涙
家に入るのが怖い。
渋滞もなく、信号もスムーズに走り、実家に戻ったとたん、鷹也は到着するなり胃が痛くなった。
ため息を何度もついて、ようやく駐車して下りる。だが、家の前で立ちつくした。
古い日本家屋の池内家のドアはガラスの開き扉で、少しでも開けると音が大きく鳴り響く。手をかけるのも震えた。
鷹也は扉を開けた。
「ただいま」
家の中に声をかけると、廊下を静かに歩いて来たのは、翠だった。
「おかえり…」
翠の顔は赤く泣いた後に見えた。鷹也は思わず靴を脱いで翠を抱きしめていた。
「鷹也っ」
翠がびっくりして抵抗をしたが、鷹也は離さなかった。すると、翠が抵抗をやめて力を抜いた。おずおずと背中にまわされた手を感じて安堵する。
「お袋たちは? いるのか?」
「二人とも出かけてる」
翠がぽつりと言った。鷹也は大きく息をついた。
「部屋に行ってもいいか?」
「僕の?」
翠が目を丸くした。鷹也は強引に翠の部屋へ向かった。翠の部屋は整理されていて綺麗だった。
ベッドに座ると翠も隣に腰かける。
「翠…」
別れたくない。けれど、言えない。
鷹也は情けない事にそれ以上、声を出せなかった。翠は何を思っているだろう。
「名取さんとはどんな関係?」
「は?」
亘がどうしてここに登場するのか。鷹也は頭を振った。
「ただの飲み友達だ。どうしてあいつの名前が出てくるんだ? 亘としょっちゅう会うのか?」
「違うっ」
翠は大きく首を振った。
「あの人は元恋人? 名取さんが言ったんだ。僕のこと、鷹也に釣り合っていないって。僕と一緒にいると、今後、鷹也が困った事になる。それに、いずれ僕は鷹也のことが嫌になるって」
亘が何を思って翠に近づいたのか分からない。けれど、亘のことを悪く思いたくなかった。亘はきっと自分と翠のためを思ってしたことなのだ。
「部活を始めたのは友達に誘われたからって本当か?」
翠に問いただすと、少し目を逸らしていたがぽつりと教えてくれた。
「クラスの友達が僕の事、女みたいだって言ったんだ。女より顔がかわいいとか、しぐさも女みたいだって。それを聞いて鷹也もそうなのかなって思った」
「はあ? 俺が好きなのは男だぞ。女を好きだと思ったことは一度もない」
「うん…」
話が逸れそうなので、慌てて元に戻す。
「それで? 柔道部に入ったのか?」
「男らしくなりたかった。鷹也も、僕が男らしくなれば信じてくれるんじゃないかと思った」
「何言ってるんだ? 俺はいつでも翠のことを信じてるよ」
「可愛いって、いつも言ってた」
確かに翠は可愛い。そこらの女よりもめちゃくちゃ可愛い。でも、それは男が好きなわけで…。女のように可愛いわけではない。
翠はどうだろう。女も好きな対象で見ている翠だったら、可愛いという形容は女に使うものだと思っているかもしれない。
「僕は女の子じゃないよ」
「当たり前だっ」
鷹也が怒ったように言うと、翠がしょんぼりした。
「何があったんだ? 亘は他に何か言ったのか?」
「僕は、鷹也の趣味じゃないって」
「俺の趣味はどうでもいいだろ」
言ってしまってから後悔する。
違う。大事なことだ。
翠は、口を噛んで鷹也を睨んだ。
「女子から付き合ってって言われた。僕が柔道を始めたから、男らしいって言ったんだ」
「それで? 付き合うのか?」
「いいよって答えた。僕は男だから」
ガンと頭を殴られたような衝撃を受ける。
俺は男が好きなんだ。どうして翠に分かってもらえるだろう。けれど、思春期の翠にとって女子の存在は大きいはずだ。離れようと言いだした年上の男より、同級生の女子と付き合う方が筋が通っている。
俺にしとけよ、となんて言えるはずがない。翠の自由を奪いたくない。
「分かった」
鷹也はぐっと息を呑んで、頷いた。
翠が顔を上げる。翠の唇が震えていた。なんだか泣きそうに見えた。
泣きたいのは俺の方だ、と鷹也は思った。
翠が好きだ。離れて行っても、自分は翠のことを忘れることはできないだろう。
愛してると言う言葉を呑みこむ。愛してるなんて陳腐なセリフを言ったら、殴られそうだけど、翠が大事だった。
「いいんじゃないか? 女子と付き合うのは健全な証拠だものな」
「いいの?」
「ああ、いいよ。けど、相談はしないで欲しいかな。俺は、女と付き合った事もないし、高校生の気持ちなんて全然分かんないからさ」
「本気で言ってるんだよね」
「本気に決まってるだろ」
瞬間、翠の表情がすっと消えた。
鷹也は、体がひやりとする。
「それでいいの? 僕が鷹也のこと忘れてもいいんだね?」
鷹也は頷かなかった。
頷けるはずがない。今なら簡単に泣ける。
鷹也の寂しそうな顔を見て、翠が強く言った。
「僕、もう、15歳じゃないよ」
「え?」
顔を上げると、翠は力強いまなざしで鷹也を見ていた。
「この間、16歳になったんだ。十月が誕生日だったんだ。一緒にランチに行った前の日、僕の誕生日だったんだよ」
「なんで言わないんだよ」
鷹也は腹が立った。
そんな大事な事、どうして教えてくれなかったのか。
「僕は16歳になったけど、まだ、ダメなんだよね。未成年だから」
未成年にこだわっているのはどちらなのか。
「鷹也…」
翠が鷹也のシャツを強くつかんだ。
「僕は、鷹也と別れたくない」
「翠…」
鷹也が力なく顔を上げた時、涙が出ていた。悲しかった。翠と離れるのは嫌だった。
「俺は、翠を愛してるから」
その言葉を聞いた翠の目が真ん丸になって、一瞬黙り込んだ。
それから、震えながら鷹也のシャツを両手でつかんだ。
「だったら、僕から離れないでよ。どうして黙って出てったんだよ。馬鹿っ」
「ごめん…」
近すぎて分からなかった。翠は尊い存在なのに、気がつけなかった。
「マンションで一人で眠りながら、いつも翠のことを考えていた」
「僕もだよ。けど、鷹也は一緒に居たくないんだと思った」
「そんなはずないだろう」
翠も泣きだして、鷹也の顔に頬を寄せる。おずおずと唇にキスをされた。久しぶりに翠とキスをする。鷹也は、理性を保って体をそっと離した。
「これ以上はダメだ」
「分かった」
翠は、分かってると言う顔で息をついて体を離した。
「女子に告白されたのは本当だけど、断ったからね」
「本当か?」
翠がむっと口を尖らせた。
「僕には鷹也がいるのに、オーケーするわけないだろ」
「頼むよ、俺をいじめないでくれ」
鷹也ががっくりと頭を落とした。翠が、その頭を優しく撫でてくれた。
「翠」
いつになったらいいの? と翠が小さい声で囁いた。
俺にも分からん…。鷹也は情けない声で答えた。
「はあ…、じゃあ、もう僕が決めるよ」
翠が呆れたように言ったが、少しふっきれたような顔だった。
「俺の承諾を得てからにしてくれ」
ふざけたように言うと、考えておくと翠が肩をすくめた。
鷹也は、翠の可愛い顔に思わずでれーっとしてしまった。
翠は、その顔を見てクスクス笑った。




