最強の生き倒れ 中編
「冒険者…だと?」
冒険者。
その言葉を聞いて村人達の顔に一瞬希望が灯る―――が、改めて少年の姿を見て浮かんで来た希望は1秒で泡のように消える。
あまりにも頼りなく、野盗達と戦えるような姿ではないから…。
野盗達も一瞬警戒したものの、すぐに警戒レベルを下げる。
「なんだ、ただのガキじゃねえか…」「え? 皆もしかしてビビったの? バカじゃねえの」「あんなガキが冒険者だぁ?」「銀色の髪に…焔色の異装……いや、まさかな…」「うっわ、いかにも弱そうっ」「村の連中が呼んだ…って訳じゃねえのか?」
そんな手下達の反応を無視してカルゼは突然現れた冒険者との会話を続ける。
見かけはまったく強そうには見えないが、それでも腰に差している剣はそこらの子供が持てるような物ではない事に気付いている。あんな子供がどうしてあんな上等な武器を持っているのかが分からないうちは、多少なりとも警戒は置いている。
「それで? 冒険者の小僧が、どうしてこんな辺鄙な村に居るんだ?」
「だから通りすがりだっつうの」
「俺達を討伐しに来た……って訳じゃねえのか?」
「いや、まったく。アンタ等とは関係ない事情でたまたま村に来る事になったってだけ。まあ、そもそもの話し―――」
手下達からの嘲笑も、村人達からの絶望の視線も、全て無視して言う。
「俺、アンタ等みたいな小物に興味ねえし」
ブチっと野盗達の中で何かがキレた。
「その餓鬼を殺せッッッ!!!」
カルゼのかすれる程の叫びを受けて手下達が一斉動く。
「ざっけんなっ糞餓鬼!!」「ぶっ殺してやる!!」「小物呼ばわりを冥府で後悔しろやぁ!!」「生皮剥いで、発狂するまで遊んでやるぜぇえ!!」
囲んで居た村人達を置き去りにして、たった1人の子供を殺す為に走る。
魔物達が動かないのは、全員が怒りに呑まれて命令を出せていないからだ。
殺意剥きだしで男達が向かって来ると言うのに、当の命を狙われる側のアークは慌てた様子も、怯えた様子も無く小さく溜息を吐く。
「やっべ……挑発し過ぎた…。穏便に済ませようと思ったんだけどなぁ…」
ルルが「逃げてッ」と叫んでいるのは聞こえていたが、それは無視した。ここでアークが逃げれば、野盗達の怒りが村人に向く可能性が高いからだ。
「しゃーない…やるか。行くぞ―――<建御雷>」
身震いがする程美しい動作で抜刀する。
刀の名は<建御雷>。
その名の由来は、勿論日本神話の建御雷神である。
国生みの神である伊邪那美が、火の神である火之迦具土を産んだ事で死に、それに怒り狂った伊邪那岐が火之迦具土の首を落とした。その際、剣から滴り落ちた血より生まれたのが建御雷神である。
剣と雷と司る神であり、国譲りの逸話で語られる通り、天照大御神の片腕であり日本神話を代表する武神の一柱。
その名の意味を知る者であれば、その名をつけられた剣がどれ程の力を秘めているのか想像出来ただろうが……残念ながらこの場にはそんな人間は1人もいない。
「さてさて…」
左手は鞘に添えたまま、刀を返して右手一本で建御雷を構える。
砂糖に群がる蟻のように野盗が殺到する―――。
村人たちは凄惨な未来を想像し、目を瞑ったり、顔を背けたり…だが、そんな未来は訪れなかった。
刀のみねで相手の武器を捌き、体勢を崩したところで蹴り転がす。
攻撃を避け、受け流し、闘牛士のように十人以上の敵を舞うようにあしらう。大きく逃げ回っている訳でも、敵を倒して減らしている訳でも、特別な力を使っている様子もないのに一向に攻撃が当たらない。
取り囲んで数人で攻撃しても、まるで背中にも目がついているかのように避ける。
野盗達の苛立ちと焦りが増して行く。
相手はたった1人。しかも小さな子供。それなのに、倒せない……殺せないどころかまともに傷を負わせる事すら出来ていない。
それを魔物の頭の上から見下ろしてカルゼの苛立ちは手下達の比ではなかった。
自分達に舐めた態度をとる子供1人殺せない手下達の不甲斐無さに、血が出る程歯を噛みしめる。
「何ノロノロやってる!!? 魔物を使え馬鹿がッ!!!」
カルゼの言葉に、ようやく手下達が魔物の存在を思い出す。
自分達の手でズタズタに引き裂いてやりたいのはやまやまだが、これ以上子供1人に手こずるような展開になれば、カルゼに殺されるのは自分達だ。
慌てて魔物達に指示を出し、冒険者を殺す手伝いをさせようと自分達の元へ集める。
村人達を囲んで居た野盗と魔物が居なくなった。
その瞬間を「待ってました」とばかりに動く。
近くに居た野盗達を今まで見せていなかった超スピードの蹴りで吹き飛ばし、次の攻撃が届く一瞬―――
「【雷転】」
建御雷が微かに放電し、周囲の空気をパチンっと爆ぜさせる。
野盗達が突然の事に踏み出しそうとした足を引っ込める―――と、同時にアークの姿が消えた。
「ぇあっ!?」「どこに!?」「逃げた…?」「クソ、なんだ!?」「何しやがった!」
キョロキョロと辺りを見回す。
もしこのまま逃がしたとなれば、カルゼに殺される。
もしそうでなかったとしても、外に逃げて仲間を呼んで来られたらそれこそだ。クイーン級の冒険者なんて怪物を連れて来られた日には全滅の未来しかない。
しかし、アークは逃げていなかった。いや、それ以前にそんな心配をする必要もなく、簡単にその姿を見つける事が出来た。
その姿があったのは―――巨大なライオンの頭の上…カルゼの目の前。
野盗達は自分のトップの目の前に敵が居ると言うのに何も出来なかった。武器を向ける事も、魔法を唱える事も、声をあげる事すら…。
何故なら、敵の刃がカルゼの首に触れているから。
カルゼは困惑……いや、混乱していた。
一瞬の出来事だった。
手下に囲まれて居た冒険者が消え、次の瞬間目の前に現れ、同時に首筋に冷たい感触が触れていた。
(転移……!? いや、違う…!)
