3.トラウマ
終業のチャイムが鳴ると、ソラはいそいそと教室から出た。
今日も、クラスの中で目立たないようにこっそりと過ごすことができた。大嫌いな体育の時間も無かったし、クラスの女子たちによるひどい仕打ちもなかった。
(上々の一日だったな……)
ソラは下校するほかの児童たちの間をすり抜けるようにして、校門をあとにした。
あの事件以来、ダイチとはもちろん、図書室の前で声をかけてくれたウミとも、ソラは言葉を交わしたことがなかった。彼は一日中視線を地面に落として、人と顔を合わせずに過ごすために、同じ教室にいることすら実感が無かった。
ソラは、同じ形の一戸建てがたくさん立ち並ぶ住宅街に入って行った。
一角に設けられた小さな公園の中を足早に歩く。砂場やちょっとした遊具もあるが、住民に抜け道として使われる程度の、人影の無いさびれた公園だ。
公園の出口付近にある大きなクスノキが日差しを浴びている。新緑の若葉が乱反射して夏が近づいていることを予感させた。
ソラは、足も止めずに車道との境に設けられた車止めの間から公園を出た。
坂道の途中にソラの家がある。いつものように長ズボンの右ポケットに入れていた鍵を取り出して玄関の扉を開けた。
小さな声で「ただいま」と言って、靴をそろえて家に上がる。
返事はない。いつものことだ。
薄暗いキッチンに電気をつけて、冷蔵庫を開ける。冷気で一気にソラの眼鏡が曇った。
お盆にグラスを乗せて冷蔵庫からオレンジジュースを注ぐ。
――彼には父親がいない。ソラがまだ幼いときに病気で亡くなったそうだ。
今は母親が働きに出ているため、家ではいつもソラひとりだ。
母は勤め先では中間管理職で、人並み以上の収入があり、人並み以上に多忙なため、夕ごはんもソラがひとりで食べることが多かった。
それでも、朝御飯はなるべく2人で食べるように努力してくれている所や、たまの休日にも仕事の疲れをおくびにも出さず2人で外出してくれる所、大きな公園で手製のサンドイッチをいっしょに食べたり、たまに欲しいものを買ってくれたりする所、ソラが学校で友達がいないことについても、『いつかソラにも、イイ友達ができるわよ』とやさしく見守ってくれる所――、そんな母がソラは大好きたった。
それだけに、小学校でのふがいない自分が、ソラは大嫌いだった。恥ずかしかった。
人並みに友達を作って、人並みに子供らしく、人並みにはしゃいだりしたかった。
(ボクも、小学校に入る前は、こんなんじゃなかった……)
ソラは、買い置きしてあった菓子パンを適当につかみ、お盆を持って階段を上った。
〝黒毛の彼女〟に気付かれないように、静かに自分の部屋の扉を開ける。忍び足で勉強机に近づき、ランドセルを椅子にかけ、いつものようにパソコンの電源を入れた。
早速ホームページからドリーム・ファンタジーのサイトにログインする。
しかし黒毛の彼女は、ソラが部屋に入ってきたときからすでに目を覚まし、彼にゆっくり近づいていた。
勉強机の上にひらり、と彼女は飛び乗ると、「ゴロゴロゴロ……」と喉を鳴らして、ソラのか細く白い腕に甘えるようなしぐさで、黒い長毛の体をすり寄せてきた。
「ただいま、ニンフ」
と、ソラは苦笑いして、彼女のうなじから背中を優しくなでた。
ニンフ――は、ソラが小学校に入ってからずっといっしょにいる黒猫のことで、今年で4歳になる。人間の年齢に換算すると30歳前後なので、10歳のソラから見れば、もうオバさんだ。
ソラの部屋の扉には、膝の高さほどの小さい開閉式の扉がついている。ニンフが家中を行き来できるようにしているのだが、あまり家にいない母親よりも物静かなソラになついていて、ほぼソラの部屋に入り浸っている。
黒毛をなびかせてニンフは机の上からソラの足元にひらりと降り立った。ソラのふくらはぎに一層強く体をこすりつけてくる。
彼女がご飯をおねだりするときの合図だ。ドライフードは常に入っているが、このようなしぐさの場合は、特にやわらかい缶詰フードを欲しがっているのだ。
しかし、早くゲームをしたかったソラは「もうちょっと後でね」と言って、椅子に腰かけたまま、パソコンのキーボードをカタカタとタイピングしはじめてしまった。
ニンフはしばらくニャーニャー鳴いたり、ソラの顔を見上げて見つめていたりしたが、パソコン画面にくらいつくソラを見てあきらめ、カラーボックスの下に置いてあるいつものドライフードをしょうがなくカリカリ、とかじり始めた。
