『浮気くらいで婚約破棄とは大げさだ』と言われたので、婚約者の浮気相手を全員集めてお茶会を開きました
恋愛ジャンルだと思って書いたんだけど、ジャンルホラーに入れておきました
1.私の初恋は、白い薔薇の砂糖菓子
私がエドガー様に恋をしたのは、七歳の春のことでした。
ローゼンベルク公爵家の庭園で開かれたお茶会。
私は大きな樫の木の下で、一人ぼっちでした。
同じ年頃の子供たちは、少し離れたところで楽しそうに遊んでいましたが、誰も私を誘ってはくれません。
仕方ありません。
私は昔から、少し変わった子供でしたから。
大切にしていた蝶の標本を見せたら、お友達が泣いてしまったこともあります。
可愛がっていた小鳥が死んだとき、骨を綺麗に残そうとしたら、乳母に叱られました。
私は、好きなものをずっと大切にしていたいだけなのですけれど。
なかなか理解していただけません。
「おい」
そのとき。
一人の男の子が、私に声をかけました。
金色の髪。
青い瞳。
白い頬。
絵本に出てくる王子様みたいな男の子でした。
「お前、そこで何してるんだ?」
「お花を見ています」
「ふうん」
男の子は、私の隣に腰を下ろしました。
それから、手に持っていた小さなお皿を差し出しました。
「これ、やる」
お皿の上には、白い薔薇の形をした砂糖菓子が載っていました。
「……私に?」
「ああ。甘いもの、嫌いなんだ」
「……いただいても、よろしいのですか?」
「いらないって言ってるだろ」
男の子は、少し面倒くさそうに言いました。
そして、私の手のひらに砂糖菓子を載せました。
小さな、小さな。
白い薔薇。
私は、しばらくそれを見つめていました。
「……ありがとうございます」
「別に」
男の子は、立ち上がりました。
「じゃあな」
そして、走っていきました。
私は、その背中を見送りました。
胸が、ぽかぽかしました。
不思議でした。
それまで、誰かから物をいただいたことはありました。
お父様からは人形を。
お母様からはドレスを。
乳母からは、刺繍のハンカチを。
でも。
あんなふうに、私だけに声をかけてくれた男の子は、初めてでした。
私は、砂糖菓子を食べませんでした。
小さな箱に入れて、大切に持ち帰りました。
その夜。
私は乳母に尋ねました。
「あの方は、どなた?」
「エドガー・フォン・ハルトマン様ですよ。侯爵家のご子息です」
「……エドガー様」
私は、その名前を何度も口の中で繰り返しました。
エドガー様。
エドガー様。
エドガー様。
素敵な名前。
私は、その夜から。
彼のことが、大好きになりました。
それから十九年。
私は一度も、その気持ちを変えたことがありません。
ですから。
婚約者になれたときは、本当に嬉しかったのです。
ああ。
神様って、いらっしゃるのね。
私は、そう思いました。
そして。
今も、そう思っています。
たとえ、婚約者が浮気をしていたとしても。
2.浮気くらいで婚約破棄とは大げさだ
「浮気くらいで婚約破棄とは大げさだろう」
エドガー様は、心底呆れたようにおっしゃいました。
「男には付き合いというものがあるんだ。いちいち目くじらを立てるな」
「まあ」
私は思わず両手を合わせました。
「浮気だったのですね!」
「……は?」
「よかった! 私、てっきり本気の恋をなさっているのかと!」
エドガー様が、ぽかんと口を開けました。
なんて可愛らしいお顔でしょう。
金色の髪に、湖のように青い瞳。整った鼻筋。少し薄い唇。
私の婚約者は、昔からたいそう美しい方でした。
「ヴィオレッタ、お前は何を言っている?」
「ですから、浮気なのでしょう?」
「そうだが」
「本気ではないのですね?」
「あ、ああ」
「では、安心しましたわ!」
私はにっこり笑いました。
エドガー様は少し気味悪そうなお顔をされました。
失礼な方。
でも、そんなところも好きです。
「それで、何人いらっしゃるのです?」
「……何が?」
「浮気相手の女性ですわ」
「なぜそんなことを聞く」
「ご挨拶をしたいので」
「する必要はない!」
エドガー様が立ち上がりました。
あらあら。
そんなに慌てなくてもよろしいのに。
「ヴィオレッタ。お前は俺の婚約者だ。それは変わらない。余計な詮索をするな。いいな?」
「はい!」
「……本当にわかったのか?」
「もちろんです!」
私は元気よく頷きました。
婚約者は私。
それは変わらない。
