2話 証明される空論
アランド領はヘルシオン王国の中でも一番新しく生まれた領である。
初代の領主はジョバンニの父であるセルヴォ。
そのセルヴォがヘルシオンから領主を任じられるまで、アランド領は獣人の集落が集うただの森林と山に過ぎなかった。
かつてヘルシオン王国は、鉱石や木材などの豊かな資源のあるその地を欲した。
そこに住む獣人達を武力によって排除し、領地にしようとしたのである。
が、セルヴォは数多あった獣人の部族を纏め上げる事で王国に対抗。
森林というホームグラウンドで、組織的な作戦を用いて戦う獣人は強かった。
それは王国の強大な戦力を以ってしても、崩せないほどの勢力だった。
戦いを続ければ大きな消耗を免れないと判断した王国は獣人達と和解し、旗頭であったセルヴォに男爵の地位を授ける事で懐柔する事にした。
セルヴォはその和解に応じた。
こうして獣人達の住処はアランド領となり、セルヴォは領主となったのである。
そして王国は、セルヴォを王国の人間として取り込む事で強引に土地を手に入れたのである。
領主に任じたとしても所詮は獣人。
土地の運営などできるはずもない。
だから、人間の官吏を送り込めば簡単に操れる。
そうして、通常よりも安い値で資源を買い叩く。
王国にはそんな侮りと思惑があった。
しかしセルヴォは王国の思惑とは裏腹に、聡明な獣人だった。
領地の運営に関する知識をすぐに修め、アランド領の運営を一人で一手に引き受けるまでになったのである。
彼の政治手腕は一般的な人間の領主と比べても大変優れたものだった。
獣人の教育にも力を入れ、次第に政治へ関わる事のできる人材も育てた。
資源を盾に王国からの理不尽な要求もことごとくかわし、逆に最大限の譲歩をさせるほど交渉にも長けていた。
気付けばアランド領は、国内でも有数の富める領地になっていた。
セルヴォの作ったアランドをジョバンニが継いだのは二年前。
十六歳の時の事だ。
セルヴォは王都ヘルシオンにおいて死んだ。
死因は、泥酔した末に生活用水路へ落ちて溺れたからだという。
実はセルヴォをよく思わない貴族による暗殺ではないか、という噂が実しやかに囁かれた。
セルヴォさえいなければ、今度こそアランドの領地を好きにできると考えた人間は少なくないからだ。
しかし、もしそのような思惑があったとしても実現はしなかった。
何故なら、息子のジョバンニもまた優秀な人間だったからである。
彼は王都で五年間学校に通い、父からも英才教育を受けていた。
真面目に学んだ彼は、経験少なくとも優秀な為政者として育っていたのだ。
ただ、その自分の優秀さが今回の危機を招いた事は間違いなかった。
この国において、獣人が優秀すぎる事は罪なのだ。
「これはまた盛大な眺めだな」
レイスは眼前に広がる光景を眺め、感想を語る。
彼女の前には、広大な草原が広がっていた。
ここはマール平原。
マール領とアランド領の中間にある場所だ。
そして今、このマール平原にて一万五千の軍勢が陣を敷いていた。
陣を敷くのはヘルシオン王国の兵士達だ。
対して七千のアランド兵が、森を背中に陣を敷いている。
レイスとジョバンニは、その中央最後尾にいた。
すぐ後ろに森の木々が見える場所である。
二人の周りには、数人の黒死隊が護衛としてついていた。
「そうだね。怖いくらいだよ」
ガチガチに緊張した様子で、ジョバンニは答えた。
「お前は顔に似合わず肝が小さいな」
と、レイスは恐れを感じさせない口調で返す。
この光景を見て、心が竦まない方がおかしい。
ジョバンニは心の中で反論する。
ジョバンニはレイスの顔をうかがった。
そして、うかがった所で無駄な事を思い出した。
彼女の顔には仮面がある。
その上、金髪はオールバックで固められ、服装も煌びやかな男物に代わっていた。
「どうして男装なの?」
「私の正体がばれないようにするため。あとは、目立つためだ。この姿が多くの敵に見られるように、な」
仮面と輝く金髪と派手な男服。
その取り合わせは確かに目立つだろう。
「それって、どんな意味があるの?」
「私という存在を相手に認識させるためだ。長期的に見れば、相手の戦意を挫くため。だが、今回の戦いに関してだけならば、純粋に相手から見つけやすくしてやるためさ」