ソラもお盆に乗せたオレンジジュースを少し飲んで、菓子パンの袋を無造作にバリッと破り、とりあえず一口ほおばった。
ドリーム・ファンタジーには、まだ誰もログインしていなかった。画面の中ではソラのキャラクターであるベレロフォンがひとり、城下町の交差点でさびしく突っ立っていた。
「ゲームの中でもひとりぼっちか……」
ソラは自分を皮肉り、できるだけさらりとつぶやいた。
黒猫のニンフはカラーボックスの上に乗り、夢中になって食後の舌なめずりをしていた。彼女はソラと目が合うと、静かにニャ~、とささやく――ごちそうさま、という意味だ。
「はい、ごちそうさま」
とソラは返事をして、「あとで下から缶詰を持ってきてあげるからね」と言い訳をした。
ニンフはやれやれ、という感じで大きな瞳をぎゅうっとすぼめてから、ひと眠りする前に毛づくろいを始めた。
「みんな、遅いな。まだ来ないのかな……」
仲間がなかなか現れないので、ソラも少し、うとうとしはじめた。
画面の中でポツンとひとりたたずむ、ベレロフォン。
(ゲームの中でもひとりぼっち、か)
ソラは待ちくたびれて、まぶたが重くなってきた。
(でも、ゲームの世界ではさびしくはないぞ)
首を横に振って一度は睡魔を吹き飛ばした。
(僕は英雄ベレロフォンだ。ペガサスにまたがって、クラスのみんなも見たことがない広大な幻想の世界へ繰り出すんだ。スリルと興奮に満ちた冒険を経験するんだ)
今日もきっと……
薄暗い部屋の中で、彼は愛猫といっしょに眠りに落ちてしまった。
――ソラくん、砂場でデートしよ
(……きみは……、誰?)
――ソラくん、砂場でデートしよ
(僕は、ベレロフォンだよ。
砂場じゃなくて、広い砂漠でモンスターと戦うんだ)
――ソラくん、いっしょにすべり台に行こ)
(す、べり台……?
ドリーム・ファンタジーの世界じゃなくて?)
――ソラくん、ワタシのこと、忘れたの?
(あぁ、その声は……サチコちゃん?
幼稚園のころ、よくデートしたよね。
あのころは僕もまだ活発で元気な男の子だったなぁ……)
――ソラくん、いっしょにおしゃべりしよ
(懐かしいなぁ、サチコちゃん。
瞳が大きくてちょっとワガママだったけど、よく笑うかわいい女の子だったなぁ……)
――ソラくん、ワタシとおしゃべりするの?しないの?
(あぁ、ゴメンゴメン……。うん……いいよ、おしゃべりしよう。
でも、僕らはまだ幼稚園児だったのにさ、仲良く手をつないでおしゃべりしたよね。
「大人になったら結婚しようね」とか「一生ワタシを守ってね」とか、ふたりともおませさんだったなぁ……男友達からはよく冷やかされたけど、幼稚園の先生とかお母さんたちの間では評判だったよね)
――ソラくん、裏の花壇にいきましょ
(うん……。いいんだけど……。
なんだかその花壇には近づいちゃいけないような、イヤな予感がするんだ)
――ソラくん、花壇のお花、綺麗だね。
(これは、ふたり並べて植えたチューリップだね。
こっそり僕たちの球根だけ少し近づけて植えてさ……、お互いの下の葉っぱが重なり合うくらいに寄り添って育ってさ……
さすがに先生からも呆れて、ちょっと注意されたなぁ……
この花壇がイヤな感じがするのは、先生に怒られた思い出のことかな)
――ソラくん……何か、いる
(サチコ……ちゃん?)
――ソラくん……何か、いる
(や……やっぱり、裏の花壇はやめて、おもてのイチョウの木の下に行こうよ。
みんなも先生もいるしさ)
――ソラくん……野良犬が、こっち見てる
(おもてのイチョウの木の下に行こうよ、サチコちゃん。
でさ、ゆっくり腰掛けておしゃべりしようよ)
――ソラくん……牙をむき出しにして近づいてくるよ、怖いッ
(おもてに行こう、サチコちゃん。ここは危ない)
――ソラくん……、助けて……ッ
(早く、こっちへ。サチコちゃんッ)
――ソラくん……、助けて!
(先生を呼んでくるから……ッ)
――ソラくん……、逃げないで……ッ
(先生を呼んでくるから……ッ。
ボクは逃げないよッ、必ず戻ってくるから!)
――ソラくん!
――ソラくん!
――ソラくん!
――ソラくん!
――ソラくん!
――ソラくん……なぜ、逃げたの……?
(違うんだ、サチコちゃん)
――ソラくん……、なんでワタシを置いて逃げちゃったの?