ああ、なんて素敵な言葉なのでしょう。
嬉しくて、胸がいっぱいになりました。
その日のうちに、私は執事を呼びました。
「セバスチャン。エドガー様の恋人を全員調べてちょうだい」
「承知いたしました」
「それから、王都で一番腕のよい菓子職人を呼んで。お茶会を開きます」
「何名様をご招待なさいますか?」
「まだわからないの」
私は頬に手を当てました。
「十人くらいかしら?」
「……お席は二十名分、ご用意いたしましょう」
「まあ! さすがセバスチャン!」
我が家の執事は、いつも私の予想を上回る働きをしてくれます。
大好きです。
もちろん、エドガー様の次に。
いえ、お父様とお母様の次でもあります。
それから愛犬のポチ。
乳母のマーサ。
庭師のジョゼフ。
……まあ、順番などどうでもよろしいですわね。
愛するものが多いのは、幸せなことです。
私はとても幸せな女なのです。
3.お茶会の招待状
三日後。
セバスチャンが調査結果を持ってきました。
「お嬢様。確認できた女性は七名です」
「あら、意外と少ないのね」
「……左様でございますね」
「エドガー様はあんなに素敵なのに」
「まったくでございます」
「セバスチャン、あなた本当にそう思っている?」
「お嬢様がそうお思いならば」
「うふふ。正直でよろしいわ」
私は報告書をめくりました。
一人目。
伯爵令嬢、クラリス様。
二人目。
子爵令嬢、ミレーヌ様。
三人目。
男爵令嬢、ソフィア様。
四人目。
劇場の歌姫、ローザ様。
五人目。
商家の娘、アネット様。
六人目。
未亡人、マルグリット様。
七人目。
王宮侍女、エリゼ様。
「まあまあまあ!」
私は感心してしまいました。
「エドガー様ったら、ずいぶん幅広く愛していらっしゃるのね!」
「お嬢様」
「なあに?」
「女性の皆様は、互いの存在をご存じないようです」
「まあ!」
なんということでしょう。
そんなの寂しいではありませんか。
私は考えました。
そして、とてもよいことを思いつきました。
「お友達になっていただきましょう!」
「……左様でございますか」
「皆様、エドガー様を愛していらっしゃるのでしょう? きっと気が合うわ!」
私は早速、招待状を書きました。
『親愛なる皆様へ。
このたびは、私の婚約者エドガー様と親しくしていただき、心より感謝申し上げます。
ぜひ一度、お顔を合わせてお話しできれば幸いです。
美味しいお茶とお菓子をご用意して、お待ちしております。
ヴィオレッタ・フォン・ローゼンベルク』
完璧です。
「セバスチャン、どうかしら?」
「……たいへん丁寧な脅迫状でございます」
「招待状よ?」
「失礼いたしました」
セバスチャンは深々と頭を下げました。
「ところで、お嬢様」
「なあに?」
「皆様がお越しにならなかった場合は?」
私は首を傾げました。
「どうして?」
「その……事情が事情ですので」
「まあ、セバスチャンったら」
私は笑いました。
「招待状は、きちんとお届けするのでしょう?」
「はい」
「それなら、いらっしゃるわ」
だって。
私からのお誘いですもの。
ローゼンベルク公爵家の招待を断る方なんて、そうそういらっしゃいません。
とくに、エドガー様と親しい方なら。
ねえ?
4.七人の恋人たち
お茶会当日。
我が家の薔薇園は、たいへん華やかでした。
白いテーブルクロス。
銀のティーセット。
三段重ねの菓子皿。
季節の果物を使ったタルトに、薔薇の砂糖漬け。
お茶は最高級のダージリン。
私はお気に入りの薄桃色のドレスを着て、皆様をお迎えしました。
最初にいらしたのは、クラリス様。
「ご、ごきげんよう……」
「まあ、クラリス様! お会いできて嬉しいわ!」
私は彼女の両手を取りました。
クラリス様は、今にも泣きそうなお顔でした。
「わ、私、何も知らなくて……」
「ええ、存じております!」
「本当に、申し訳……」
「謝らないで!」
私は彼女を抱きしめました。
「エドガー様があなたを愛してくださったのですもの。嬉しいことですわ!」
「……え?」
クラリス様が固まりました。
そうこうするうちに、ほかの皆様も到着なさいました。
七名全員。
素晴らしい出席率です。
私は感激しました。
「皆様、本日はお越しいただきありがとうございます!」
私は立ち上がり、深々とお辞儀しました。
「どうぞ、おかけになって!」
誰も座りません。
皆様、互いのお顔を見比べています。
あら?