「レイスを見つけた人間は、その隣にいる僕も見つけやすいって事?」
「その通りだ。そして、それが今回大事な事はわかっているな?」
ジョバンニは頷いた。
すでに、レイスから今回の作戦概要を聞かされている。
それを考えれば、この戦場で誰よりも目を引いておく必要があった。
レイスは自分自身をその目印にしたのだ。
「レイス。上手くいくかな?」
「上手く行かなくても負けない。安心しろ」
ヘルシオンの将、ケアンは眼前に見えるアランド兵の陣を睨みつけた。
三日月形になった森と平原の境目に合わせ、その陣もまた三日月のように敷かれている。
「獣人共め。ヘルシオンの土地を拝領許された事に飽き足らず、再度牙を剥くとはな」
睨みつけたまま、侮蔑の言葉を吐き捨てた。
ケアンは自他共に認める保守的な人間である。
元来、ヘルシオンにおいて獣人は人間では無い。
せいぜい、奴隷として人間の役に立つためだけの存在だ。
でなければ獣人に存在価値などなく、むしろ駆逐するべき汚らわしい生き物だ。
だからこそ、保守的なケアンにとって、アランド領の存在は許されざるものだった。
獣人が栄えあるヘルシオンにおいて領を持つ。
それは獣人を人間と同等に扱うという事だ。
それが許せなかった。
「良かったではないか。牙を剥いてくれたおかげで、自ら誅する機会を得たのだから」
ケアンの溜飲を下げるように、後ろから歩いてきた男は言った。
ケアンは細身で生真面目そうな顔の男である。
対して、彼に声をかけた男は身長が低い代わりに、がっしりとした筋肉質の男だった。
髪は赤く、顎には同じく赤い髭が生えている。
彼の名はエリオル。
ケアンの長年の相棒であり、歴戦の猛将である。
彼はケアンと違って、それほど獣人に偏見を持ってはいない。
世にあるものはあるがままに受け入れる性質の人間だった。
目の前の軍勢も、獣人としてではなく純粋に敵としてしか認識していなかった。
今のケアンにかけた言葉も、彼の怒りを少しでも和らげるためのものでしかない。
「それもそうだ。馬鹿な獣人共が、こちらへ突撃してくる事を願おう」
「たまにはそちらから攻め入ってみてはどうだ? いつも思うが、その方が手っ取り早いぞ」
ケアンは首を横に振った。
「自分の得手不得手は心得ている。それも部下の命がかかるとなれば、あえて不得手を選びはしない」
「まぁ、そうだな。俺も守るのは苦手だ。だから、今回も頼んだぞ」
「任せろ。お前の背後は誰にも脅かさせない」
答えつつ、ケアンはエリオルに感謝する。
彼が自分の怒気を和らげるため、言葉をかけてくれた事にケアンは気付いていた。
エリオルは勇猛な将であるが、こういった繊細な気遣いができる男でもある。
だから部下達からの信頼も厚く、人気があった。
長く一緒に戦ってきた事もあり、ケアンはエリオルに友情を覚えていた。
彼の言葉には何度も助けられてきたのだ。
気持ちに収まりがついた所で、今一度アランドの陣を眺める。
今度は冷静な目で、相手の戦力を測るためだ。
アランドの兵士の装備は、皮の鎧と鉄の中盾、そして長めの槍だ。
自分達の率いるヘルシオンの兵と比べて、かなり貧相だ。
ヘルシオンの兵士は騎兵も歩兵も皆、鉄の甲冑を身に纏っている。
歩兵には大盾と十字槍もしくは弓を持たせ、騎兵には馬上槍をそれぞれに持たせている。
恐らく装備の貧弱さは財政的な理由によるものだろう。
少なくとも、それを見る限りではヘルシオンの勝ち目しか見えない。
問題は、その陣形だ。
「エリオル。あの陣をどう見る?」
アランド兵は、森を背負う形で横長の陣を敷いていた。
「騎兵の突撃を封じているんだ。いやらしい事にな」
エリオルは簡単に答えた。
「私もそう思う。あれでは迂闊に突撃できない」
アランド兵は森を背にしている。
あの状態で騎兵による突撃をかければ、騎兵は森に入らざるを得ないだろう。
森の中では、馬の機動力を生かせない。
それどころか、大きな馬体が身動きを阻害し、長い馬上槍もとり回しが難しい。
騎兵にとって、森という場所は死地に等しかった。
それだけでなく、森はアランド兵にとって一番戦いやすい場所でもある。