カルゼの乗って居る巨大なライオン―――正式名ファントムビーストには転移阻害の能力がある。この魔物の周囲10mでは自由に転移を行う事は出来ないのだ。
理解出来ない―――転移を使わずに一瞬で間合いを詰められた事も、そんな芸当をこんな子供が容易くやってのけた事も。
「あのさあ」
カルゼの首に刃を当てている冒険者が口を開く。
勝ち誇っている風ではない。まるで、今の状況が当然の事のように―――こうなる事が最初から分かっていたかのように、平常時と変わらない静かな口調。それが不気味で堪らなかった。
「もう止めない? 言いたくないけど、アンタ等じゃ俺に勝てないと思うよ?」
そう言って、真っ直ぐにカルゼの見る。
勝利を確信しているから出た言葉ではない。「これ以上敵に怪我をさせないように」と、本気で気遣っているからこその言葉だった。
…だが、そんな気遣いはカルゼにしてみれば蔑みと同義であった。
「うるっせぇええええっ!!」
首に当たられていた刀を掴んで横に逸らす。刃で指が斬り落とされなかったのは、カルゼの運が良かった訳では無く、アークがそうならないように刀を退くのを止めたからだ。
「っと」
カルゼの手を護る為に刀を無理に動かせず、結果として無防備な姿を晒す事になった。
それを―――カルゼは見逃さない。
「死ィねやああ!!」
持って居た笛を振り被る。
ただの笛だと侮るなかれ。神器の笛の硬度はアダマンタイトを凌駕する。殴られれば並みの鈍器とは比べ物にならない程のダメージを負う。
タイミング、速度、角度―――全て完璧だった。
(骨の1本は奪える! 当たり所が悪けりゃ一撃で死だっ!!)
当たる! と思ったその瞬間、その姿がまるで雷光のような輝きを一瞬放ち、次の瞬間にはその場から消失していた。
「なっ―――!?」
盛大に笛を空振ってよろける。
全て完璧の攻撃―――ただ、相手がそれを上回る怪物だったという、それだけの話。
「危ない危ない…」
消えた相手はすぐ近くに居た。
ファントムビーストの足元。成す術も無く羊の様に身を寄せ合っている村人を護るようにその前に立って居た。
突然現れた事に村人達が声も出せずに驚いているが、本人はそんな事爪の先程も気にして居ない。
「テメエ…いったい何者だ!?」
「だぁから、ただの通りすがりの冒険者だっつうに」
ただの冒険者の訳が無い。
転移ではない“間合い潰しの術”を持つ人間が、そこらに転がっている訳が無い。よしんばただの子供だったとしても、手に持っている剣は普通ではない。
先程消えた時、カルゼは見た。あの剣が微かに放電しているのを…。それが何を意味するのかは分からないが、恐らくあの剣こそが転移紛いの事をやってのける手品の正体だと直感していた。
そんな事が出来ると言う事は、あの剣は神器―――もしくは、それに匹敵する程の能力を持った魔剣。
そんな物をただの冒険者が持っているだろうか?
……何にしても、侮っていい相手ではない事だけは間違いない。
「一応訊いてやる。小僧、俺の手下にならねえか?」
「興味ねえな。大体、アンタの手下やってられる程暇人じゃねえし」
半笑いの返答。
カルゼや手下達を侮ったからの笑いではない。自分のやるべき事を思い出して、あまりの忙しさに笑うしかなかっただけだ。
ただ、そんな事情を知らない野盗達にすれば、カルゼの提案を鼻で笑われたようにしか見えない訳で…当然怒りと言う名の闘争心と殺意が燃えあがって行く。
そして、ルルが心の中で「生き倒れしてられる程度には暇じゃないの…?」とツッコミを入れていたが、空気を読んでそれが口から出る事はなかった。
「ハッ、つくづく舐めた餓鬼だ…。だが、そんな態度を取ってられるのもここまでだ」
ただの子供でも…並みの冒険者でも無い事も理解した。だから、カルゼは笛を吹く。
音楽は奏でない。一音だけを吹き続けるだけ。
途端に―――魔物達がビクンッと頭を叩かれたように何かに反応する。
そして、木陰からぞろぞろと何匹―――何十匹―――いや、下手をすれば百匹以上の魔物が姿を現す。
大小様々。
魔物のランクも、強さも、見かけのタイプも統一性がない。笛の力によって一帯から魔物を掻き集めたのだ。より正確に言えば、元々集めてあった魔物達を呼び込んだのだが、大量の魔物が現れた事には変わり無い。
「ヒッ…!?」「ま、魔物がこんなに…!」「怖いよぉ…」「た、た、助けて!」
村人が震えた声を出しながら更に小さく身を寄せ合う。
「どうだ小僧? これが俺の力だ!」
「ふーん」
興味無さそうに返事をしてから、自分の背後で怯えている村人達に「大丈夫」と声をかける。
「ねえ、魔物達引っ込めてくんない?」
