2.図書室
学校の昼休み、ソラは必ず図書室に行く。
翌日の小学校でも、ソラは急いで給食を食べて、なるべく目立たぬように〝こっそり〟と教室から抜け出した。
西の校舎の1階が彼の教室で、同じ校舎の4階に図書室はあった。日中はもう暖かくなっていて、階段を上がるだけでも少し汗ばんでしまう。
ソラは長袖のトレーナーに地味な布生地の長ズボンといういでたち。季節に合わない暑苦しい格好だが、彼は自分の細くて骨ばった腕やひじ、太ももやふくらはぎを隠したくて、なるべく人前で肌を露出しないようにしていた。
図書室の中はエアコンが動いているので、細身のソラには寒いくらいだった。
彼は眼鏡を外して本を適当に選んで回った後、数冊の本を手にして奥の席に座った。その席は空調の風が直接当たらない場所で、凍えることなく本を読むことができるのだ。
窓の外からは男の子たちの歓喜の声が騒々しく聞こえてくる。
しかし、図書室の中の空気は一種独特で、屋外の騒音もまるでプールで潜水しているときのように、遠くで反響するように耳に届くため、読書の妨げにはならなかった。
ソラは〈ギリシア神話―神々の誕生と英雄伝説―〉という本を開き、黒縁の眼鏡をかけなおして、やがてその内容に没頭してゆくのだった。
――特別本が好きという訳ではなかった。
ソラにとって、図書室は最高の〝逃げ場所〟だったのだ。
〝ある事件〟が起こったのは、数ヶ月ほど前、彼がまだ小学4年生になって間もないころにさかのぼる。
ソラは給食を食べた後、いつものように教室でひとり、ぼうっと座っていた。友達のいないソラはそうやって午後の授業が始まるまで、〝やり過ごして〟いた。
が、ある日。同じクラスの女子から何か手渡された――というより、丸めた小さな紙くずを投げ捨てて行ったのだ。
なぜか、キャーッ、とか言ってその子は自分の女子グループの輪の中に走って戻って行った。「よく頑張ったね」、「えらいわ、エリコ」と仲間同士で作戦の成功を称えあっているようだ。
(何か流行りの遊びなのかなァ?)
ソラはとにかく彼女が投げ捨てた紙くずを手に取り、開いてみる。
それは大学ノートの端を乱暴に破ったような小さな紙切れだった。その紙にはただ走り書きで「キモイ」と書かれていた。
……まぁ人生、いろいろなことがあるものだ、とソラは前向きに考え、その日は無視をして過ごした。
すると翌日の昼休み、今度は「出テイケ」と書かれた紙切れを投げつけられた。
それでも彼女たちの言うことに従う義務は無い。珍しくソラは自分を奮い立たせ、彼女たちの刺すような冷たい視線を浴び続けながら、自分の席から離れなかった。
次の日は、丸めた紙くずをソラの顔に向けて投げつけてきた。
紙くずを投げる役の女の子は3日間、同じ「エリコ」という女の子だったが、今日は初めてソラの顔をにらめつけてから、仲間の方へ走り去った。
テレビのコントのように眼鏡が斜めにずれた。
紙なので当てられた頬は痛くなかったが、彼女たちの確実な嫌悪を一層強く感じた。
そのうえ紙面には赤い文字で大きく「呪ウゾ」と書かれていた。ご丁寧にも血がしたたるように描写しており、少年は恐怖を覚えた。
次はどんな暴挙に出てくるか分からない――
彼は斜めになった眼鏡を整えることさえ忘れて、すごすごと教室を出た。
その日からソラは彼女たちの希望通り、お昼休みは外に出ることにした。
しかし友達もいないソラに行き場所は限られていた。人気の無い所を探してふらふらとさまよっていると、足元にボールが転がってきた。
クラスメイトの男子がソラをサッカーに誘ってくれた。
その時は少し嬉しかったが、運動神経の悪いソラはうまくプレイできなかった。まともにまっすぐボールを蹴ることもできないし、ルールを覚えていないので反則ばかりで試合の流れを止めてばかりいた。
仲間外れにされないようにソラは必死に頑張ったが、それは無駄なことだった。実際は皆もソラはスポーツが苦手なことを知って、からかうために誘ったのだから。
やがてクラスメイトの男子たちは、からかうのも飽きてソラを邪魔扱いした。
ソラは思った。
(やっぱり友達なんか、いらない……)
翌日、体育館の裏に行ってみた。
多くの小学校でも共通しているが、この場所は本当に静かで、誰も来ない。
昨日は慣れないサッカーなど野蛮なスポーツをしたせいで、体の節々が打ち身でズキズキ、すり傷でヒリヒリとしていた。眼鏡のフレームも少し曲がってしまっていた。
しかし、ほどよいそよ風が通ってソラの心は癒された。
(これは、いい所をみつけだぞ)
しばらくはフェンスと体育館の壁に挟まれた場所が、ソラの退避場所となった。
しかし数日もすると〝ある事件〟が起きた。
体育館裏のいつもの場所に腰掛けて、ぼうっとしていると、突然近くで声がした。
ソラから見て左手のちょうど体育館の裏手の角にあたる場所に、昔使用されていた焼却炉――彼は焼却炉であることも知らなかった――があるのだが、そちらから数人の罵声が近づいてくる。
ソラは体育館の扉の両側にある柱の影に立ち、壁にぎゅっと背中を押し当てた。彼は同学年の中でも背が低く小柄だ。こうして柱に隠れることで、こちらからは見えるが向こうからは死角になるかも知れない。
(何だろう?)
