1.夢の世界へ
(もしかして、ただの停電かな?)
暗闇の世界があまりに長く続いたので、逆にソラの心は落ち着いてきた。
もしかしたら、まだ自分の部屋にいるのかも知れない……。いや、そう考えるのが普通だろう。もしかしたら別世界に迷い込んでしまったかとも思ったが、たぶんカン違いだ。
そんなこと、あるはずがない。
(少し前に歩いてみよう)
ソラは恐る恐る、左足を前に進めてみた。
真っ暗になる直前、彼は飼い猫にご飯をあげようとして、椅子から立ち上がったばかりだった。一歩前に進めば、きっとパソコンの机にぶつかるはずだ。
一歩、二歩……
ソラは足を運んだが、机どころか何にもぶつからない。
一旦落ち着いていた気持ちが、また不安に変わる。
そして、三歩目だった。
ふっ、と足を踏み外したような感覚がして、ソラの体はまたたく間に落下しはじめた。
再び景色は一変し、ソラは水の中をシャボン玉のような泡に包まれて、まるで永遠に続く急流すべりをしているようだった。
やがて、「落ち続けている」と思っていた状態から、どこかに向かって上昇していた。
頭上にぼんやりと光が見えてきた。まもなく、その光源は二つ、三つと徐々に分かれていき、最後には無数のきらめく水たまりが頭上いっぱいに広がっていた。
それぞれの水面上から射し込んだ光線が、ゆらぎ輝いている。
彼の体は上昇をやめて、ぴたり、と止まった。
(自分で選ばなきゃいけないのかな……?)
ソラは夢うつつな気分のまま、頭上に並ぶ水たまりのひとつに狙いを決めた。
進もうとして、手を水の中でかいてみる。ひとかきしただけだったが、彼の小さい体はまたたく間に急上昇して、選んだ水たまりに勢いよく飛び込んだ。
ソラの体にまとわり離れてゆくシャボンの泡に光がきらきら反射している。
ごぼごぼごぼ……、と音をたてながら、行く闇の先にまばゆい光の点が見えた。
(――そろそろ、出口なのかな?)
と、のんきにソラは思った。
光はどんどん輝きを増して、あっという間に少年の小さな体を包み込んでしまった。
気が付くと、ソラはやわらかい土の上で、あお向けに倒れていた。
まだ夢の中なのだろうか?
(はやくこんな悪い夢から目を覚ましたいな……)
と、ソラは思った。
よいしょ、と上半身を起こしてみる。
ソラの周りは、彼の身の丈ほどもある青々とした葦の茎に囲まれていた。
春のような陽気な暖かさに、草独特の緑の匂いが漂う。地面についた手のひらからは少し湿った土の感触がした。川のせせらぎが聞こえ、目には見えない虫や鳥などの生き物のうごめくかすかな気配を感じる……夢にしてはリアルすぎる。
(ここは、どこだろう)
ゆっくり立ち上がると、そこは葦が群生する河原のほとりだった。
背の高い葦たちがソラの視界をさえぎっていたので、少年は草をかきわけ歩き始めた。
葦の森を抜けると、彼の前に大草原が広がった。
ソラは落ち着こうとして、眼鏡をかけなおそうとしたが、そこで初めて眼鏡がないことに気が付いた。
どこかで落としてしまったようだ。
(あんなに勢いよく水の中を上がったり落ちたりしたら、そりゃ眼鏡もはずれるよな……)と落胆しながらも、あることに気が付いた。
全てのものが、裸眼ではっきりと見えるようになっていたのだ。
ソラは丘の上に立っていた。
ぼやけて見えるのは遠くの山々だけで、草原の色や、そよ風に揺れる鮮やかな花たち、おだやかに流れる白い雲も、ド近眼だったはずのソラの目に、はっきりとした輪郭と色で見ることができたのだ。
嬉しくなった反面、人気が全く無いことにも気が付いて、急にさびしくなった。
まだ夢の中だろう、いつかは目が覚めるさ……とソラは気を取り直し、寝ぼけたふりをして、丘のふもとへとぼとぼと歩き始めた。
ソラは、疲れたらひと休みしよう、と思っていた。なにせ、人一倍スポーツが苦手で、体も小さくて体力もない。いつもだったらこのへんで、へたりこんでいただろう。