「はっはは、流石にこの数にはビビったようだな?」
「……いや、そうじゃなくてさ。村人が怯えてるし、それに―――」
その後の言葉は小声だった為に誰にも聞きとれなかったが、冒険者はこう言った。「どっかのピンク頭を思い出してクッソイライラするからだボケが…」と。
「お前の提案は却下だ! 俺も手下達も、お前と家畜共をグチャグチャにしないと収まり着かないんでな?」
ジロッと睨まれ、村人達がついに泣きだしたり、逆に絶望して黙ったり…。それを嘲笑いながら、手下達が数と言う絶対の優位を盾に再び村人を囲む。
「そーかい。そんじゃ、コッチもそれ用の対応に切り替えるわ」
「ぁん? 何を言ってやが―――」
カルゼの言葉を待たず、鞘に添えていた左手を放して緩く握って構える。
「来い―――」
真っ赤な炎が咲いた。
冒険者の左手が突然燃え出し、周囲の空気を食らって瞬時に膨張して巨大な炎となった。
魔法―――ではない。詠唱がなかった。突然の炎に驚いた全員が、何かしらのリアクションを取る前に、その手の平で炎が弾ける。
「我が眷族達よ」
弾けた炎は3つに分かれ、村人達を囲む野盗と魔物を牽制するように地面に落ちる。
炎は即座に収縮し、熱量を押し固めるようにしてそれぞれが別の姿へと変じる。
1つは金色の瞳を持つ赤い毛並みの狼に。
1つは空色の瞳を持つ赤い鱗の火蜥蜴に。
1つは深緑の瞳を持つ赤いラインで装飾された仮面に。
「魔物―――いや、魔獣…を呼んだ…だと!?」
驚愕。
誰もが事態への理解が追い付かない。
そんな中にあって、周囲の反応なんて石ころの形の違い程度にしか思っていないのか、炎から出て来た魔獣3匹は静かに、それでいて迅速に冒険者の元へと集う。
「お呼びにより参上いたしました」
奇妙な宙に浮いている仮面がペコっとお辞儀をするように傾くと、続くように狼と火蜥蜴も頭を下げる。
「周りの連中を片付ける。手を貸してくれ」
「畏まりました」
「ここに集まってる人達は庇護対象だ。一応俺が護るつもりでいるけど、お前達の方でも傷負わされねえように気をつけてやってくれ」
「はっ」
命を受けて即座に行動に移ろうとする狼と火蜥蜴を軽く撫でて落ち着かせる。主に触れられると余程嬉しいのか、怪物のような気配が霧散してその手に甘える。
「それと、人間は殺すな。魔物は全部塵にして構わん」
「はっ、お任せを」
「じゃあ、頼むな?」
撫でていた手でポンっと叩かれた狼が高らかに吠える。
戦いの高揚。
主の役に立てる喜び。
主の敵に対する怒り。
様々な物の入り混じった咆哮は、人も魔物も区別無く竦ませた。
動きを止めた敵の隙を、魔獣達は見逃さない―――。
まず、赤い仮面が動く。
「退いていろ!」
突然―――10m近くある巨大な腕が現れ、野盗の囲いの一部を殴り飛ばした。
ボーリングのピンのように吹っ飛ぶ野盗の群れ。
「エメラルドー…」
「ご心配には及びません。ちゃんと死なないように手加減していますので」
仮面の言った通り、吹っ飛んだ野盗達は起き上がりはしないが、呻き声を出しながら微かに動いている。
2人がそんな会話をしている間に、赤毛の狼は一足飛びで突っ込んで行き、その速度のまま体当たりで野盗2人を森の中へ吹っ飛ばす。そして止まる事無く魔物の群れに突進し、凄まじい速度で牙と爪の一撃で魔物を殲滅し始めた。
一方火蜥蜴はノンビリとした動きでパタパタと翼を羽ばたかせて飛び上がると、「スゥッ」と大きく息を吸い込んで―――炎を吹いた。
空中から放射される炎の波が、逃げようとする魔物を容赦なく呑み込んで焼き潰す。
「サファイアー、森と村まで焼くなよー」
主たる少年の言葉に、炎を吐くのを止めて肯定を示すらしい「クアァ」と言う鳴き声をあげて、再び炎を降らせる作業に戻って行った。
奇妙な仮面も魔物の殲滅作業に加わり、謎の巨大な腕を振るっている。腕の一振りで魔物を十匹以上屠る姿は、野盗達には恐怖でしかない。
野盗達もなんとか気持ちを奮い立たせて3匹の魔獣に戦いを挑むが、狼のタックルで吹っ飛ばされ、火蜥蜴の尻尾で薙ぎ払われ、仮面の巨腕でぶっ飛ばされてまともな戦いを出来た者は1人もいない。
1分もすれば、百以上居た筈の魔物は半分以下になっていた。
それに慌てたのはカルゼだ。
必勝の筈だった。
手下の数と魔物の数。両方合わせれば並みの町なら滅ぼせるだけの戦力になる。だから、こんな小さな村を滅ぼすなんて容易―――な筈だったのに…。
たった1人の子供……たった1人の冒険者が現れただけで、滅ぼされそうなのは自分達の方ではないか。
(あの糞餓鬼さえ居なければ…こんな事にはっ…!!)