あざけりやからかう声がどんどん大きくなってくる。
それは上級クラスの男子たちだった。1人、2人……5人か。いや、最後にもうひとり、リーダーらしき6人目が現れた。悪態をつきながら皆に何か指示を出している。
上級生の集団に押されるように連れてこられた男子がいた。不服そうに上級生の6人をにらみ返し、今にも飛びかからんばかりだ。
ソラは彼を知っている。しゃべったことは無いが、同じクラスの男の子だ。
名前は確か、熊代大地――クマシロ ダイチ――だ。
同学年の誰よりも大柄で、いつも給食のおかわりを全て平らげる。何かとケンカばかりして、所属していた少年野球チームも辞めさせられた、と聞く。ほぼ毎日問題を起こして、先生から職員室に呼び出される、というソラとは正反対の性格だ。
上級生の6人が大柄な少年ダイチを見上げる。そう、下級生のダイチがこの中で一番背も高く、大きな体だったのだ。
上級生のリーダーらしき男子が、「お前、……!」と、何かダイチに言った。
ダイチは、「……うるせぇ!」とか何とか、とにかく歯向かったようだ。
突然、ダイチがリーダー格の少年を突き飛ばした。豆のようにはじかれ、焼却炉の躯体にしたたかに肩をぶつけて、その少年は「うぅ」と倒れこんだ。
これが合図となり、上級生の男子たちがダイチへと一斉に飛び掛かかる。皆入り乱れての乱闘騒ぎが始まると、もうもうと土ぼこりが舞い上がった。
ソラもつい柱の影から身を乗り出していた。ひときわ体の大きいダイチが四方から上級生たちに攻め立てれるさまは、さながら弁慶と足軽の小競り合いのようだ。
ダイチは殴られたり蹴られたりして、かなりダメージを受けているはずのなのだが、なかなか倒れない。逆に焦る上級生たちが劣勢になった。ダイチの豪腕に腹や腰を押さえてひとり、またひとりとうずくまったり、後ろに下がって傍観するようになった。
(信じられない……。彼は本当に小学生なの?)
ダイチは、とうとう最後のひとりを右の肘鉄で黙らせてしまった。
よれよれになったTシャツの袖。土ぼこりをかぶった短髪の頭……。勝者の大男ダイチは汚れた体を気にもせず、仁王像のように立っていた。
――その彼の背後から、影が忍び寄る。
ソラも「あっ」と気付いた時は、もう遅かった。
リーダー格の少年が、焼却炉の火かき棒で、ダイチの背中を叩きつけたのだ。
「うっ」とダイチは思わず地面に膝をついた。
さっきまでの優勢が嘘のようになった。
さらに、ダイチが防戦一方になっているのを見て、ぶざまに倒されていた残りの上級生たちも、ワッと一斉にダイチに飛びかかった。背中の激痛に顔をゆがめ、さすがのダイチも反撃できず、亀のように手足を引っ込めて、少年たちの攻撃に耐えていた。
しばらくして上級生たちは、ひとりまたひとりとダイチを殴るのをやめた。
しかしリーダー格の少年だけは、裏返ったような声を漏らして、動かぬダイチの背中を執拗に殴打し続けた。
ほかの仲間の少年たちも、熱が冷めて遠巻きに立ち、理性を失った友に声をかけることも、間に入って止めることもできずに、ただ傍観していた。
ソラは目を覆いたくなった。
(こんな恐ろしいことが、世の中で、しかも目の前で起こるなんて……)
ソラの頭に、忘れていた――忘れようとしていた幼き日の思い出が、脳裏をかすめた。
(……いやだッ。思い出したくもない……)
ぎゅうっ、とつむった目頭から涙があふれた。
(逃げよう、立ち去ろう、この場所から)
――また逃げるのか?助けてやらないのか、この弱虫めが
まぶたの裏にあの日のことが浮かんでは消える。
(逃げるんじゃない、関わらないようにするだけだ)
――お前はそうやって、これからもずっと、逃げ続けるのか?
(だって、僕には関係のないことじゃないか……!)