しかし驚いたことに、どんなに丘を下っても登っても、全く疲れないのだ。それどころか、体の底からありあまる体力があふれ出してきて、走り出したくなるくらいだった。
(ま、夢の中だもんな)
と、ソラは冷静に解釈しながらも、この爽快な気分を楽しみ、足取り軽く進んでいった。
そしてまたひとつ、丘を登りきったときだった。
第一村人、発見――。
ソラがそろそろと近づくと、純白のマントを羽織った人影が背中をむけて立っているのが分かった。
村人にしては、派手な格好だった。
頭の上には先の尖った白い三角帽をかぶり、手には細い木の杖を持っている。そよ風に時々白いマントがゆらいで、健康的な白い太ももが見え隠れしていた。
ソラには、見覚えのあるいでたちだ。
「みゅう、さん?」
と、ソラは思わず声をかけた。
ソラの声に、彼女がびっくりして肩をすくめるのが分かった。
「みゅうさん、ですか?」
ソラは、もういちど呼びかけてみた。
その後ろ姿の女の子は、ゲーム仲間のひとり、白魔導士のみゅうに違いなかった。
ようやく振り向いた彼女は、みゅう――ではなかった。
思ったよりも幼い顔立ちで、その大きな瞳の視線がソラの胸と記憶を刺激した。
「きみは、たしか……」
龍乃海美――ソラが図書室の前でうずくまっていた所を心配して声をかけてくれた、あのウミという少女だったのだ。
「たつの、ウミさん?」
「うまめ、ソラくん?」
おたがい、フルネームで呼び合うふたり。
「なんで、こんな所にいるの?」
と、ソラ。
「アナタこそ」
と、ウミ。
ソラは全身白装束の少女に見とれながら言った。
地面に着くほど長くて白いマントの隙間から、小さな胸を強調するような白地のキャミソールと膝上のチュールスカートがのぞく。
白いエナメル調のブーツが太陽に反射して眩しい。
「その格好――白魔導士の衣装なんか着て……
龍乃さんって、コスプレの趣味があったんだね」
人見知りのソラがめずらしく弁舌にしゃべる。夢の中だと思うと、気軽に話せるし、彼女はほかの人と比べてなんだか会話しやすかったのだ。
「ち、違うわよ」と、ウミは顔を赤らめながら言った。
「そう言うソラくんも、ふつうの格好じゃないわよ。すっかり弓使いになりきっちゃって」
ソラははじめて自分のいでたちに気が付いた。
先ほどまでの薄汚い長袖長ズボンとは打って変わり、上半身はクロスアーマーをきっちり着込み、足回りは黒っぽいタイツ姿で、皮でできた靴を履いている。
(これって……まさか!?)
背中には軽くて小型の弓〝ショートボウ〟と矢筒を背負っていた。矢筒の中には金、銀、銅、鉄、鉛、木、と様々な材質の矢が入っている。
まさにゲーム世界のベレロフォンの衣装ではないか。
「ソラくんって、まさかベレロフォン、なの?」
小顔に乗った白い三角帽を斜めにかしげながら、ウミが尋ねた。
コスプレイヤーを否定した割には、三角帽を脱がずにかぶりなおしたりしている所を見ると、どうやらまんざらでもない様子。
「そうだけど……」と、はずかしそうにソラは答えて、
「もしかして、ウミさんが、みゅうさんなの?」と、聞き返した。
「そう……よ。ゲームの中では、ね……」
と、なぜか大きな瞳をそらすウミ。
「でも、みゅうさんは女子高生で、なんとかいう流行の雑誌の読者モデルかなんだ――って言ってませんでしたっけ」
ソラが多少混乱しながら、指摘した。
「それは――あれよ。これから、そうなるっていうか……」
白装束の少女は上目遣いで、ふくれっつらになる。
どうやらゲームの中では歳や身の上をごまかし、背伸びをしていたらしい。
「これ、夢じゃないのかな?イベントに参加するために登録したら、こんな所に来ちゃったのよ。ソラくんも同じ?」と、ウミが急いで話を変えた。
ソラがうなずくのを見て、
「この風景って、ドリーム・ファンタジーの世界テル=アリア、そのものよね……まさかアタシたち、ゲームの世界に迷い込んじゃったのかな?」