かつて、セルヴォとヘルシオンが戦った際にも、森林部での戦いで獣人達は多くの被害をヘルシオンへもたらしたのだ。
森に入ってしまえば、人間に勝ち目は無い。
アランド兵はそれを狙って、森を背にした陣形を取っているのだ。
「ま、俺には通用しないがな」
事も無げにエリオルは言ってのける。
それを聞いて、ケアンはエリオルを睨みつけた。
「まさか、無理やり突撃するつもりではないだろうな?」
「流石にそこまで馬鹿ではない。ただ、あんな事で騎兵を殺せたと思ってる奴らに一泡吹かせたいと思っているだけだ」
本当だろうか? こいつならやりかねない、とケアンは少しだけ不安に思った。
「ならいいがな。誘い込まれる事もある。気をつけろ」
「ああ、わかってる。じゃあ、そろそろ行ってくるか」
エリオルは兜を被り、騎兵隊の待機する場所へ向かった。
「動きだしたな」
ヘルシオンの陣を見ながら、レイスは呟く。
それを耳にして、ジョバンニの緊張が最高潮に達した。
もう、言葉を返す余裕すらない。
そんな彼の腕に、レイスは抱きついた。
「……レイス?」
驚く余裕すらなく、ジョバンニは躊躇いがちな声で訊ね返す。
「安心しろとは言わない。お前はそのままでいい。怯えて足が竦んでいても、私があるべき場所へ腕を引いて連れて行く」
レイスの言葉で、少しだけ緊張が解れた。
それと同時に、ヘルシオンの兵士が動いた。
動き出したのは、エリオルの率いる騎兵隊三千だ。
「防御陣形!」
レイスがよく通る声で号令する。
陣の小隊長達がその声を復唱し、兵士全体に命令が行き届く。
エリオルは陣の左翼側へ向かった。
「流石に、最初から突撃は仕掛けてこないか」
レイスは呟く。
ケアンの歩兵隊を見ると、まだ動いていない。
エリオルの動きを見てから判断を下すつもりらしい。
エリオルが左翼と接触する。
左翼の前面に一当てすると、方向を左側に転換して陣の表面をなぞるように駆け出した。
陣の表面を削るように、攻撃を仕掛けながら駆けていく。
攻撃の効果は低いが、機動力を生かせる戦法だった。
とはいえ、最初に一当てされたアランドの左翼にはかなりの被害が出たようだ。
防御に徹させていなければ、もっと被害が出ていただろう。
エリオルの騎兵隊が中央に差し掛かる寸前、数十の騎兵が転倒した。
レイスは陣の前方に、申し訳程度に虎バサミを配していた。
それに引っ掛かった運の悪い騎兵が落馬したのだろう。
その落馬に巻き込まれ、さらに被害は増える。
エリオルの一団が過ぎてから、落馬した騎兵達をアランドの歩兵が槍で丹念にトドメを刺していった。
先頭を駆けていたエリオルが中央に差し掛かる。
レイスとエリオルの目が合った。
エリオルは忌々しそうな顔でレイスを睨みつけていた。
レイスは相手を見下すようないやらしい笑みを返す。
一瞬の邂逅だったが、二人は互いを認識した。
エリオルは虎バサミを怖れて離脱する事なく、右翼まで陣の表面を削りながら駆けていった。
「僥倖だ。喜べ、ジョバンニ」
「君の計画通りなの?」
「ああ。見たか? あの顔を。してやられた事に余程腹を立てたようだぞ。獣人如きに、被害を出されて怒っている。もっと、被害を少なく抑えるつもりだったんだろうな」
レイスは意地の悪い笑みを作って、楽しげに言う。
「じゃあ、こっちに来る?」
「間違いなかろうな。負けないだけでなく、勝ちまで拾えそうだ」
なんたる事だ。
エリオルは心中を後悔と怒りで満たした。
アランドの罠にまんまと引っ掛かってしまった。
罠がある事は予想できたはずなのに、獣人相手という事で侮りすぎた。
その侮りが目を曇らせ、兵士を無為に消耗させてしまった。
しかも、その間際に彼は見た。
敵方の陣にいる人物の姿を。
黒い仮面をつけた矮躯の男だ。
恐らくは人間。
何故人間がアランドの陣にいるのか不思議だった。
だが、それ以上に敵意を懐かせた。
あの男は自分と目が合い、いやらしく笑った。
こんな罠も見抜けない間抜けが。
と、嘲笑していた。
その表情を思い出すと、エリオルの中の怒りがさらに増すようだった。
あの男に目掛けて、突撃をかけてやりたい気分になる。
駄目だとはわかっているが、ちらりとでも考えてしまう。
しかし――
「集合せよ!」
本当にそれは不可能だろうか?