「どうなさったの?」
「……あの」
最初に口を開いたのは、歌姫のローザ様でした。
「こちらの方々は、いったい……?」
「皆様、エドガー様の恋人ですわ!」
沈黙。
小鳥が鳴きました。
噴水の音が、やけにはっきり聞こえました。
「……は?」
ローザ様が言いました。
「恋人?」
「はい!」
「……全員?」
「はい!」
私はにっこり笑いました。
「私を含めると八人ですわね!」
誰かが椅子を倒しました。
ソフィア様でした。
「う、嘘よ!」
彼女は真っ青になっていました。
「エドガー様は、私と結婚するとおっしゃったわ!」
「あら!」
私は驚きました。
「クラリス様にも同じことを?」
クラリス様が、ゆっくり頷きます。
「……私にも」
「私もよ」
ミレーヌ様が呟きました。
「来年の春には、正式に婚約すると……」
「あらあら」
私は扇子を開きました。
「エドガー様ったら、ずいぶんお忙しいのね」
「忙しいで済む話じゃないでしょう!」
ローザ様が叫びました。
「私は劇場を辞めろと言われたのよ! 結婚したら歌なんて歌わなくていいって!」
「私は店を辞めました」
商家の娘、アネット様が小さな声で言いました。
「奥様になるのだから、商売人の仕事などするなと……」
「私は……」
王宮侍女のエリゼ様が俯きました。
「彼のために、王宮の内部情報を……」
私は扇子を止めました。
「まあ」
それは、少々困ります。
情報を漏らすのは犯罪ですもの。
エドガー様ったら。
悪い子。
「それで、皆様」
私は微笑みました。
「お金は?」
七人の女性が、ぴたりと止まりました。
「……お金?」
「エドガー様に、お渡ししていませんか?」
アネット様が震える手を上げました。
「……金貨三百枚」
「私は五百枚」
クラリス様。
「百枚……」
ソフィア様。
「劇場の契約解除金も含めたら、千枚以上よ」
ローザ様。
次々と金額が出てきます。
私は手元の紙に書き留めました。
合計。
金貨三千二百枚。
まあ。
まあまあまあ。
ずいぶんと。
「エドガー様ったら……」
私は胸に手を当てました。
「商才がおありだったのね!」
「違うでしょう!?」
ローザ様が叫びました。
私はびっくりしました。
歌姫の声量というのは、すごいものです。
「それ、詐欺よ! 結婚するって言ってお金を借りて、返していないんでしょう!?」
「まあ……」
私は首を傾げました。
「そういうことになるのかしら?」
「なるわよ!」
ローザ様がテーブルを叩きました。
お茶が跳ねました。
あらあら。
せっかくのテーブルクロスが。
でも、私は怒りませんでした。
だって。
皆様、エドガー様のことで、こんなに真剣になってくださっているのです。
素敵なことではありませんか。
私は両手を合わせました。
「では皆様、相談しましょう!」
「……何を?」
クラリス様が尋ねました。
「エドガー様を、どう分け合うかです!」
今度こそ。
誰も、何も言いませんでした。
5.婚約者は一人しかいません
「まず、曜日で分けるのはいかがかしら?」
私は紙を広げました。
「月曜日はクラリス様。火曜日はミレーヌ様。水曜日は……」
「ちょっと待って!」
ローザ様が叫びました。
「あなた、本気で言っているの!?」
「ええ!」
「自分の婚約者でしょう!?」
「もちろんです!」
「それを、ほかの女に貸すっていうの!?」
私は考えました。
「貸す、という表現は少々違いますわね」
「でしょう!?」
「だって、エドガー様は私のものですもの」
私は笑いました。
「皆様には、私のエドガー様を可愛がっていただくのです」
なぜでしょう。
ローザ様が、ゆっくり椅子に座りました。
少し顔色が悪いようです。
「……あんた、おかしいわ」
「まあ、よく言われます!」
「褒めてないわよ!」
「うふふ!」
楽しい。
とても楽しいお茶会です。
私はお菓子を勧めました。
「こちらの苺のタルト、とても美味しいのよ」
誰も手を伸ばしません。
残念です。
「……あの」
おずおずと口を開いたのは、ソフィア様でした。
「ヴィオレッタ様は……怒っていらっしゃらないのですか?」
「怒る?」
「私たちに……」
「どうして?」
私は心底不思議でした。
「皆様、エドガー様を愛していらっしゃるのでしょう?」
「……はい」
「私もです!」
私は嬉しくなりました。
「同じものを愛する者同士、仲良くできると思いません?」
ソフィア様は泣き出しました。
あら。
困ったわ。
私はハンカチを差し出しました。
「泣かないで。ね?」
「……ごめんなさい」
「謝らなくてもよろしいのよ」
「私、知らなかったんです……婚約者がいるなんて……」
「ええ、存じております」
「エドガー様は、あなたのことを……」
彼女は言い淀みました。
「私のことを?」
「……ひどい女だと」
私は瞬きしました。
「まあ」
「嫉妬深くて、冷酷で、自分を束縛する恐ろしい女だって……」
あらあら。
エドガー様ったら。
そんなふうに思っていらしたの?
