9-18 深緑
ヘラクレス。
現れれば、世界規模の危機となるキング級の魔物の1体。
120mを超す圧倒的な大きさの巨人型の魔物。外見は特徴はなく、遠目に見れば筋骨隆々の大男にしか見えない。ただし、その大きさに目を瞑れば…だが。
ヘラクレスには特筆すべき能力は無い。
戦いになれば、普通に走って、普通に殴って、普通に蹴る程度の攻撃方法しか持たない。しかし、それで充分だった…充分過ぎた。
ヘラクレスの拳は大地を穿ち、一蹴りで山を割る。攻撃の全てが必殺。いや、攻撃だけの話ではない。ヘラクレスが踏み出す一歩で町が1つ滅び、二歩進めば城が壊れる。攻撃などせずとも、歩くだけで破壊の嵐が足元の世界に襲いかかる。
大きさとは絶対的な武器だ。
かつてアステリア王国のソグラスを壊滅させたギガントワームも、大きさを武器にした魔物であった。だが、ギガントワームは本来地中深くに巣を作り、地上にまで顔を出す事はほぼ無く、仮に現れたとしても、耐性も防御能力も持たない為、有る程度の戦闘能力を持った人間が居れば倒すことは可能だ。
だが、ヘラクレスにはあらゆる属性への完全耐性と、物理攻撃に対しての高い防御力がある。ギガントワームとは大きさも戦闘能力も圧倒的に違う。これが、クイーン級とキング級との埋められない力の差。
そんな魔物の王の1匹であるヘラクレスの前に、1つの人影が立ち塞がっていた。
人にしては長身であるが、それでもせいぜい2m。120m以上の肉体を持つヘラクレスと比べれば豆粒のような大きさだ。
そんな矮小な相手にヘラクレスが気付けたのは、その人影がヘラクレスの視線の高さに浮いていたからだ。
深紅の短い髪に真っ黒な執事服。
そして、何より目を引くのが―――顔を隠す、赤いラインの装飾の施された仮面。仮面の奥に見える目は、“深緑の瞳”。
礼儀正しく一礼をしてから、仮面の執事は話し始める。
「人の言葉が理解出来ているのかは分かりませんが、社交辞令として初めまして、と言っておきましょう」
「何者だ…?」
「おお、人の言葉が理解出来るタイプの魔物でしたか」
「貴様は…何者だ…?」
話しが出来る事に喜んでいる仮面の執事を余所に、もう1度質問を繰り返す。
執事は特に気を悪くした様子も無く答える。
「私はエメラルド。我が創造主にして、神たる≪赤≫の御方に頂いた名です。呼ぶ時には敬意を持って呼びなさい」
「そうか…」
人間の名前なんてどうでも良かったので、構わず殴りかかる。
ヘラクレスにしてみれば、ごく普通に拳を出しているだけのパンチ。だが、それを人のサイズで見ればどうなるか? まるで大海のうねりの如き体の動きで、音よりも早く突風を撒き散らして突き出される巨大な凶器。
速い―――と認識した時には、あまりの攻撃範囲の大きさに逃げ道を失っている。そう言う類の、“どうしようもない”攻撃。
仮面の執事も、その拳を避ける術を持たず、虫のように直撃を受けて地面に叩き落とされる。
小さな島で有れば一撃で壊滅させかねないヘラクレスの拳の直撃。普通の人間ならば間違い無く即死。多少耐久力がある者でも、2度とベッドから立ち上がれないくらいのダメージは逃れられない。
「バカが……そのような矮小さで……勝てるとでも思っていたのか?」
言ってはみたが、どうせもう聞こえてはいないだろうと、踵を返し再び歩き出―――…。
「やれやれ…服が汚れてしまうではないですか?」
まさか!? と先程仮面の執事を叩き落とした地点に目を向ける。
落下の衝撃で森の木々が十数本へし折れ、その衝撃の中心地には、先程拳を直撃させた筈の“敵”が、呑気に服に付いた埃をパンパンと払っていた。
「余り暴れないで頂きたいものですね? 主様はこの森を護ろうとしていたようですし、貴方のような無駄に図体だけが大きい方に暴れられると、私が怒られてしまいます」
その言葉に対するヘラクレスの返事は、足だった。
――― 踏みつけ
振動と共に大地が抉れ飛ぶ。
親の敵の如く踏み潰す。
1度では終わらない。
踏んで、踏んで、踏む。
更に踏む。踏む踏む踏む踏む踏む。
何度も何度も、地面に足を突き立てて下に居る仮面の執事に確実な死を与えようとする。
足が土を踏みしめる度に、先程の拳を受けてもピンピンしていた仮面の執事の姿が頭を過ぎる。
何度踏んでも、死んでいる姿がイメージできない。
体の大きさも、パワーも圧倒的に上回っているのは確信しているのに、自分の勝利する未来が見えない。
キング級の魔物として、魔物の頂点である存在として、負ける事は考えた事はないし、想像もした事も無い。………だが、今、自分の足の下に居る仮面の執事を前にして、初めてそれをしてしまった。