ふと思い付く。
――― 今なら、あの餓鬼を殺せるんじゃないのか?
魔獣達の力には驚いた。魔獣の召喚なんて希少な能力を持っている事も。
だが、その魔獣達は周囲の魔物の殲滅に散らばって、子供の近くには居ない。
“使役”や“支配”の能力者は他の能力を犠牲にせざるを得ない。事実、カルゼも神器の支配力を維持する為に魔法能力のほとんどを捨てている。
恐らく、あの子供も自身の能力を犠牲にしている筈だ。あれだけの強さの魔獣を従えているのなら、それ相応の支払いをしているのは間違いない。だとすれば、万が一にもあの3匹の魔獣よりも召喚者の子供の方が強いなどと言う展開はないだろう。
あの剣の消える術は厄介だが、村人を護ろうとするのなら使えなくさせないようにする事は出来る。
対して、カルゼにはまだファントムビーストが居る。
それに、召喚者を倒せば魔獣達も消えるのは当然の流れ。
つまり―――カルゼの勝利だ!
勝利への道が見つかった途端に、魔獣の登場で曇天のように暗くなっていた心が晴れ渡って行く。
やはり自分こそが最強なのだと。
知らず、口元が緩んで笑いが浮かぶ。
「何笑ってんの?」
冒険者の問いに更に笑みが深くなる。
その問いには答えず、カルゼの乗って居るファントムビーストに素早く命令を出す。
「ぶち殺せ!」
下した命令は単純明快。
山が噴き上がるような大きな動作で飛び出す。
冒険者までの距離は約5m。ファントムビーストの巨体ならば一足飛びで襲いかかれる距離だ。
冒険者が構えを解いて剣を下げる。
例の消える術を発動する為の動作―――そう判断すると同時に動きを封じにかかる。
「お前が避ければ、後ろの家畜共が死ぬぞ!」
カルゼの言葉に村人達の顔から表情が消える。
絶望だった。
微かに見えた希望が、圧倒的な力で蹂躙される未来が村人全員の脳裏を過ぎったのだ。
そして、その未来はすぐ目の前にあった。
自分達の前に立つ冒険者は逃げない。だが、あんな巨大な魔物と真正面から斬り合える訳も無い。……と言う事は、冒険者の少年は即座に食い殺され、次は自分達の番。
襲い来る巨大な魔物の姿に皆が現実から逃れようと目を閉じる。
そこに―――静かな声。
「1つ忠告してやる」
冒険者の声だった。
静かで―――それでいて、少しだけ殺気と言う名の鋭さを帯びた声。
「その魔物と心中したくねえなら、離れてた方が良いぜ」
先程、構えを解いて剣を下げたのは、逃げる為ではない。
剣を左手に持ち替え、空いた右手をファントムビーストに向ける。
次の瞬間
――― 漆黒の炎が現れた。
「…は…?」
闇の様に黒い炎が、冒険者の右腕で舞い踊る。
その炎が何なのかカルゼは知らない。
だが―――頭から爪先までを貫くように走り抜けた、氷の如き恐怖心が教えてくれる。
全身の毛が逆立ったような錯覚。
臓物を吐き出しそうになる程の緊張。
――― 殺される…!!
全感覚が言っている、「すぐに逃げ出せ!!!」と。
湧き上がる恐怖心を理性で抑える事が出来ない。どんなに「逃げるな!」と脳が命じても、体が勝手にファントムビーストの頭から飛び降りるのを止められない。
カルゼが空中に体を投げ出すのとほぼ同時に、ファントムビーストの爪が冒険者の差し出された右腕に―――黒い炎に届く。
「燃えろ」
一瞬…だった。
ファントムビーストが黒い炎に触れた瞬間、その巨体が一瞬で黒い炎に呑まれ、次の瞬間には、始めから何も居なかったように消えて無くなって居た。
魔石も、魔素の一粒すら残って居ない。唯一、それが現実だと言う証明のように冒険者の右手で黒い残り火がチロチロと敵を求めて舌を伸ばしていた。
辛うじて黒い炎から逃れたカルゼは、尻餅をついたまま身動きが取れなかった。
ファントムビーストは、カルゼが操れる限界の魔物であり、この場での最強戦力だった。それなのに……あまりにも呆気ない終わり。
圧倒的で、絶対的な、理不尽なまでの力の差。それに始めて気付いた―――気付いてしまった。その途端、恐怖と絶望がカルゼの体を絡め取り、体の自由を奪ってしまった。
動けない…恐ろしくて。
仮に動けたところでどうなる? この圧倒的な力の差を埋められる訳も無い。
それに―――もう全部終わった―――終わってしまったのだ。
「はっはははははは!! もうダメだ、俺もお前達も、全員死ぬんだよッ!!!」
狂ったように笑いだす。
絶望の笑い。終わりを悟った笑い。獣のように涎を垂らし、喉がボロボロになるような甲高い笑い声をあげ続ける。
「急に何言ってんの?」
冒険者が氷河の如く冷たい目を向ける。