一度相手の陣から離れ、エリオルは部隊をまとめ直した。
アランドの陣を今一度眺める。
今の一撃で、思った以上の戦果が上がった。
それは予想外に、アランドの兵士が弱すぎたためだ。
武器の取り回しも下手で、少し突けば容易く混乱する。
そもそも、兵士としての気概が感じられない。
恐らく、急いで徴兵された兵士達が多いのだろう。
ならば、押し切れるのではないか?
と今しがた戒めた自分の考えが鎌首をもたげてくる。
いや、いける。
この程度の相手ならば。
そして彼の疑念は確信に変わった。
「皆の者、突撃するぞ!」
エリオルが号令すると、騎兵達は槍を天に突き上げて「「おうっ!」」と叫びを上げた。
「全員、突撃! 目指すは陣中央! 大将首をあげる!」
仮面の男の横には、身なりのいい貴族服の獣人が立っていた。
恐らくあれがアランドの領主、ジョバンニ=アランドなのだろう。
あの鼻持ちならない男のついでに、領主の首もいただく。
一度の突撃で大将の首を挙げれば、背後の森など関係ない。
大将を討たれた瞬間に戦は終わるのだから。
エリオルを先頭に部隊が突撃する。
深々と陣を貫くために、騎兵隊は釘のような細い陣を形成していた。
接敵すると、いとも容易く部隊は陣の中へ埋没する。
獣人の兵士は弱く、槍を振る度簡単に討ち取れた。
突撃は驚く程の効果を上げる。
エリオルは仮面の男を探した。
遥か遠くに、金髪の後頭部が見えた。
男は護衛の兵士達と共に、森の方へ後退していた。
「逃げようとしているのか! 卑怯者め!」
エリオルは激する。
が、すぐに気持ちを静めた。
あれはケアンの懸念していた誘引の計かもしれない。
槍を振って、獣人の命を散らしながら考える。
しかし、その罠にかかったとして問題があるのだろうか?
獣人の兵はあまりにも弱い。
簡単に命を取れる。
まるで、ただの道を行くようだ。
森の中の獣人は強いというが、それも疑わしく思えてしまう。
突撃の勢いが止まらない。むしろ増していく。
エリオルはこの勢いを殺したくなかった。
「皆の者! 俺に続け!」
悩んだ末、エリオルは突撃を続行する事にした。
「すごい。レイスの言った通りだ」
突撃してくるエリオルを見て、ジョバンニは感心した。
「ここまでは、な。まだだ。まだ、成功じゃないんだから笑うな」
うくく、とレイスは口を押さえて、笑いを噛み殺しながら言う。
どうやら、自分に言い聞かせるための言葉らしかった。
「さぁ、逃げるとするか。エリオルの突進力は強い。瞬く間にここへ迫るぞ」
すぐに気を取り直し、レイスは言う。
ジョバンニの手を引いて、森へ向けて走り出す。
「中央、後退する。全軍に通達。各自、作戦の成功を目指して行動せよ!」
森へ向かう間際、号令する。
レイスとジョバンニは森へ向かい、それを守るために黒死隊とアランドの中央部隊が後退を始める。
それから程なくして、走っていたレイスの息が荒くなり始めた。
あまり走り慣れていないのだろう。息苦しそうだ。
ジョバンニはレイスに掴まれた腕を振り払う。
驚いて振り返るレイスだったが、ジョバンニは戸惑う彼女の背と足を持って抱き上げた。
お姫様抱っこである。
「何をする!」
「何で怒るのさ。辛そうだったからだよ。顔も真っ赤じゃないか」
「……そうだな。そうだ。正直に言えば辛かった。余裕があるなら、このまま走りたまえ」
余裕も何も、レイスの体はびっくりするくらいに軽かった。
負担は殆ど無いに等しい。