ソラはうかつにも柱から身を乗り出し、姿をさらしていることに気が付かなかった。
上級生の少年たちがはっとソラの方を見た。リーダー格の男の子も、このひ弱な眼鏡の少年の存在に気付き、手を止めた。
なんと、不健康なほどにやせ細った白い肌の少年が、こちらを凝視しているではないか。
二者の視線が合って、一瞬の静けさが襲う。上級生の少年は、右手の火かき棒をぎゅっと握りなおした。
その時だった。
むくり、と起き上がった大きな少年ダイチが、リーダー格の少年を後ろから、はがいじめにした。ふいをつかれた上級生は火かき棒で応戦しようとしたが、すでにダイチの太い腕に摑まれて動けなくなっていた。
再び少年たちの叫び声やわめき声で静寂が破られた――
気が付くと、ソラは必死に走って逃げていた。
後ろの方で逃げるソラに気が付いた男子の罵声が追いかけてきたが、その恐怖の言葉を振り払うかのように、心臓がはちきれるまで走った。
どこをどう走ったのか……校舎の中に駆け込んでからも、あまり行ったことのない上階層まで階段を駆けのぼって、さらに渡り廊下を抜けて……
ソラはあえぎ、すぐそばの手すりにしがみつく。
何かにつかまっていなければ、その場に崩れてしまいそうだった。
「――キミ、大丈夫?」
と、ひとりの女の子がソラをのぞき込んだ。
きゅっ、と締まった細い足首と上履きが見えた。
息を切らしたソラは見上げることもできずに「だ……大丈夫です」と、動揺を隠し切れないまま、なんとか会話を避けようとした。
しかし、彼の額は冷や汗が吹き出して鈍く光り、顔色は血の気が引いて青ざめ、黒縁の眼鏡は斜めにずれている……あげくに廊下にしゃがみこんで、ぜぇぜぇとあえいでいるとくれば、誰でも彼のことを心配して声をかけただろう。
「気分が悪いなら、いっしょに保健室に行く?」
ハキハキとした物言いから、彼女が活発な女の子であることが分かった。
ソラは迷惑そうに「いえ……」と断った。ちらと見上げると、声をかけてきた女の子はソラと同じクラスの子だった。
名前は確か――タツノ……、下の名は忘れた。
彼女は気が強そうな顔立ちで、首をかしげるようにしてソラと視線を合わせていた。
胸元で組んだ細長い両腕に1冊の本をかかえている。表紙には〝北欧神話と魔女〟という題名が書かれてあった。
そこは図書室前の廊下だった。やみくもに走ってきたが、結局、ソラは自分の教室のある校舎の最上階にたどり着いていただけだった。
「借り――たい本があって、急いで走って来ただけです。もう大丈夫ですので……」
少女は大きな瞳をいっそう見開くと、突然、ケタケタと笑い始めてしまった。
しばらくの間、彼女は近所のオバちゃんみたいに背中を丸めて笑い続けた。こちらまでつられて微笑んでしまいそうになる。
……おかげで、いくぶんかソラの心は落ち着いてきた。
「メガネ、ずれたままだよ」
クスクスと笑いの余韻を残す少女に指摘されて、ソラは急いで眼鏡をかけなおした。
彼は蒼白の顔を赤らめて「少し休めば、落ち着きますから」と、返した。
「そう……。でももうすぐ休憩時間も終わりだよ。5限目の授業に遅れないように気をつけなよ」
彼女はそう言って、手を振り背中を向けて歩き出した。ソラも中途ハンパに手を振り返すが、すぐ我にかえり、恥ずかしくなってすぐその手を引っ込めた。
歩き去る少女に、数人の女友達が駆け寄ってきた。
「また髪切ったの、ウミちゃん?」
「マジ男の子みたいじゃん。タカラヅカみた~い」
彼女――ウミちゃん、と呼ばれた少女はおどけた低い声で「もうお前を離さないぞ!」とかモノマネをして、女の子同士でまたケタケタ笑い合いながら階段を下りて行った。
彼女の名前は、龍乃海美――タツノ ウミ――、確かそんな名前だった。
(それにしても、よく笑う子だな……)
と、ソラは思った。
(――ダイチくん、はどうなったんだろう)
後で知ったのだが、ダイチは上級生をこてんぱんにやっつけ、上級生の親たちや先生たちにしたたか怒られたらしい。顔に傷跡を残し、しばらくの間は休み時間も教室の自分の席でおとなしく座っている姿を、ソラは何度か見かけた。
――幾分か呼吸も落ち着いたソラは、知らない上級生たちの中でポツンと突っ立っていることに気が付き、目の前の図書室に逃げ込んだ。
引き戸を閉めると、外で騒ぐ児童の声や騒音がはるか遠くに聞こえ、まるで空気の流れが止まったかのような空間に引き込まれた。
本のページをめくる音、遠慮がちなシューズの足音、口を塞いで咳き込む音……
誰かに教えられなくても、「図書室では静かに本を読むことがマナーである」ということが分かる独特の静けさだ。
そして、ここには紙くずを投げつける女子や、乱闘騒ぎを起こす男子たちもいなかった。
(昼休みは、ココに来ることにしよう)
こうしてソラの〝図書館通い〟が始まった。