完全に道端で出会った変質者に向ける視線だった。
「俺の神器が燃えた……! もうアイツを押さえておく事はできねえんだよ!!」
先程、ファントムビーストの頭から逃げる際、あまりに慌て過ぎて神器の笛を取り落とした。
魔物の頭の上に置き忘れられた笛は、当然の如く黒い炎によってファントムビーストの道連れとなり、欠片1つ残さず世界から消えてしまった。
神器が失われたと言う事は、その笛の能力によって支配されていた魔物達が自由になると言う事でもある。
この場に集められた魔物達は3匹の魔獣によってほとんど狩られ、すでに残りは10匹程。その生き残りも十秒後には魔素へと還る事になるだろう。故に、この場には魔物が自由になった事への影響はない―――筈だった…。
――― 突然の地鳴り
断続的に続く振動。
1秒ごとに揺れが大きくなる。
何かが地面を押し上げようとしているかのような凄まじい揺れ。マグニチュードで言えばおよそ7。
振動に耐えられず周囲の木々が倒れ、家が積み木のように倒壊する。
「なんだ!?」「きゃぁあああっ!」「クッソ、なんだこの揺れは!?」「魔法攻撃か!?」「誰か止めてよぉ!」「怖い…怖いよママぁ!!」
揺れは一向に収まらず、更に勢いを増して行く。
この騒ぎに乗じて逃げ出そうとしていた野盗の何人かを殴って大人しくさせながら、仮面の魔獣がフヨフヨと地震の影響と無縁な飛行で主である冒険者に近付く。
「主様」
「おう、どうしたエメラルド?」
「この揺れですが、サファイアが言うには地下で巨大な魔物が暴れている影響の様です」
「魔物? 感知能力無くしてっから視覚が届かん場所は何も見えねえんだよなぁ…」
足元で地面が割れる程の衝撃が走っていると言うのに、冒険者の少年は特に気にした様子もなく仮面の魔獣と話している。
その会話が聞こえたのか、地面に張り付くような…お世辞にも格好良いとは言えない姿で、カルゼが吐き捨てるように言う。
「そうさ、アイツが怒ってる! 俺達は全員食われて終わりさ!!」
「アイツ? 下に居るって魔物もアンタの知り合いか?」
「はっははははは、そうだよ。アイツも俺の神器の支配の影響下にあったのさ! けどっ、アイツはダメだった…! 強過ぎて神器の力でも完全に支配出来やしねえ…それどころか支配している俺を襲おうとしやがる! だから仕方無く俺は、強制的に奴を地中深くで眠らせた。それなのにっ、テメエが神器を壊しやがった…! もう終わりだ、アイツは俺を殺す。でもテメエ等も助からねえ!! 全員仲良くアイツの腹の中で死ぬのさっ!!」
カルゼの言葉が終わるのを待って居たかのように―――地面が噴き上がる。
村から20m程離れた場所であったにも関わらず、大量の土砂が降り注ぎ、土煙で視界が奪われる。
火蜥蜴が素早く大きく息を吹いて視界をクリアにした……のだが、暗かった。日中であるにも関わらず、先程までの明るさが消え、夜の様に周囲が暗くなっていた。
それもその筈、何故なら―――太陽を遮るように巨大な……山のような…何の誇張も無く山より巨大な魔物がそこに居たから。
誰も言葉を発しない。
現実を受け止められないから?
否。
現実を受け止めているからこそ黙ったのだ。
物音1つでもたてれば、その瞬間にあの山より巨大な化物が襲いかかって来るのではないかと―――恐怖したから。
その中にあって、冒険者の少年は呑気に口を開く。
「お、でかミミズだ。懐かしい」
そう、今目の前に居る巨大なそれは、紛れも無くミミズだった。
全長100mを超す圧倒的なサイズ。質量と言う名の理不尽な戦力であり暴力
抗う事を許さない天災のような力。
ギガントワーム。
世に滅びの種と称されるクイーン級の魔物の1体。
その討伐には、同級以上の冒険者……それが叶わないなら、ルーク級の冒険者が最低でも30人以上必要とされる。
この場にそれだけの戦力ある筈もない。
冒険者の少年が多少強いと言っても所詮1人。呼び出された魔獣達も強いが、それでもクイーン級と呼ぶには力が足りない。
仮に村人と野盗達が全員力を合わせたとしても、多く見積もってもルーク級冒険者4人分程度の戦力にしかならない。
あの巨大な体から逃げる事なんて不可能だ。戦おうにも戦力が足りない。
つまり、全員あの魔物に食われる未来しかない…という結論になる。
「主様、いかがいたしますか?」
「うーん…そうだなぁ」
ただ1人、爪の先程も絶望していない冒険者は、おもむろに隣に居た仮面の魔獣に手を伸ばす。そして
――― 真っ赤な炎が仮面を呑み込んだ。
「「「「「ッ!!!!?」」」」」
魔獣を燃やした―――!?