レイスはジョバンニの肩越しに後ろをうかがった。
一列に並んだ兵士達が、複数に分かれて森の木々を縫うようにしてついて来ていた。
まるで、それぞれが特定の道を選んで進んでいるかのような行軍だ。
レイスは上を見る。
森の木々に生い茂る葉っぱの天井から、木漏れ日が覗いていた。
木漏れ日は薄暗い森の地面に、まだらの模様を描いている。
そんな中、一本の木に白い塗料が塗られているのを発見した。
「止まれ、ジョバンニ。各員、持ち場に着け!」
ジョバンニの足を止めさせ、後を追ってきた兵士達にも号令する。
ジョバンニは立ち止まり、兵士達は予め決められていた持ち場へと移動した。
木々を障害物に、陣形を組むような形である。
今しがた来た道を振り返れば、馬蹄の音が聞こえた。
かなり小さく、馬を駆けさせるエリオルの姿が木々の合間に見える。
その後ろからは、彼の部下である騎兵隊が追随していた。
レイスが言う通り、エリオルの追撃は早かった。
それは彼の手腕もさる事ながら、あえてレイスが平原の兵士達に突破させたのも理由だ。
レイスは予め、アランドの兵士達に言い含めていた。
エリオルが後退する中央部隊を追うようならば、個々人の防御に努めて被害を抑えつつ、道を通してやれ、と。
レイスは口の端を歪めた。
かと思えば、その笑みは大笑いに変わる。
「ははは、見ろ! アホ共が釣れたぞ!」
ジョバンニの首に腕を引っ掛け、彼女は「それ見ろ」と言わんばかりにもう一方の手で敵の一団を指す。
首に強く腕をかけられて、ジョバンニは「ぐえ」と小さく声を漏らした。
彼女が指すのは今まさに、こちらへ向かってくる騎兵隊だ。
そして、子供のようにはしゃいで笑っていた。
「自分を過信しすぎだ馬鹿共め! 相手を侮りすぎだ無能共め! あっははははは!」
狂笑とも取れるその笑いに、ジョバンニは少しの恐ろしさを感じた。
けれど、こうまで予定通りにいけば、確かに大笑いしたくなるのもわかる。
自分だって彼女ほどでないにしろ、上手く行き過ぎている今の状況に楽しさを覚えていたのだから。
レイスが見ている中、騎兵隊の一角が崩れた。
馬が転倒し、騎兵が落馬する。
その被害自体は微々たる物だったが、それを皮切りに騎兵達が次々に落馬を始めた。
レイスはおもむろに手を上げる。
そして、号令と共に勢いよくその手を下げた。
「強襲! 始め!」
彼女が叫ぶのと同時に、騎兵達の頭上から弓矢が降り注いだ。
木々の上には、マーティの率いる黒死隊とアランド兵の混合部隊が配置されていた。
たとえ森に伏兵があったとしても、アランドの兵の実力ならば十分に蹴散らせる。
エリオルはそう思っていた。
思っていたからこそ、森まで追撃した。
しかし、現実は彼の予想から逸脱する。
背後をついて来る部下達が、次々に落馬を始めた。
理由は様々だ。
虎バサミに足を取られて馬が転ぶ。
足だけが嵌る小さく浅い穴に太い杭を一本埋め込んだ落とし穴を踏み抜き、馬が転ぶ。
黒塗りの縄を木々の間、それも丁度騎手の体の位置に張られた物に引っ掛かる。
太い杭が木々の合間に乱立していて、足止めを食らう。
森の中には、様々な罠が数多く仕掛けられていた。
それと同時に、木々の上に潜んでいた伏兵により多くの弓や槍、大石などが飛来した。
飛来するそれらは、落馬した者にも罠を免れた者にも等しく死を与えていく。
今やその場は、騎兵隊にとっての地獄絵図だ。
何故、自分は追撃を選択してしまったのだろうか?
