8-27 逃げる者と…
翼人の少女は走っていた。空を飛ばないのは、背中の翼が負傷して広げる事が出来ないからだ。
そして、その横を走る猫科の獣人の男と、その両脇にそれぞれ抱きかかえられているエルフの少女と少年。
更にその後ろには、様々な亜人が30人程一塊になって森の中を疾走していた。
20分程前、アルフェイルに居た亜人達は、エルフの里を捨てて一斉に逃げだした。
守備隊長のエルフに促されるまま、転移出来る者は怪我人を大急ぎで森の外に逃がし、残った者達は非戦闘員を交えていくつかの組みに別れて森に散った。
≪青≫が現れたと聞いて戦う事を主張した者も居たが、「≪赤≫の御方をあれ程追い詰めた者だぞ? 戦って勝てるのか?」と守備隊長に凄まれて、皆引き下がった。
そして森に出て10分程経った頃、突然自分達を追うように魔物達が現れた。
その数、確認出来ただけでも13匹。しかも、そのどれもが人間の基準で言うクイーン級の魔物。
2,3匹だったなら、あるいは戦う選択肢もあったかもしれないが、13匹を分散した状態で…しかも非戦闘員の子供や老人を抱えたまま戦うのは無謀を通り越してただの馬鹿だ。
だから、亜人達は迷う事無く逃げる事を選び、何度か厳しい状況にはなったがそれでも辛うじて逃げていた。
勝機は無い。だが、この場を切り抜ける可能性はある。
転移で森を出た者達だ。
怪我人達を森の外に逃がしたら、戻って来て順次皆を逃がして行く手筈になっている。それまで逃げ切れば助かる。
その希望1つ抱いて、彼女達は痛む足に鞭打って走り続けた。
「皆頑張って、もうすぐ迎えが来るから!」
翼人の少女は、背後に迫る魔物の気配を警戒しながら皆を励ます。
皆を逃がす為に魔物と交戦した時に翼を片方傷付けられて飛べなくなってしまったが、それでも彼女は元気だった。
自分はここで死ぬ訳にはいかないし、皆を死なせる訳にもいかない。そんな感情が、使命にも似た覚悟となって彼女の体を動かす。
彼女や他の亜人達がエルフの集落に居るのは、元を辿ればこの森にドラゴンゾンビが現れた事がキッカケだ。それに対抗する為に集められた戦士の中で、彼女はかなり年若い部類に入る。
そんな彼女でもかつての戦争で亜人を護ってくれた大恩ある≪赤≫の話は良く知っていた。子供の頃から、寝物語に聞かされるのは大抵その話で、翼人にとっての霊峰であるビニグル山に向かって“≪赤≫の御方”に祈るのは日課であった。
だからこそ、件のドラゴンゾンビとの戦いに人の戦士として里に来たのが、≪赤≫の力を受け継いだ御方だったと知った時は、まさしく神との対峙と言っても良い程の喜びと驚きだった。
まして、その戦いで自分がピンチになる事も厭わずに助けてくれた、あの幼くも神々しい姿を見てしまっては、崇拝するなと言うのが無理な話だ。
(私の…私達の命は≪赤≫の御方が御救い下さった。あの御方にその恩を返せぬまま、死んで良い訳ない!)
≪赤≫の御方が消えたと聞かされた時は、この世の終わりかと目の前が真っ暗になって、脱水症状を起こす程泣いた。
だが、冷静になるとこう思うのだ。
(あの御方が、死ぬ訳無い! どこかに行かれているのだとしても、きっと戻って来てくれる!)