と、細いウエストに交差させたピンクとベージュの2本のベルトを左手で触れながら、不安そうにウミは言った。
ソラもうすうすと、これは夢なんかじゃない、と感じ始めていた。
見渡すかぎりの緑の丘と、青い空――
こんなに色鮮やかな夢なんて、今まで見たことが無い。
(それに、こんな弓矢なんか背負っちゃってるし……)
と、ソラは思った。
まさか、ぼくに戦えって言ってるんじゃないだろうな……
「あッ。あそこ、見て」
ウミが指差す方向に、大きな毛むくじゃらな茶色い物体がうごめいている。
2人がいる丘のふもとなので少し遠いが、なにやら頭をかかえとんだり跳ねたり、大声を出しているようだ。
「あれって、まさか――」
と、両人は言葉をのみ込んで、とにかく丘を下った。
近づくと、それは大部分がこげ茶で、少し黒や灰色が混じった毛で覆われた大きく粗暴な生きものだった。
言葉にならぬ声で、頭を振り乱し、太い両足で地面をどんどん踏み鳴らしている。
「熊王、じゃない?」
「熊王さん、ですか?」
2人の声を聞いてその大男はぴたり、と騒ぐのをやめた。
ゆっくりと振り返った彼の顔が、太陽の光で明るく映し出される。その顔を見るなり、再び2人は往年の夫婦漫才の如く口をそろえて叫んだ。
「くましろ、ダイチ!」
毛むくじゃらな獣の姿に変わり果てていたが、剛毛に埋もれた顔からのぞく人相は、確かに上級生を一人きりで打ち負かしたあの少年――熊代大地だった。
彼は下半身を隠すための短い半ズボンだけを身に着けており、上半身はおろか足には靴も履いていない格好で、まるでゴリラか原始人の様相であった。
ゴリラ――いや、もとい――ダイチは暴れるのをやめて、
「お前ら……同じクラスの龍乃と馬目じゃねぇか」と、2人を見下ろした。
「何でこんなとこにいるんでぇ。それに……何でオレさまだと分かったんでぇ。こんな醜いすげぇ格好になっちまっているのによぉッ」
ダイチは小学生とは思えない野太いだみ声とひどい訛りで凄んでみせた。
しかしソラとウミは顔を見合わせるなり、ケタケタと笑い始めてしまった。
「な、なに笑ってんでぇ!」
と、ダイチは不機嫌に言った。
「だって、イメージどおりなんだもん」
と、ウミが言うと、
「右に同じ、です」
と、ソラもおなかをかかえて笑う。
「わ――笑ってんじゃねぇぞぉ。こちとら、ゴリラみたいに全身毛だらけになっちまって……、とにかく、てぇへんなんだぞぉ!!」
ダイチが必死に訴えるも、笑いのツボにはまってしまった2人を黙らせることはできなかった。いじけてあぐらをかき、そっぽを向いて草の上に座り込んでしまった。
ようやく、ソラとウミが落ち着いてきた所を見計らって、
「もう、笑うんじゃねぇよ」
と、ダイチが声をかけた。
「ごめん、ごめん……。あまりにも緊迫した状況で、アナタが〝スゴイ風貌〟で現れたものだから、おかしくなっちゃって……でも緊張がほぐれたわ、ありがとうダイチくん」
「オレは、そんなつもりねぇよッ」とダイチはぶっきらぼうに返して、
「けどよぉ、いってぇココはどこなんでぇ……。まるでドリーム・ファンタジーの世界じゃねぇか」
と、背丈を活かして遠くまで見渡してみせた。
「さっきまで、確かに部屋にいたはずなんだけどよぉ。気が付いたらこんな硬い毛に覆われた姿になっちまって……」
彼は、指がうずもれるほどの深い体毛をながめながら、ため息をつく。
――ソラもウミも草の上に腰をおろした。
ソラが背負っている矢筒の矢どうしがガチャガチャとぶつかり合う。
ウミの真っ白いマントが緑のじゅうたんに広がる。
昇ったばかりの太陽のあたたかい光が、心地よく3人を照らした。
「おめぇ、眼鏡はどうしたんだよ。たしかいつもかけてたよな」
と、ダイチがソラに話しかけた。
「お……落としたみたい、なんです。ここに来る途中で……」
と、ソラは声を振り絞って出した。