エリオルの心に後悔が去来する。
罠がある事も十分考えられたはずだ。
なのに追ってしまったのは、追わざるを得ないと思ってしまったからだ。
虎バサミで虚仮にされ、仮面の男に嘲笑され、自分は憤った。
そして、アランドの兵があまりにも他愛無かった事で歯止めを外したのだ。
思えばそれは、相手の策略だったのかもしれない。
相手の感情まで組み込んだ、高等な策略だ。
いつの間にか、逃げていたはずの中央部隊が騎兵隊を迎え撃つ形に陣を敷いていた。
中央部隊からも槍が投擲される。
すると、上からの攻撃が止む。
その後に、中央部隊は突撃してきた。
アランドの兵士は、先ほど蹂躙されるだけだった時と違った。
機動力を失った騎兵に比べ、獣人達は森の木々を利用して上手く立ち回っていた。
持ち前の爪や牙を用いて樹木で身を隠しながら、隙を見せた者を的確に刈り取っていった。長い馬上槍が完全な裏目になり、まともに戦う事もできない。
獣人の猛攻を前に、騎兵達は嘘のように命を散らされていく。
それが森の中で戦う獣人の強さだった。
エリオルにも獣人達が殺到する。
何とか戦えているが、いつまでも持ちそうになかった。
「退け!」
これ以上、留まっても何もできない。
無駄に兵が死ぬだけだ。
そう判断して部下に最後の号令をする。
しかし、エリオル自身は後ろをかえりみようともしなかった。
この失態の責任を自分の命で贖おうと思った。
大将さえ殺せば、戦は終わるのだから。
エリオルは前を凝視する。
かすかに見える、仮面の男とジョバンニの姿を睨みつける。
そして、馬を駆けさせた。
獣人達の攻撃を防ぎつつ、それでも体に傷を負いながら。
自分も愛馬も傷だらけになって、仮面の男へと迫る。
途中、罠に足を取られて、愛馬は盛大に転がった。
エリオルは落馬しながらも体勢を整え、自分の足で走り出す。
仮面の男の姿がはっきりと見えるほどに迫った。
「その命、貰い受ける! 覚悟っ!」
叫ぶエリオル。
槍の届く範囲へ入る寸前、彼の行く手を二人の女性が阻んだ。
黒い服の女性二人だ。
二人は剣を振るった。
女性の一人はエリオルの足を切断し、もう一人は槍を持つ手を切断した。
奮戦もむなしく、エリオルの体は仮面の男の足元に倒れこむ。
悔しげに顔を上げ、仮面の男を睨みつける。
「貴様は、何者だ?」
エリオルは問い掛ける。
「中々に役目を果たしているじゃないか」
質問を無視するように、男は自分の仮面を撫でた。
男とは思えないほど高く、可愛らしい声だった。
男は仮面を取って素顔を見せた。
その顔は、とても美しいものだった。
しかし見知らぬ顔だ。
そして、どうやら男ではなく、女だったらしい。
エリオルが思ったのはその程度の事だった。
「いや、知らないだけか? 私の顔など。何せ、私はこの美貌を隠してきたからな」
小さく笑い、その女は無慈悲に告げる。
「首を撥ねろ」
その言葉を聞いた瞬間、エリオルの首は黒い服の女性達によって切り落とされた。
あっけないほど簡単に切り落とされたエリオルの首。
その様を見て、ジョバンニは何とも言えない顔をした。
「それはどういう時の表情だ? 腹が減った時の表情か?」
が、獣人の表情を人間が理解するのは難しい。
レイスはジョバンニの表情を見て、そんな事を訊ねた。
「いや、違うよ。ちょっと気分が悪いだけだよ」
「肉食のくせにだらしない」
「言葉を交わせる相手が死んだら、気分が悪くない?」
人の命を奪う倫理観からではないらしい。と、レイスは意外に思った。
そこはやはり、半分が獣である事による価値観なのかもしれない。
どちらかというと、言葉を交わせる知的レベルの者を同胞として思っているのかもしれない。
狼は群れを作って狩りをする生き物だ。仲間意識は強い。
知的レベルが同程度の者を同胞と見て、その同胞と見なした相手が殺された事によって、群れの統率を司る本能が刺激されていると見るべきか……。
興味深そうにレイスは思案する。