(逃げてなんかない。ボクの力じゃどうにもならないから、先生を呼びに行ったんだ)
――ソラくん……、なんでワタシを守ってくれなかったの?
(違うんだ、サチコちゃん。
ボクは頑張って夢中で走って、〝勇気〟を出して助けを呼びにいったんだ……。
そのおかげで、サチコちゃんもかすり傷で済んだんじゃないか)
――ソラくんの弱虫……ッ、そんなの勇気じゃないわ、もうワタシに近づかないでッ
(サチコ……ちゃん)
――ソラくんなんか……、ソラくんなんか大キライ!
(違うんだ、違うんだ、違うんだ……)
――ソラくんなんか……
(違うんだ、サチコちゃんッ)
――ソラくんなんか、もう絶交よ!!
「違うんだッ、サチコちゃん!」
大声をあげて、ソラは目を覚ました。
薄暗い部屋……カーテンの隙間から射し込む夕陽……。置き時計のパネルが無音で秒数を刻んでいる。
ここは自分の部屋なんだと、寝ぼけながらも意識を取り戻した。
机には食べかけの菓子パンが無造作に転がっている。
黒猫のニンフはいつもの場所、カラーボックスの上で〝C〟の字になってすやすやと眠っていた。
ふうっ、と大きく息を吐き、ソラは急にわずらわしく感じて黒縁の眼鏡をはずした。
(最近――)
彼は眉間にしわを寄せて指で押さえた。
(よく見るんだ、あの夢……)
ソラが幼稚園のときの、苦い苦い過去。
思い出したくもない……忘れてしまいたいが、どうしても頭から離れない想い出。
(でも……あのとき幼い僕ひとりで、何ができたっていうんだ……!?
助けを呼びにいって、何が悪かったというんだ。
僕は、悪くない。
僕は、正しかった。
僕は……
僕は……
…………)
でも、あのとき……僕は何かを失ったんだ……………………
パソコンのディスプレイが、ソラの開いた瞳孔にはまぶしく輝いていた。
画面の中では、いまだ仲間は現れておらず、弓矢を背負ったベレロフォンだけがつっ立っていた。
その上から、昨晩も見たあの高額報酬のイベントのページが表示されていた。
ソラは眼鏡をかけなおした。
――勇者ニ姫ノ救出ヲ求ム
――報酬1 金1000万リア
(え……金1000万リア!?)
と、ソラは驚いた。
(昨日は確か50万リアって書いてあったよな……。
何かの間違いだよね。またこのゲームのことだからな、誤植だろうな……)
――報酬2 何デモ望ムコトヲ入力シテクダサイ
ここは昨晩とおなじ文面だった。
先ほどの夢の余韻が続く中、ソラは〝望ムコト〟を決めて、カタカタとキーを打った。
画面の入力欄には〝勇気〟と、入力された。
(勇気……ユウキ?)
と、ソラは思いなおした。
(これはただのゲームじゃないか。ゲームのプログラム上――詳しいことは知らないけど――に無いことを書いても、笑われるだけだよ……。ここはレアなアイテムとか、バトルの時に使える必殺技を会得するとか……そういうことを書かないといけないんだ、きっと)
「やっぱり、みゅうさんたちと相談してから、〝無常の果実〟って書こう」
ソラは画面から〝勇気〟という二文字を削除しようとした。
そのとき、ソラは自分の足に何かの物体がこすりつけられる感触を覚えた。
足元を見ると、黒猫のニンフがいた。再びゴロゴロのどを鳴らして、大きな両目をうっとりと閉じながら、彼のズボンにすり寄ってきていたのだ。
ソラと視線が合うと、甘えた声でニャー、とひと鳴き。
彼女は〝缶詰フード〟をあきらめていなかったのだ。
その愛くるしさに押されて、
「もう、しょうがないなぁ……。下から缶詰を取ってくるから、待っててね」
と、ソラも根負けして立ち上がろうとした。
しかし黒猫のニンフはもう待ちきれなかった様子で、パソコンの机にひらり、と飛び乗った。ソラの目線の高さに合わせようとする彼女なりの最高のアピール方法なのだが、思わず彼女の前足が、キーボードのボタンに触れてしまった。
その瞬間、ソラの周りの景色が一変した。
いや、一変したというより、部屋が無くなり色や形も見えなくなってしまったのだ。
(なんだ……コレ?)
ソラは、また夢の中なのかな……と思ったが、今度は意識がはっきりしているし、待てど暮らせど、何も起こらないからこれは夢ではない、と思った。
(ニンフ、どこ……?
怖いよ……ッ
逃げたい!
……でも、どこへ逃げればいいの…………)
暗闇の中、ソラは戸惑いと恐怖に支配されて、声も出せなくなっていた。