ただでさえ足りない戦力を減らしてどうするのか。と怒りの声をあげようとした者もいた。だが、その言葉はすぐに腹の中へと飲み込まれたのだった。こんな絶望的な状況になれば、冷静さを失ってトチ狂った行動をするのも仕方無い事だ。相手があんな子供であればなおの事。
しかし―――仮面は燃えていなかった。
いや、そもそも冒険者は燃やして居なかった。
ただ…本来の姿になる為の 力を与えただけだ。
炎が収縮し、人型となって存在証明が世界に固定される。
炎が完全に消えると、そこには執事が立って居た。
切り揃えられた赤黒い短髪に、下ろしたてのような仕立ての良い執事服。
そして、その顔を包むのは、先程まで空中を泳いでいた奇妙な仮面。
「そっちの姿は久しぶりだろ? どうよ調子は」
「主様の御力を受けてこそのこの姿でございます。であれば、不調などと言う事はあろう筈がございません」
片手を左胸―――心臓に添え、ペコっと丁寧で美しいお辞儀をする。
お辞儀の際に心臓に手を当てるのは、「命すら捧げます」と言う意味なのだが、仮面の執事はそれを当たり前の事のようにした。
「そっか、んじゃあの無駄にでかいの任せる」
「はっ。どのように対処いたしましょう?」
「鬱陶しいから叩き潰せ」
「畏まりました我が神よ」
仮面の執事が山のような巨体に向き直る―――と同時に山が動く。
頭の先がパクッと割れ―――家の2件や3件丸呑み出来そうな口を開ける。口の中は、どこまでも続く深淵な闇。
その口がカルゼを、村人達を、冒険者を、魔獣達を全てを食いつくそうと突っ込んで来る。
あまりの現実味のない光景に悲鳴すらあがらない。
見上げれば、視界の全てが巨大な口―――そんな状況にあって、仮面の執事は絶望の悲鳴ではなく、怒りの声を出した。
「図体がでかいだけの無能がっ! 主様を不快にさせた事は万死に値する!!」
執事の右腕が消失。と、同時に
――― 天を覆う腕が現れた。
村人の何人かが、脳味噌の処理能力をオーバーしたのか気を失って倒れる。
野盗のほとんどが、恐ろしい光景に腰を抜かし、うち何人かは叫びながら下半身を濡らしている。
しかし、そんな地上での些事を気にする事もなく、天を覆う巨大な―――巨大過ぎる手は、無造作にミミズを掴む。特別な能力も、特殊な技能も何もない。庭の草を毟るように、力任せに掴み、そして引き抜いて空中に引き摺り出す。
ミミズの大きさは圧倒的だ。
軽く転がるだけで、町の1つや2つ簡単に滅んでしまう。それなのに、それ以上に巨大な手に掴まれている姿は、ただの―――虫けらだった。
「偉大なる御方に生み出された私に殺される事を光栄に思え」
腕に力がこもる。
グシャリと、ミミズが潰れ、指の隙間から黒い魔素が体液の様に噴き出す。
「そして、我が神たる御方に牙を向けた事を冥府で悔いろ!」
強大な魔物が死んだ余韻で、空気が―――魔素がビリビリと震える。
天を隠していた巨大な腕は、自分の出番は終わったとばかりにスゥッと色を失い、数秒で空の色の溶けて消えて無くなった。
と、同時に、仮面の執事は主である冒険者に向き直り膝をつく。
「完了いたしました」
「おう、ご苦労さん」
労いの言葉を受け、嬉しそうに頭を下げる。
「それと、こちらを」
いつの間にか戻って居た執事の右腕。その手に握られているのは、ミミズの核であった魔晶石。
王への献上物のように。神への貢物のように魔晶石を差し出す。
「どうか、主様の旅にお役立て下さい」
「サンキュー」
冒険者は遠慮なく魔晶石を受け取ってポケットに入れる。
そして、その手で何を思ったのか執事の頭を軽く撫でる。「魔獣とは言え、完全な人型の執事にそれはないだろー…」と見ていた全員が思った。
…思ったのだが……。
「ありがとうございますぅー!!」
鼻血を吹いてブッ倒れそうなくらい喜んでいた。
クイーン級の魔物を瞬殺する恐ろしい執事の評価は、一瞬にして「残念な執事」に落ちた。
撫でていた手を離すと、目に見えて残念そうに執事が肩を落とす。しかし、次の瞬間には復活し、背筋を伸ばして立ち上がる。
「悪いな、毎回突然の呼び出しで」
「いいえ。何度でも言わせて頂きます。主様に呼ばれ、お役に立てる事は喜び以外の何物でもありません。無論、それは私だけでなくゴールドやサファイアも同様です。ですので、お気になさらず好きな時にお呼び下さい」
「ああ、ありがとう」
「御礼を言いたいのは私どもです。主様にお仕えさせて頂き、本当にありがとうございます」
執事が頭を下げると、周囲の魔物の片付けが終わった狼と火蜥蜴も目を瞑って頭を下げる。
3秒キッチリ頭を下げると、途端に狼と火蜥蜴は冒険者に「私達も撫でて撫でて」と子供の様に甘え始める。そんな様子を仮面の執事は「やれやれ」と見つつ、人型になった自分の姿を改めて見る。
「それにしても、やはりこの姿は良いです」
「ん? やっぱり仮面だけだと動きづらいか?」
「いえ。この姿になると主様に撫でて頂ける頭があるのが何より素晴らしい…と言う話です」
「……………いや…もっと素晴らしいところ別にあんじゃん?」
「いえ、お言葉ですがそれ以上に素晴らしい事はありません! ゴールド、サファイアは勿論、パンドラ殿や白雪殿にも同意を頂いております!」
若干疲れたように冒険者が「そう…」と返す姿が少し哀れだった。
「まあ、いいや…。それよりサファイア?」
首の辺りを撫でながら呼ばれ、火蜥蜴が「キュー」とどこから出したのか分からない鳴き声で返事をする。
すると、先程の執事が現れた時と同じように火蜥蜴の体が炎に包まれる。
燃えているのではない。冒険者の手から力を渡され、真なる姿へと変じる為の儀式だ。
炎が巨大がする。
5m―――8m―――10m近く膨れ上がった炎が、そこでようやく収縮し、炎の中から深紅の龍の鱗に身を包む神龍が姿を現せる。
「「「「「ど、ドラゴンっ!!!!!!?」」」」」
周りの驚く声を無視し、神龍の鼻の横辺りを優しく撫でて冒険者は続ける。
「多分近くにパンドラ達が居るから、探して連れて来てくれ」
撫でられた事と頼られた事が嬉しいのか、大きな声で鳴く。
……ただ、本人にしてみれば「喜びを抑えられずに叫んだ」程度の事が、周りにしてみれば「世界の終わりの咆哮だ…!!」くらいの認識の差があったのが少々問題だったかもしれない。
とは言え、周りがどう感じたかなど神龍には知った事ではなく、受けた命令を即座に実行すべく、大きな体に似合わぬ風のような軽やかさで空へと上がって行った。
その後ろ姿を見送って、疲れたように言いながら刀を鞘に戻す。
「あー、終わっ」
その気の緩んだ一瞬―――…
「キャああああぁぁぁッ!!!!?」
悲鳴に振り返ると、悲鳴をあげたのが誰かはすぐに分かった。
ルルだ。
何故分かったのか?