「どうしたの?」
執拗に眺められ、ジョバンニは居心地が悪そうに訊ねた。
「……なんでもない。ジョバンニは面白いなぁ、と思っただけだ。それより、そろそろ戻るぞ。今の私達は戦争の真っ最中だからな」
そう言うと、レイスはジョバンニの手を引いて歩き出した。
森を出ると、森の方向へ槍を向けるアランドの兵にかち合った。
アランド兵が森に向けて槍を構えているのは、森から撤退してくる騎兵を迎え撃つためである。
森と平原の境目とその近辺には、多くの死体が散乱していた。
皆、相手の騎兵隊である。
それを傍目に、レイスとジョバンニは兵士達と共に陣へ加わった。
レイスの不在を補うために置いていた黒死隊の隊員に声をかける。
その隊員は、厳しい顔つきの中年男性だった。
大柄なジョバンニと同じくらいに大きく、たくましい身体つきをしていた。
「ドゥーガン。逃した騎兵隊の数は? あと、変わった事はあったか?」
「どちらもありません。騎兵隊は全滅です。姫殿下の予定通りかと」
「そうか。ならいい。上々だ」
言って、レイスは敵の陣を見た。
少しだけ迫ってきているが、依然として攻め入ってくる気配は無い。
エリオルの出方をうかがっているのだろう。
「が、今の私は姫でもなければ殿下でもない。その呼び方はやめろ」
「は、では如何お呼びいたしましょう?」
ドゥーガンは恭しく頭を下げてうかがう。
「そうだな。「セルヴォ」とでも名乗ってやろうか。一番、衝撃が大きそうだ」
衝撃が大きかったのはジョバンニも一緒だった。
え? と驚きの声を上げた。
「ドゥーガン。連中の陣の前まで連れて行け。エリオルの首を見せて戦意を挫いてくる」
「かしこまりました」
「危険だよ? やめたほうがいいよ」
ジョバンニは心配そうに止めるが、レイスはただ笑うだけで彼を置いてドゥーガンと行ってしまった。
レイスはドゥーガンの操る馬に乗り、相手の陣に近付いた。
ぎりぎり、弓矢の届かない距離だ。
そして槍に刺したエリオルの首を掲げ、声を張り上げた。
「ヘルシオンの将エリオルの首、ジョバンニの参謀セルヴォの策によって討ち取った!」
言うだけ言うと、すぐに帰ってくる。
「どうだった?」
ジョバンニは嬉しそうな顔のレイスから感想を求められたが、どう答えていいかわからなかった。
「うーん、かっこよかったと思うよ。でも、大丈夫? これで怒って攻めてくるとか無いよね?」
適当に返事をして誤魔化しつつ、不安を吐露する。
その不安をレイスは笑い飛ばした。
「ふふふ、ここでそんな気概を見せる奴なら、もっと出世しているだろうさ」
ケアンは保守的で堅実な男だ。
いくら数で勝っていても、決め手となる騎兵隊の攻撃力が無ければ兵の消耗を怖れて攻めて来ない。
エリオルを殺されて怒ったとしても、きっと理性で押さえ込む。
レイスはそんなケアンの性格を正しく把握していた。
たとえ攻めて来られても、全軍を森まで後退させれば負けない。
それを怖れて森に入らなければ膠着するし、無理に攻めてくれば返り討ちにできそうだ。
どちらに転んでも、負けないのだ。
かくして、ケアンはレイスの予想通りに動いた。
内心ははらわたが煮えくり返る思いではあったが、総力戦は避けるべきと判断した。
ケアンはそのまま全軍を撤退させる。
それを見届けると、アランド兵達から勝鬨の声が上がった。
アランドへの帰り道。
ジョバンニとレイスは、行軍の列の中ほどで護衛に守られながら歩いていた。
「ふふふ、私の言った通りだったろう? くふふふふ」
何故か知らないが、ケアンが撤退に向けて軍を動かした辺りから、レイスの笑いが止まらなくなっていた。
さっきから小さく笑い続けている。
今思えば、戦が始まってから彼女はよく笑っていた気がする。
「うん。本当にすごいと思う。それにしても、さっきから楽しそうだね」
「ああ、楽しいからな。ふふふ、自分の考えが証明されると楽しいじゃないか」
「そうなの?」
