12-1 赤と闇の邂逅
光1つ無い深淵なる暗闇、自分の手元すら見通せぬその闇の中に冥王ハーデスは居た。
ここは冥府。死した魂が訪れる命の終着点。
冥界の王たるハーデスがどこに居たとしても別段不思議ではないが、ハーデスが自身の体で冥府の表層であるこんな場所に居るのは珍しかった。
冥府は下に向かう程死の瘴気が濃くなり、現在地は死の瘴気のもっとも薄い冥府の表層部分。死した魂が最初に来る場所であり、何かの間違いで生者が迷いこむ事もある…現世との繋がりがあやふやな場所。
普段は冥府の最下層に居るハーデスは、自身の体を動かさずに用事のある場所の近くに適当な肉体を作って【魂映し】のスキルで自身の魂のコピーを作る事で操る。
こんな面倒臭い事をするにも理由がある。
ハーデスは警戒しているのだ。大昔―――亜人戦争などよりも更に昔、それこそ魔神が生まれた頃の話。ハーデスは自分の身の上に疑問を感じていた。
世界が創生した瞬間に産まれたハーデスは、「かくあれかし」と何かに指示されたように冥府の王となった。生者としての楽しみも、生きる事の意味も知らぬまま死者を統べる王となり―――ある日、現世に亡者を差し向けた。
特に意味のあった行動ではない。ただ、生者は死んで冥府に来る。冥府で魂の穢れを落ちた者は転生し、そうでない者は亡者となる。その循環を管理するのがハーデスの役目。産まれた瞬間から何の疑問も無く行って来たその仕事を、「放棄したらどうなるのだろう?」と言う小さな好奇心で投げ捨てた。その結果、現世には数え切れない亡者が溢れかえり、世界は混乱に陥った。
世界が滅茶苦茶になった事については後悔も、謝罪しようと言う気持ちも何も無い。ただ、「自分の仕事はこうならない為の物なのか」と思っただけ。
――― だが、天罰が下る。
天から舞い降りた小さな黒い火種。
冥府に落ちた途端に、黒い炎は冥府の何もかもを焼き尽くした。
壁も地面も、亡者も、転生を待つ魂も、全てを平等に―――無慈悲に焼き尽くし、たった一夜で冥府の全てを無に帰した。
後に残ったのは、冥王ハーデスただ1人。いや、すでにそれは王ではなかった。何も無い空間に佇む、愚か者が1人だけ残っていただけ……。
聞こえない筈の“神”の声が言う。
『これが貴様への罰だ』
その声は幻聴だったのか、はたまたハーデスですら立ち入れない領域の……それこそ本物の“神”のような何者かの声だったのか。しかし、それは問題ではなかった。何故なら、もうハーデスの心は完全に折られて居たから。
自分が与えられた“冥府の管理”の仕事は、絶対に投げ出す事を許されないのだと気付いてしまったから。
それから数千年の時をかけ、ようやく冥府を元の姿へと作り直して今に至る。
冥王は動かない。
冥府が乱れれば、再び視えない神の鉄槌が下るかもしれない。故に、何かが起きた時の為に自身は極力動かない。
だが、冥府を乱しかねない存在が来てしまった。
人間が精霊の城の穴から落ちて来たのだ。その中に≪白≫の魔神を宿す者が居たのが見逃せない。しかも、他の人間達もまともな者ではない事はすぐに理解出来た。幸いにして、魔神を宿した人間は精神が“閉じて”いたので、肉体として利用し時間稼ぎに使った。
落ちて来た人間達は強かった。だが、ハーデスが本体で相手をすれば勝負は一瞬だ。
光の無い冥府において、ハーデスの持つ【闇の支配者】は最強だ。
落ちて来た人間達は、今も漆黒の闇の中で体と心を捕らわれて人形のようにピクリとも動けないでいる。今頃夢の中で死の苦痛を味わい続けている事だろう。
「精神が壊れたら、亡者共の餌にするか?」
安っぽい変声機を通したような声で独り呟く。
ふと、右腕が神器の男が口にしていた単語を思い出して苦笑する。
「正義…か」
ハーデスにとっては最も遠く、縁遠い単語だった。だが、だからこそ、それがどう言う物なのかは知っていた。
「正義とは眩く、美しく、そして儚く脆い物だ」
それに対しての答えは聞こえない。
当たり前だ。ハーデスの闇の中で全員眠っているのだから。
それなのに―――声が闇の先から聞こえた。
「正義とは、人が正しくあろうとする善性だ。それを否定しちまったら畜生に落ちてしまう」
闇はハーデスの腹の中と同じ。だと言うのに、声を発するまで誰かが居る事に気付かなかった。
「何者だ?」
問うた途端に、光が溢れる。
鮮やかな―――赤い炎がハーデスの闇を喰い荒して、熱と共に光が周囲を照らす。
「≪赤≫の魔神の継承者アーク」
赤い炎の真ん中には、銀色の髪の少年が立っていた。