「ゲームの中の仲間が実はクラスメイトだった、なんて、世界は狭いわね」
と、ウミは感慨深げに言った。そして、ふとあることに気が付いた。
「じゃあ……アタシ、この世界で魔法が使える、ってことよね♪」
少女はぱっと明るい顔になり2人の男子を振り返った。
「やってみて、いい?」
ソラとダイチは面食らって、こう言うしかなかった。
「どう……ぞ」
白魔導士の少女はぴょん、と立ち上がって、辺りをきょろきょろ見回した。一歩二歩、ほかの2人から離れて、緊張した面持ちで木の杖――魔法の杖を小さな胸の前でぎゅっ、と握りしめた。
彼女の少し分厚い下唇が、恥ずかしげに動いた。
「〈ア・ビリオン〉!」
――天から雷が落ちる雷撃魔法だ。
3人の子供たちは、かたずを飲んで見守った。
少女の上空に注目。
注目。
注目……。
…………
「なーんにも」
「起きない、ね」
魔法使いの少女は口をとがらせた。
「おっかしいわね……。呪文だけじゃだめなのかしら?」
あーでもない。こーでもない。と、ほかの呪文も唱えてみたり、魔法の杖を上にあげたり下にさげたり、バトンみたいにクルクル回してみたりしたが、いっこうに魔法は発動されなかった。
「じゃあ、面白くないけど……」とウミは言って、
「〈ラ・シェル〉」と、シールドを張る防御系の呪文を唱えてみた。
ぶんッ
という鈍い音をたてて、半透明の障壁が白魔導士の前方に現れた。
少女は飛び上がって、
「できた……ッ。スゴイわッ。アタシたち、やっぱり夢の世界に来てるのね!」と、自分が発動したシールドを恐る恐る触ってみた。
「なんか、ざらざらするぅ♪」
「……ありえねぇ。いや、オレさまの格好も、ありえねぇけどよぉ」
「これ、本物なのかな……?」
ソラも立ち上がって、この貝殻のような半透明の物体をまじまじとながめた。
「魔法使いになることが、幼いころからの夢だったのよォ♪」
と、すっかりテンションが上がってしまったウミ。
唯一発動できたこの防御魔法の呪文を、あちらこちらで唱え始めた。
「〈ラ・シェル〉」
「〈ラ・シェル〉」
「〈ラ・シェル〉、と♪」
またたく間に、草原のあちこちに半透明の貝殻が立てかけられた。
「ウミよぉ、やりすぎじゃねぇのか」
無数のシールドに囲まれて、ダイチが呆れ顔で言った。
少し離れた低木の茂みのそばで、呪文を唱えたときだった。
ぱしんッ
と、何かに当たった。
「何かしら?」
と、首をかしげて白魔導士の少女は茂みをかき分けた。
猿っぽい動物が背中を向けて、赤く腫れたおしりをさすっていた。
「おサル、さん?」
でも、何かおかしい。
肌の色が青色だし、干した草で編んだ半ズボンまで履いている。
青い肌の生き物は、背後から近づいてくる白装束のウミに気が付くと、すばやく振り返り、ワッと彼女に飛びかかった。
「きゃッ」
しりもちをついて、ウミは〝青い猿〟の攻撃をかわすことができた。
なんだ、なんだ、と男子たちも駆けつけた。
――それは夢の世界に生息する小さな妖精〝ゴブリン〟だった。
幼いころの夢が叶って喜んでいたのもつかの間、醜い顔をした小さなモンスターが目の前に現れて、いたいけな少女の笑顔がこわばった。
「なんで、あんたが出てくんのよ?」
腰を上げて、強気にもウミが食いかかろうとしたとき、
ガサガサッ――
うしろからもう一体、今度は赤黒い肌のゴブリンが現れた。
こちらは1人目のゴブリンより体がひとまわり大きい。しかも、あきらかに虫の居所が悪いようで、彫りの深い眉間や顔の形相がひどく怒りに満ちていた。
手には、自分の体ほどもある大きな手斧を持っていた――こいつは、やばい。
両脇に立っていたソラとダイチも思わず後ずさりする。
そして、ソラが柄にもなく、頑張って大声を張りあげた。
「み、みんな……逃げましょオッ」
その裏返った叫び声にはじかれたように、3人の子供たちは悲鳴を上げて草原を駆け出した……。