――― もしかしたら、自分は負けるかもしれない…と。
そして、そのイメージが現実であると言うように、足の下から声が聞こえた。
「何度も言わせないで下さい。服が汚れると―――」
凄まじい力で、地面に付いていた足を“何か”が持ち上げる。
「―――言っただろう!!」
120mの体が投げ飛ばされた。
「ぐむぅ…!?」
咄嗟に反対の足を地面で踏ん張って、体勢を保持する事に成功。しかし、その隙に、仮面の執事はフワリと浮き上がり、ヘラクレスの視線の高さに上がる。
最初の状態に戻された。
だが、それは良い。問題なのは、“自分が何故投げられたか?”だ。
目の前の敵が、体の大きさと釣り合わないパワーの持ち主…と言う事であれば、それならそれで納得出来る。
しかし、それでは疑問が残る。
今、足を投げられた時……確かに足を掴まれた。
ヘラクレスの全長を考えれば、足首の細い部位でも最低15m以上の太さがある。それを、あの小さな手で掴んだと言うのが、どうにも腑に落ちない…と言うより不気味だった。
改めて仮面の執事を観察する。
あれだけ激しく踏み続けたと言うのに、服が土埃を被った程度で、ダメージらしきものは一切見えない。いや、そもそも、踏んでいる時にも違和感はあったのだ。蟻のような小さな物を踏んでいるような感触は無く、大きくて硬い塊を踏んでいるような……そんな感触だけが今も足の裏に残っている。
「やれやれ…」
執事服の汚れを丁寧に払いながら、大きく溜息を吐く。
そして、ヘラクレスの踏みつけで地形の変わってしまった森の一部に目をやる。
「こんな様では、主様に怒られてしまいますね?」
己の不甲斐無さを嘆く様に、仮面越しに額を抑える。
「主様に“やり過ぎるな”と言われた事で、少々手を抜き過ぎましたね? これ以上暴れられては、私の評価に傷が付きそうですし、手早く終わりにしましょう」
深緑の瞳から放たれる、無言の圧力。思わず、ヘラクレスは一歩下がってしまった。
「逃げないで下さいね? 貴方は動くだけで森を破壊しますので、その場でジっと……死を受け入れろ」
瞬間、執事の左手が消失する。
肘から先が、文字通り消えて無くなった。
そして、その場に影が落ちる。ヘラクレスの上だけではない、森も、その先の草原にも大きな影が落ちる。
陽を雲が隠したのかと思ったが……違う!
――― 天が落ちて来た
「……な…に…ッ!?」
しかし、それは突然の天変地異などではなかった。
落ちて来た物は――――天を覆う程の、巨大な手。
信じられない光景に、魔物であるヘラクレスは恐怖した。
今すぐにでもこの場から逃げ出したい。だが……
――― どこに?
逃げ場所なんてどこにある? 天を覆う程巨大な手から逃れるには、どこまで逃げれば良い? 何処に逃げれば良い? そんな場所、有る筈無い。仮に在るとしても、それは最低でも別の大陸だ。
逃げる事も出来ずにその場で棒立ちしているヘラクレスの巨体を、更に巨大な天の手が米粒でも摘まむように、人差し指と親指でチョイっと摘まみ上げる。
「ぐぁああああああああああっ!!!?」
摘まみ上げる…と軽い言葉で言っても、摘ままれた方は自分の体以上の巨大なプレス機にかけられているような物だ。どれ程の痛みと苦しみかは想像に容易い。
ヘラクレスがプレス機にかけられて生きているのは、防御力が優れているからではなく、ただ単純に天の手が力を込めていないからだ。
「呆気ない終わりで申し訳ありません。ですが、あまり時間をかけるのも主様に失礼ですので」
ヘラクレスを摘まんでいる天の手は左手。そして、仮面執事の消えた手も左。考えるまでもない答えだった。
「この手は……貴様の……手か……?」
「ええ。私は熱量が存在する場所で有れば、天、地、海、如何なる場所も自分の体として形成する事が出来る能力を持っていますので」
「……ば…かな……!」
そんな能力が有って良い訳がない。
もし本当にそんな能力が有るとすれば、その能力の保有者は、世界その物と言っても過言ではない。
そんな神に等しき力を、個である生物が持っていて良い筈無い。
更に恐ろしいのは、その能力を持っているかもしれない仮面の執事が、誰かによって創りだされた存在だと言う事だ。仮面の執事が主と呼ぶその者こそが、本物の神ではないのか?
「そうそう…先程の貴方のセリフを、そのまま返させて頂きます。“そのような矮小さで、勝てるとでも思っていたのか?”」
天の手に力が入り、2本の指から必死に逃れようとしていた巨大な魔物をグシャリと潰す。
「我が神たる御方の、敵として生まれた不幸を呪いなさい」