「それから……」
ソフィア様は震える声で続けました。
「結婚したら、あなたの実家のお金を自由に使えるって……」
私は黙りました。
「……だから、我慢しているんだって……」
そう。
そうだったのですね。
私のエドガー様は。
私と結婚すれば、お金が手に入ると。
そう思っていらしたのですね。
「まあ!」
私はぱっと笑顔になりました。
「それなら、仕方ありませんわ!」
「……え?」
「エドガー様ったら、お金がお好きなのね!」
私は知りませんでした。
彼のことなら、何でも知っているつもりでしたのに。
好きな食べ物。
嫌いな野菜。
寝るときの癖。
馬に乗ると、右肩が少し下がること。
緊張すると、左の耳たぶを触ること。
昔、家庭教師に叱られて泣いたこと。
十六歳のとき、こっそり酒を飲んで吐いたこと。
十八歳のとき、侍女の胸を触って父親に殴られたこと。
全部、全部。
知っていました。
それなのに。
お金が好きだったなんて。
私は胸がきゅんとしました。
「もっと早くおっしゃってくださればよかったのに!」
そうすれば。
私が、いくらでも差し上げましたのに。
もちろん。
条件はありますけれど。
6.素敵な提案
「皆様に、ご提案があります」
私は立ち上がりました。
七人の女性が、こちらを見ました。
「エドガー様から、お金を返していただきましょう!」
皆様が顔を見合わせました。
「……返していただけるのですか?」
アネット様が尋ねました。
「もちろん!」
「でも、あの方はお金がないと……」
「そうでしょうね」
私は頷きました。
「ですが、財産はございます」
「……財産?」
「領地と屋敷と、爵位ですわ」
私はにっこり笑いました。
「売れるものは売りましょう!」
「爵位は売れませんよ!?」
ローザ様が突っ込みました。
「まあ、そうでしたわね!」
危ない危ない。
うっかりしていました。
私ったら、少し興奮しているのかもしれません。
「ですが、皆様のお金を返すくらいなら、十分でしょう」
「……なぜ、そこまでしてくださるのですか?」
クラリス様が尋ねました。
私は微笑みました。
「だって」
当然ではありませんか。
「エドガー様には、借金のない綺麗なお体で、私のもとへ来ていただきたいんですもの」
誰かが、ひっと息を呑みました。
まあ。
私、何か変なことを言ったかしら。
「……ヴィオレッタ様」
未亡人のマルグリット様が、初めて口を開きました。
「ひとつ、伺っても?」
「ええ、どうぞ!」
「あなたは……エドガー様を、本当に愛していらっしゃるの?」
私は笑いました。
「もちろん!」
「では、なぜ……」
彼女は言葉を探しました。
「なぜ、私たちを憎まないのですか?」
私は少し考えました。
「そうですわね……」
そして、答えました。
「だって、皆様は悪くありませんもの」
七人の女性が、私を見ました。
「悪いのは、エドガー様です」
私は紅茶を一口飲みました。
「嘘をついて、お金を借りて、約束を破った。いけないことですわ」
「……そう、ですわね」
「ですから」
私はにっこり笑いました。
「ちゃんと、躾け直さなくては」
静寂。
風が吹きました。
薔薇の花びらが、一枚、テーブルに落ちました。
私はそれを指先で拾いました。
「犬だって、悪いことをしたら叱るでしょう?」
「……犬?」
「エドガー様も同じですわ」
私は微笑みました。
「とっても可愛くて、ちょっとお馬鹿で、目を離すとすぐ悪戯するんですもの」
マルグリット様が、そっと目を伏せました。
ローザ様が、両手で顔を覆いました。
クラリス様が、小さく呟きました。
「……あの人、相手を間違えたのね」
あら。
どういう意味かしら。
7.主賓の到着
午後三時。
エドガー様がお見えになりました。
正確には、セバスチャンに連れてこられました。
「ヴィオレッタ!!」
薔薇園に、怒鳴り声が響きました。
私は嬉しくなって立ち上がりました。
「まあ! エドガー様!」
「これはどういうことだ!!」
「お茶会ですわ!」
「見ればわかる!!」
エドガー様は、七人の女性を見回しました。
そして。
みるみる顔色を失いました。
「ク、クラリス……?」