「考えてもみろ。机上の空論でしかなかった考えが、現実でも通用するのだ。自分が無力でないという事実を確かな証拠として得られるのだぞ。楽しいじゃないか」
ジョバンニには、彼女の言う楽しさがわからなかった。
ただ、彼女の言う言葉に嘘は無さそうだ。
彼女は本当に楽しそうで、ジョバンニに語りかける表情は無邪気なものだ。
目がキラキラと輝いて、まるで子供のようだった。
「さて、仕上げだな。ドゥーガン、黒死隊に伝えろ。予定通りに作戦を遂行しろ、と」
「は、確かに承りました」
ドゥーガンは返事をすると、すぐにどこかへ走って行った。
「まだ何かするの?」
「敵部隊に夜襲をかけさせる」
「え? 本気なの?」
黒死隊の総勢は、六十名強だという。
それだけの人数での夜襲なんて成り立つはずがない。
「安心しろ。狙うのは輜重隊だけだ。馬上から火矢を射掛けて食料を潰しておく。一回だけでは無理だが、何度も行えばそれなりに被害は出せる。ついでに、兵士を疲弊させられる」
「嫌がらせ?」
レイスは悪戯っぽく笑って「それもある」と答えた。
その言い方だと、どうやら他にも理由はあるらしい。
「実は、マール領の領主街に前もって黒死隊を数人潜ませていた。今頃、街にある食料の備蓄をあの手この手で減らしているはずだ。まぁ、概ねは私のポケットマネーで買い付けているはずだが」
ジョバンニには、なんとなく彼女のしようとしている事がわかった。
「ケアンが逃げ込むとしたら、その領主街だね。で、入ってみたら食料の備蓄が殆どないわけだ」
その通り、とレイスは人差し指をジョバンニに向けた。
「兵士を休息させるどころか、まともに籠城すらできない状態だ。無理に住民から徴発すれば、非難がうなぎ上り。やむを得ず、撤退。最悪でも強引な籠城で援軍が来る前に自滅だ」
やられた方はたまったものではないだろう。
まるで悪魔の所業だ。
「兵士達は撤退。食糧難に喘ぐ住民達に、アランド領から食べ物を持った兵士達が救世主の如く現れるわけだ。ほとんどは自分達が数日前に売った食糧なんだがね」
食料を減らしたのはアランドの手勢であるから、酷い自作自演だ。
「こうして、マール領も私達の手中に落ちるわけだ」
「でも、僕はアランドを守りたいだけなんだけど……」
歯切れ悪く主張する。
言外に、こちらから攻め上がりたくないという意思表示だ。
「領民を守るためにも、戦場はアランドから離れた方がいいだろう?」
レイスは本気で言っているのだろうか?
ジョバンニは彼女の言葉を疑った。
その言葉は、ジョバンニを納得させるための方便に思えた。
確証はないが、そんな気がした。
「理由はそれだけ?」
「無論だとも」
レイスは笑顔で答えた。
口調には淀みが無い。
その態度からは、嘘か本当か読み取れなかった。
ふと、ジョバンニは気になっていた事を訊ねる。
気になったのは、彼女がどんな答えを返すのか、だ。
自分にとってその理由が至極真っ当で耳触りの良い物なら、それは嘘の理由かもしれない。
そして、もしも嘘だったとしたら、ジョバンニはショックを受けるだろう。
彼女を信じられなくなる。
「ねぇ、レイスはどうして助けに来てくれたの?」
レイスは笑みを消した。
一度、ジョバンニの顔を見上げてから顔を下ろして答える。
「お前に死なれては都合が悪いからだ。私の計画に支障が出る。それだけだ」
レイスの答えは、ぶっきらぼうだった。
ジョバンニの感性からして、決して耳あたりのいい言葉ではないだろう。
でも、それが嬉しいと思った。
耳当たりが良くないなら、それはきっと本当の事だ。
「勘違いするなよ?」
念を押すようにレイスは言う。
「何を?」
ジョバンニは何の事かわからず、素直に聞き返した。
「わからなければいい。それより寒いな、ジョバンニ」
そう言いながら、レイスはジョバンニの腕に抱きついた。
それから数日後、レイスの言う通りになった。
ケアンはマールの領主街から撤退し、マール領はジョバンニの手中に収まった。