答えは簡単―――ルルが羽交い絞めにされて居たからだ。
後ろにはカルゼ。ルルの首筋にナイフの刃をピタリと当て、親の仇の如く冒険者を睨む。その傍で母親のルーディと色黒の男が倒れているのは、ルルを捕らえるのを邪魔しようとして殴り倒されたからだろう。
「動くんじゃねええ!」
カルゼが叫んだ拍子にナイフが食い込んだのか、ルルの首筋に赤い滴が流れる。
「ヒグッ…」
「ルル!」「ルルちゃん!!」「くそぉ…」「ルル姉ちゃん!!」「離しやがれ!」
村人の叫びを、苛立ちを隠さず大声で返す。
「うるせええッ!!!」
今のカルゼには何もない。
他者を圧倒する力を持った神器はもうない。
蹂躙者たる魔物の手下も居ない。
人間の手下も魔獣達に無力化されている。
それでもカルゼの心は折れていなかった。
自分は選ばれた者であると言う確信。何が起ころうと、誰が死のうと、自分は神か悪魔か…何か見えざる力によって守られている。
(相手が何者であっても、俺だけは逃げられる筈だ! いや、逃げ切って見せる! そうさ、俺はこんな所で終わる男じゃない…! あんな餓鬼1人のせいで、今まで積み上げて来た物全部台無しにされて堪るか!)
最悪1人で逃げるつもりだが、出来る限りは手下達も一緒に逃がす。これだけの人数を揃えるのにどれだけの時間と苦労をかけたか考えれば、そう簡単に捨てる選択は出来ない。だが、魔物を操る力を失った今、手下達が裏切る可能性もある。自分が上で居る為には金なり力なりがやはり必要だ。しかし、それを考えるのは全部逃げる事に成功してからだ。
「冒険者! テメエはさっさと武器捨てろゃ!! おっと、魔獣にも何もさせるんじゃねえぞ!? 少しでも変な動きしたらこの女ぶっ殺すぞ!?」
仮面の執事が、主への無礼を見逃せず前へ出ようとする。
顔は見えないが、全身から憤怒のオーラが立ち昇っているかと錯覚する程殺気立って居た。何なら、人質のルルを見殺しにしてでもカルゼを殺してしまいそうな程に。
しかし、その一歩が踏み出される前に、主である少年がその腕を掴んで止めた。
「主様…」
「手を出すな」
「はっ、失礼致しました」
仮面の執事は軽く頭を下げて踏み出しかけた足を戻す。
狼も動く気はないようで、腰を下ろして“お座り”する。
近くに居た魔獣達にしか聞こえないような小さな声で冒険者は言った。
――― 奴は俺が狩る
その目に、先程までの子供のような無邪気さはなかった。凍てつく様なカルゼへの怒りと、こんな状況を作ってしまった自身の不甲斐無さへの怒り。2つの怒りが燃焼物となって心の中で業火となって渦を巻く。
しかし、怒りに呑まれて斬りかかるような真似はしない。怒りに身を委ねる事は、自身も、周りの者も、全てを破滅させると彼は知っているから。
冷静に―――冷徹に思考から怒りを締め出す。
心を焦がす炎は消えていないが、それでも体は冷静な行動をとった。
ベルトから刀を鞘ごと抜いて地面に置き、3歩下がる。
自分の言葉に素直に従った事に満足し、カルゼの心に余裕が生まれる。小さな笑みと共に見せ付けるようにナイフの腹でペシペシとルルの頬を叩く。
「そうだ、それで良い」
カルゼは気がつかない。
目の前の冒険者の目が―――鬼すら殺せる程の殺気を帯びている事に。
カルゼは気がつかない。
目の前の冒険者の体の中で、世界を崩壊させる程の力を持った異能が解き放たれた事に。
仮面の執事は男に憐れみの視線を送った。「貴様は今、世界で最も触れてはならない御方の逆鱗に触れたのだ…」と。
「いいかぁ、そのまま動くんじゃねえ。おらっ、お前等何してる! さっさと立て!」
逃げようとしている。
ルルを人質にしたまま、誰もこの場から動けないように釘付けにして。
半場引き摺るようにしてルルを連れて後退りするカルゼ。そこに冒険者は声をかける。
「お前と俺の間にある距離は何メートルだ?」
「ぁ?」
「まあ、精々6mってところか」
「それがどうした!?」
「俺が武器を手放して、俺から6m離れた。それで? どうしてお前が俺から逃れた気になっているのかが理解出来ん」
空気が熱を帯びたような錯覚。
冒険者が拳を握る。
ただの小さな―――小さな―――神すら殺す拳。
「俺がいつまでも、殺さないように優しく戦ってやるなんて……思い上がるなよ?」
「お、おい! 変な真似するんじゃねえぞ!? この女が死んでもい―――!?」
「ルルを殺したら、その瞬間に俺はテメエを殺すぞ」
「ッ!!!?」
「ルルの命はテメエの命だ。いいか? これが最後だ。ルルを離せ。そうすれば不必要な痛みを負う事もない」
一瞬の逡巡。
「ここで人質を手放した方が良いんじゃないのか?」少しだけ弱気になった心の中にもう1人の自分の言葉が響く。
