エピローグ
「――重ってぇよ、ウミ!」
ダイチのだみ声でソラは目が覚めた。
閉め切ったカーテンの隙間から、夕陽が射し込んでいる。
「重いって、言ってるんでぇ、ウミ!」
サル山のお猿さんみたく、くるくると頭を振り回してみる。ソラは自分の部屋でパソコンデスクに打ち伏して、うたた寝をしていたようだ。自分の身なりを確かめると、茶色い防具に黒いタイツ姿――ではなく、いつもの長袖の洋服に長ズボンをはいている。
時計を見ると――
時計を見ると――
時計を見ると――
――置き時計の文字盤が、ぼやけて見えない。
渋々と握りしめていた黒縁の眼鏡をかけると、視野が広がった。電光掲示の数字たちは、下校したときと同じ日付の同じ時間を表示したままだった。
ニャーオ、とソラの足元に黒猫のニンフがまとわりついてきた。
ご飯をおねだりしに来たのだ。
「僕たちの……世界に、戻ってきたんだ」
ソラはつぶやいた。
こちらの世界は、なんだか蒸し暑い。
なんで、こんな長袖に長ズボンをはいているのだろう?
ソラはもっと身軽な服に着替えたくなった。
「ど……どいてくれぇい、ウミぃ~ッ」
部屋の隅にあるシングルベッドに熊代大地がうつぶせに倒れて、またその背中に龍乃海美がうつぶせで馬乗りになっていた。
「なに……してんの?」
ウミを起こして、ダイチも救出して、しばし呆然とする3人――。
「――なんだったんだろうね……」おもむろにウミが口を開いた。半袖の白いブラウスにデニム生地のショートパンツという、快活な少女らしい服装をしている。
「アタシたち、本当にゲームの世界に迷い込んでいたのかな……」
「たぶん、そうだと思うよ。これ――」
3人の子供たちは、首から提げた黄金の十字勲章を手にとって眺めた。
「まだ食い足りねぇ!」ダイチがおなかを鳴らして言った。もちろん、彼も元通り人間の子供の姿に戻っていた。
「たらふく食ってる最中だったのによぉ」
「アンタ……この1週間、食べ物の話ばっかりね」
「そっか?」
「アンタの話を聞いてると、こっちがおなかいっぱいになっちゃうのよ」
「うっせぇなぁ。おめぇだって、イケメンの王子さまがぁ~~~ッ♪って、しつこかったじゃねぇか」
「キ――ッ。アンタに関係ないでしょ、このゴリラ!」
「もうゴリラじゃねぇもーん、だ」
舌を出して、少女をからかうダイチ。
「その顔、ゴリラそっくり!」
ケタケタと、馬鹿にしたように笑うウミ。
ふふっ……、とソラが笑うと、
「なによ!」
「なんでぇ!」
と、2人から突っ込まれてしまった。
――また明日も学校だ。
ソラは誰もが経験できないような幻想の世界で、スリルと興奮に満ちた冒険を経験することができた。ペガサスにまたがって魔王を倒し、確かに王国の危機も救った。
しかし――
そんなことはおかまい無しに現実な世界は回り続ける。無機質な学校生活は継続し、昼休みには図書館に通う毎日が待っている。英雄ベレロフォンは、再び物言わぬ根暗な少年ソラへと戻ることになるのだ。
玄関先まで、2人を見送る。
「じゃ……。帰り道、分かる?」
「おぅ、近くに野球の試合で来たことがあるから、大丈夫でぇ」
「アタシも。友達が近所にいるから、分かるワ」
――ここでさよなら、しないと。
「じゃ……」
「おぅ、じゃあな……」
「さよなら……」
3人の子供たちは声を掛け合って、ソラの玄関をあとにした。
――こうやって、また他人行儀になってゆくんだ。
黒縁の眼鏡のレンズが、斜めに射し込む夕陽に反射してホワイトアウトした。ソラは2人の背中を見送ることもなく家に入り、早々に玄関のドアを閉めようとした。
そのとき――
玄関の扉が引き戻されて、ソラはドアノブを持ったまま前につんのめった。
ビックリして顔を上げると、夕焼けに赤く染まったウミとダイチが立っていた。
「おめぇさァ」ダイチが鼻の下を指先でぬぐいながら言った。
「明日からは他人……みたいな顔してたけどよぉ。オレたち、いっしょに旅した仲間だろ?
安心して、学校でも話しかけてこいよ」
「ちがうわよ」とウミが悪戯っぽく、ダイチを見た。
「アンタみたいな問題児に関わりたくないって、思っているのよ――ね、ソラ?」
「な、なにをぉ!?」
「ちょっとォ……レディに向かって気安く触らないでくれるッ?」
「な、なにがレディでぇ。王子さまフェチで金の亡者のくせによぉ」
「私は〝イケメン〟の王子さまフェチなのよッ。ただの王子さまにはこれっぽっちも興味ないワ」
「ストップ……ストップ、スト―――――――――――――ップ!!」
また2人がケンカしはじめたので、慌てて止めに入るソラ。
「もぉッ。いい加減にしてよ、2人とも!」
ウミとダイチの間にソラが割り込んだ。
「ソラ」
ダイチがあいかわらず、だみ声で言った。
「ソラ」
ウミも笑いながら、言った。
「おめぇは、ベレロフォンでも勇者でもねぇんでぇ」
「ソラはアタシたちの、友達、だよ」
熟成した夕陽は一層赤みを帯びて、ソラたちの街をあかね色に染め上げていた。
いずれ太陽は沈む……しかし、明日になればまた昇る。
3人の子供たちの友情も永遠に失われることはない。幻想の夢の世界で経験した想い出が、彼らの心から消えることは決して無いのだ。
――少年は勇気より大切なものを手に入れたことに、
ようやく気が付きはじめていた。
完




