失恋
翠を失ってしまったような気持ちで、それからは、抜けがらのようになってしまった。
食事もほとんど喉を通らない。わーっと大声を出して、ストレス発散できればいいのに、何もする気が起きない。なのに仕事は待ってくれない。いや、仕事があってよかったくらいだ。
対象者はまだ、依頼者と顔を合わす勇気はないと言っている。そのことを老夫婦に伝えなくてはいけない。今日の午前中に依頼者はやってくる予定だった。
鷹也から事情を聞いた夫婦は、娘がまだ会いたくないと伝えても、落ち着いていた。
理由があるのはよく分かっている。今なら、全てを許すから声だけでいいから、話がしたいと言った。
対象者にそのことを伝えると、女性はもう少しだけ時間が欲しいと言った。今すぐは無理との事だった。
鷹也は、対象者と電話でやり取りをしたが、話し方からして、娘の方から連絡をくれるような気がしていた。
ようや く、この案件が一段落ついた。
ここで対象者に姿を消されたら、今度は見つからないかもしれない。けれど、自分たち探偵の仕事はそれ以上踏み込むことはできない領域だ。お互い大人なのだから後は連絡を取り合って、家族がうまく行って欲しいと思った。
娘が見つかってよかった。ひと段落ついたのに、鷹也の心はすっきりと晴れなかった。
翠のいない毎日を過ごすうち、家を出たのは間違いだったのだろうかと、ふと思うことがあった。
距離を置くというのはこういう事だったのだろうか。過去を取り戻せないことはよく分かっている。住まいは落ち着ける唯一の空間のはずなのに、一人部屋に戻っても寂しい気持ちになるばかりだった。これからずっと、翠のいない毎日に慣れることができるだろうか。
仕事から戻りかばんを置こうとしたら携帯電話が鳴った。時間は午後十時前だ。誰だろうと思って取り出すと、翠からだった。
息を呑んで、電話に出る。あの日、ランチに行った以来だ。
「はい…」
鷹也が静かに出ると、翠が、一瞬、息を呑んだのが分かった。
『あ、あの、僕だけど、翠です』
「うん、どした?」
なるべく優しい声を出す。これ以上、関係が悪くなるのは嫌だった。けれど、このままじゃいけないような気もしていた。
『今、大丈夫?』
「うん、いいぞ」
鷹也はまだ洋服も着替えておらず、立ったまま答えた。
「どした?」
『鷹也、僕、この間、クラスの女子に告白されたんだ…』
鷹也はごくりと唾を呑んだ。その続きを聞いてはいけないと警鐘が鳴ったが、黙っていた。
『聞いてる?』
「ああ、聞いてるよ」
声が震えた。翠も、声が震えていた。
『名取さんが、いい機会だから、女の子と付き合ってみたらって言うんだ』
「亘が?」
どうしてここで亘の名前が出るのか分からないが、最近、亘から連絡がない事に気付いた。その間、二人は連絡を取り合っていたのか。不思議と怒りは湧いてこなかった。
『名取さんは僕に、自分みたいになって欲しくないって言ったんだ』
「翠…」
鷹也の声は沈んでいた。
『何?』
「これからそっちに行くから、俺の顔を見て話しをしてくれないか」
『え?』
翠のおびえた声がする。自分は、翠を怖がらせているのか。
「翠の言うとおりにするから」
鷹也が言うと、翠は何も答えなかった。
「翠、会いたい」
『でも…、鷹也が言ったんだよね。ダメなんだって、キス以上のことをしちゃいけないって言ったよね』
翠が泣いている。鷹也も泣きそうだった。
「今から行くから」
鷹也は電話を切った。苦しかった。
でも、翠をこのまま苦しめるのは嫌だった。
車の鍵をつかんで部屋を飛び出す。
鷹也は、家に向かった。