と。
だからこそ、翼人の少女はそれを信じて、今の絶望的な現実を前にしても折れる事無く心を強く持ち続ける事が出来た。
――― だが、どんなに強く心を持ち続けようとも、どうしようもない事はある。
目の前にあった水溜まりを飛び越した瞬間、濁った水溜まりに足を掴まれた。
「……え!?」
それは水溜まりではなかった。水溜まりに擬態して待ち伏せていた粘体魔物。気付けなかった時点で、勝負は決していた。
泥水の水溜まりが膨れ上がり、3m程の大きさの黒い水玉になる。
「ウィンディア!!?」
隣を走っていた獣人が声を上げ、その両腕の子供達がずっと続いていた緊張感と、目の前でスライムに下半身を食べられた翼人の少女を見て泣きだす。
後ろを走っていた亜人達も驚きと恐怖で思わず足が止まる。
スライム種の魔物には、捕食した相手を即座に溶かし殺すタイプが多いが、今のところ溶かされている痛みや熱さは感じない。完全に頭まで呑み込んでから溶かすつもりなのだろうか。
「皆っ! 私は良いから行って!!」
命が惜しくない訳ではない。だが、この場に皆が留まっても、このスライムをどうにかするには時間がかかる。そうなれば、背後に迫る13体の魔物が追い付いて全滅だ。
(だったら、私1人で済んだ方が―――)
命を諦めるつもりはない。皆が行った後に、1人でも魔法でも何でも使って生き延びる。
「バカ野郎! お前1人置いて行けるかよ!? ガキ共、ちょっと降りてろ」
獣人が子供達を地面に下ろし、背負っていたアックスでスライムを攻撃する。だが、ただの物理攻撃は粘体には効果が無い。
他の亜人達も、すぐに状況を察してウィンディアを助け出そうとそれぞれに魔法を唱える。魔法の使えない者達は、引き込まれそうなウィンディアの体を掴んで引っ張り出そうとふんばる。
炎や冷気、雷や風がスライムの体に叩き付けられるが、一向に呑み込んだ下半身を放す気配はなく、弱っているような様子も無い。
「くそ、くそ! 放せ、放しやがれ!!」「もう少しの辛抱だから我慢しろよ」「すぐ助けてやるから!」「皆、一回エレメント統一して!」「分かった、粘体は炎に弱いのが相場だぞ」「よしっ、行くぞ!」
亜人がどんなに力を合わせて頑張っても、スライムはビクともしない。
そうこうしているうちに、背後に魔物の影が迫る。
「皆っ、もう良いから逃げてっ!!」
「うっせぇ!! 仲間見捨てて逃げたら、≪赤≫の御方に顔向けできねえよ!!」「そうそう」「その通り!」
この場に居る亜人は皆、ウィンディアを助ける覚悟を固めていた。助けられないのなら、一緒に死ぬ…そう言う覚悟を。
「皆…」
「バカ、泣いてる場合か!」
そう言われても、嬉しくて情けなくて涙が止まらない。
追撃の13匹の魔物は、もう30m程の距離まで近付いている。もう、逃げだしても逃げられるような余裕はない。
皆の死が、この時点で確定した。
涙を流しているのはウィンディアだけで、それを助けようとしている亜人達は皆、どこか満足げな…誇らしげな顔をして笑っていた。
(あれ? 子供達は…?)