それを後押しするように、手下達も「頭…これ以上は、もう…」「あの餓鬼、本物の化物ッスよ…」「やめましょうよ」「これ以上やったら、本当に殺されますよ…」「まだ俺達死にたくねえよ…」と次々にカルゼを止める言葉を吐く。
「う、うるせええッ!! こんな所で、あんな餓鬼1人に潰されて堪るかッ!?」
しかし、カルゼは止まらなかった。止まれなかった。
自分は特別であると言う過信がブレーキをかける事を許さない。
カルゼの言葉を受けて、空気が凍る。いや、凍ったかと錯覚する程の冷たく―――鋭い殺気。
カルゼは焦る。全身から汗が吹き出しているのに、体温を吸い出されているかのように体が冷たくなって行くのが自分で分かる。
恐怖で体が震える。膝がガクガクと笑いだし、ルルに押し当てている刃がカタカタと小さく揺れる。
ゆっくりと視線を動かして殺気の出所を追う。
そして、そこでようやく気付く。目の前の冒険者が、自分にどんな目を向けていたのか。
――― 化物の目だった
数多の命を奪って来た鬼のような―――数多の命を救って来た英雄のような―――清濁併せ呑んだ怪物の目。
その目は子供の目ではない。いや、それどころか、人間がするような目ですらない。
目が合った途端、カルゼの体の芯が固まる。
戦士としての感覚が―――人間としての本能が―――生物としての魂が―――この目には逆らうなと言っている。
それは、まるで
――― 神との対峙であった
神の如き目をした冒険者が言う。
「その道を選んだのはテメエだ。どんな結末になろうとも、素直に受け入れろよ?」
強く握った右拳をゆっくりと眼前に上げる。
ただの小さな子供の拳。
それなのに―――カルゼには、その小さな拳が、死神の鎌に見えた。
「や、やめろよ…! そ、そそ、その手を下ろせ…ッ!」
震え、怯えたカルゼの言葉を無視し、冒険者は拳を突き出す。
パンチ…ではない。
構えはない。踏み込みもない。過重移動もない。
直立不動の体勢から、無動作に虚空に向かって拳を突き出しただけ―――ではなかった。
「【神殺し】」
嫌な予感を感じ、カルゼは咄嗟にルルの後ろに隠れるように体勢を低くしようとした。その瞬間
――― 右半身が音も無く砕け飛んだ。
右の肩甲骨の丁度真ん中あたりから右足の付け根にかけてのライン、そのラインから右側の部位…ナイフを持っていた右腕と右足が、ガラス片のような破片となって周囲に飛び散り、地面に落ちた肉体の破片はキラキラと光って消える。
「ぁ…?」
何が起こったのか誰も理解出来なかった。
何も理解出来ないまま、カルゼは片足でのバランスを取れずに転倒し芋虫のように地面を転がる。
「…は…? ぁえ? 何? なんだ? ぇ? どうして?」
倒れたまま事態を認識しようとするが、意味が分からない。頭が目の前に置かれた現実を理解しない。理解出来ない。
カルゼの右半身は消失した。それは現実。それなのに、そこに苦痛は一切発生していない。実際、部位を失ったと言うのに血の一滴も流れておらず、傷と呼べる物は何1つ残って居ない。
いや、それどころか、着ている服も破れていない。まるで半身の無いカルゼの為に誂えられた服のように片腕の袖がない。
まるで―――始めからそうであったような、不自然な程の自然に。
「…お、俺の右腕は…? 俺の右足は、どこだよ…?」
カルゼの心を、体を恐ろしさが満たす。
未知の力に晒された恐怖。
理解出来ない化物に狙われた恐怖。
「どこにもねえよ」
冷たく突き放す様な冒険者の声。
地面を転がるカルゼを見ながら、刀を拾ってベルトに差し直し、落ち着いた静かな足取りで近付いて、へたり込んで居たルルを背に庇う。
「殺さなかったのは俺の慈悲だ。おっと、だからと言って別に感謝しろって言ってる訳じゃねえから」
「くっそが……クソ餓鬼がぁッ!! お前さえ…お前さえ居なければ俺は―――」
その先を続けられなかった。
腹から込み上げる物を我慢出来ずに吐き出す。
「ぇっほ、ゴホッ…ぇっぐ…ゲハッ…!」
血と嘔吐物の混じった物が地面に広がる。
「無理すんなよ。内臓もゴッソリ“殺して”やったから、体に少しでも負荷かける行動をするとすぐに体がダメになるぞ。まあ、さっさと死にたいなら構わんけど」
「…げェえ…エッほ…はぁッはぁ、俺の…体に、何しやがった…」
「見ての通り。テメエの右半身だけを殺した」
そんな事できる訳無い―――そう否定したいが、事実カルゼの右半身は消えて無くなっている。
つまり、目の前の化物は、そういう理屈の通じない存在なのだ。
その化け物が言う。
「俺は、テメエ等のような人の日常を食い荒らすゴミみてえな連中が死ぬ程嫌いだ。だから言っとくぞ?」
さっきと同じ、鬼すら殺すような殺気を帯びた目―――。
「死ぬ程苦しめ」