

 ジョバンニはその表情に見惚れ、黙り込む。

 すると、反応が無い事を恥ずかしく思ったのか、レイスの顔が次第に赤く染まっていった。


「じゃあ行くぞ。お前はじっくり休んでいろ。よく眠って、さっさと傷を治せ」


 半ば怒鳴るように言うと、レイスは今度こそ立ち上がった。

 踵を返す。


「わかった。ありがとう」


 首を巡らせて笑みを見せると、レイスは部屋を出て行った。

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