さっきまで大声で泣いていた子供達がいつの間にか泣き止んで、魔物とは反対の進行方向を指さして口を開けて呆然としていた。
その指の先には、小さな人影が1つ。
ユックリと、一歩一歩踏みしめるようにコチラに向かって歩いて来ている。
「≪赤≫の……御方……?」
ウィンディアの呟いた固有名詞を聞き、皆がその視線を追って向ける。
そこには銀色の髪の小さな少年が居た。
特徴的な焔色の異装を纏い、腰には鞘だけをぶら提げた…紛れもなく、先日この森で魔竜を討伐した少年の姿だった。
「ぉ、おお…」「そんな…まさか」「御戻りになられた…!」
ウィンディアも亜人達も喜びで震えた。
だが、それで攻撃の手は止まり、それを期とみたのかスライムが一気に少女の体を呑み込もうとする。
「きゃぁっ!!?」
その途端、ズンッと言う地鳴りと縦に揺れる振動。
「なんだ?」と亜人達が音のした方を向くと、そこには少年の姿は無く、小さな足型のへこみと、そこから広がる放射状のヒビ。
そして、その足型の本人は―――スライムの頭上に居た。
転移ではない。神がかった、ただの身体能力による高速移動。
無言のまま、その細く小さい手を粘体の中に無造作に突っ込む。手の平から炎のような赤い光が漏れ、瞬時にスライムの体を膨張、爆散させる。
粘体とは言え、魔物である以上体は魔素で出来ている。周囲には液状の体が飛び散る事はなく、霧のように黒い魔素が撒かれて終わった。
「ひゃぁ!」
突然拘束が解かれてウィンディアが地面に転がりそうになると、後ろから腕が伸びて来て、腰を抱くようにしてそれを支える。
「ぁ…≪赤≫…の御方……!?」
自分を後ろから抱いている人物の顔を見て、状況も忘れて血が沸騰するような恥ずかしさと嬉しさが同時に込み上げてくる。
「大丈夫か?」
静かで落ち着いたその声を聞いて、耳まで赤くなったのが自分でも分かった。
「は、は、ひゃいっ!!」
一言返事をするだけなのに噛んでしまう程テンパる。恥ずかしさで更に赤くなってしまう。
しかし相手はそんな様子を気にした風もなく、表情も変えずにウィンディアから手を放し、向かって来ていた13匹の魔物達に視線を向ける。
何かをした訳ではなく、ただ見ただけ。だと言うのに、迷い無く突っ込んで来ていた魔物達の足が止まる。
ただ立ち止まったのではない。その魔物達の目は…足は、恐怖で揺れているのが傍目にも良く分かった。
追手の魔物達は、全て例外無くエスぺリアの支配下にある。感情と思考を奪われ、何も感じず、何も考えず、エスぺリアの命令だけを実行する奴隷となる。だと言うのに、魔物達は恐怖で足を止めた。それはつまり、少年への恐怖心がエスぺリアの支配力を凌駕した事を意味する。
「森から出て、出来るだけ離れていろ」
それだけ言うと、ユックリと魔物達に向かって歩き出す。いや、別に魔物達を目指しているのではなく、ただ自分の進行方向にたまたま魔物達が居るだけだ。
「ど、どこに行かれるのですか!?」
訊くまでもなく分かっている。≪青≫の所だろう。
だが、だからこそウィンディアも他の亜人達も不安だった。≪青≫と戦えば、またどこかに消えてしまうのではないかと。
訊かずには居られない。「帰って来てくれますか?」と。
しかし、少年は何も答えずにスタスタと歩く。
魔物達は怯えて道を開けた……訳ではない。囲んで襲いかかる為に、位置取りを変えたのだ。恐怖に足を取られていても…いや、恐怖に捕らわれているからこそ、この場で何とかして仕留めようとしている。
だが、それに気付いているのか居ないのか、少年は真っ直ぐに歩いて囲いの中に入って行く。
魔物の気配が大きくなり、動き出す。
堪らずウィンディアは悲鳴のように声をあげる。
「危ない―――!!」
魔物が少年に襲いかか―――
「【告死の魔眼】」
少年の瞳の奥で、赤い光が踊る。
取り囲んでいた魔物の体の中でパキンッと何かが壊れる小さな音がして、次の瞬間13匹の魔物が全て黒い魔素を撒き散らして四散した。
「……え?」「なんだ…今の?」「な、にが…?」
目の前で起こった事が理解出来ず、亜人達は首を傾げる。
13匹の魔物は、全てクイーン級以上の凶悪で強力な魔物だった。それなのに、今攻撃すらせずにそれを屠って見せたのは、どう言う理屈だろうか? 訳が分からずお互いに顔を見合わせてしまう。
ウィンディア達が一瞬視線を逸らしたその一瞬で、少年の姿は幻であったように消えていた。
「あれ!? ≪赤≫の御方!!?」
「え!?」「あっ、もう居らっしゃらない!?」「せめてお礼を!!」
少年が歩いた先には、焦げた真っ黒な小さな足跡だけが森の奥に向かって伸びていた―――…。