「ごきげんよう、エドガー様」
「ミレーヌ……ソフィア……」
「どうも」
「……ローザまで」
ローザ様は、冷たい目で見返しました。
「久しぶりね、エドガー」
エドガー様の喉が、ごくりと動きました。
私は手を叩きました。
「さあ、皆様! 主賓のご到着です!」
拍手はありませんでした。
少し残念です。
「ヴィオレッタ……お前……」
エドガー様は私を睨みました。
「何を考えている……?」
「皆様と仲良くなりたくて!」
「ふざけるな!!」
突然の怒鳴り声。
私はびっくりして、肩を跳ねさせました。
エドガー様はテーブルに歩み寄ると、私の腕を掴みました。
「お前、自分が何をしたかわかっているのか!?」
「……痛いですわ」
「黙れ!」
腕を強く引っ張られました。
少し、痛かったです。
私はエドガー様を見つめました。
「……エドガー様」
「なんだ!」
「離していただけます?」
「お前が謝るまで離さん!」
私は困りました。
困ったときは、どうしたらよいのでしょう。
お父様は、いつもおっしゃっていました。
『ヴィオレッタ。世の中には、言葉でわからない人間もいる』
そう。
そうでしたわね。
私は空いている手で、エドガー様の小指を握りました。
そして。
少しだけ、反対側に曲げました。
「ぎゃあああああっ!!」
エドガー様が叫びました。
腕が離れました。
よかった。
「まあ、大きな声!」
私は笑いました。
「大丈夫ですわ。折れておりませんもの」
「お、お前……何を……!」
「私、昔から力が強いんですの」
私はにっこり笑いました。
「ねえ、エドガー様。座ってくださいな」
エドガー様は、私を見ました。
見たことのない顔でした。
恐怖。
というのでしょうか。
私は少し寂しくなりました。
だって。
私たちは、これから夫婦になるのです。
怖がられては困ります。
「ほら、こちらへ」
私は椅子を引きました。
「お話が、たくさんありますのよ」
8.婚約破棄は認めません
「ヴィオレッタ。お前との婚約は破棄する!」
エドガー様は叫びました。
まあ。
なんということでしょう。
「……どうして?」
「どうしてだと!? こんな女と結婚できるか!」
「こんな女?」
「異常だ! お前は異常なんだよ!」
私は胸に手を当てました。
異常。
エドガー様が、私を。
「……まあ」
少し、悲しくなりました。
でも。
悲しいだけでした。
怒りは、湧きませんでした。
だって。
愛しているんですもの。
「エドガー様」
私は穏やかに言いました。
「婚約破棄は、できませんわ」
「なぜだ!」
「私たちは、結婚するんですもの」
「俺は嫌だ!」
「まあ、わがまま」
「お前が怖いんだよ!!」
エドガー様は、ほとんど泣いていました。
可哀想に。
私は立ち上がり、彼に近づきました。
彼は後ずさりました。
私は止まりました。
「……エドガー様」
胸が痛みました。
どうしてでしょう。
私は、こんなにも。
こんなにも、あなたが好きなのに。
「私が、そんなに嫌いですか?」
「……ああ」
即答でした。
私は、しばらく黙りました。
そして。
ふふ、と笑いました。
「そうですか」
エドガー様が、びくりと肩を震わせました。
「……わかりました」
「……え?」
「婚約破棄、承知いたします」
七人の女性が、一斉にこちらを見ました。
セバスチャンも、ほんの少し目を見開きました。
エドガー様は、信じられないという顔をしました。
「……本当か?」
「ええ!」
私は笑いました。
「嫌われてしまったのなら、仕方ありませんもの」
「……そ、そうか」
エドガー様は安堵したように息を吐きました。
私は続けました。
「でも、その前に」
「……なんだ?」
「皆様に、お金を返してくださいね」
エドガー様が固まりました。
「……は?」
「金貨三千二百枚です」
「な、何を……」
「それから、クラリス様との結婚のお約束。ミレーヌ様とのお約束。ソフィア様とのお約束……」
私は指を折りました。
「皆様それぞれに、きちんとお詫びしてください」
「ふ、ふざけるな!」
「まあ」
私は眉を下げました。
「いけませんわ、エドガー様」
「俺は侯爵家の嫡男だぞ!」
「ええ」
「女どもが勝手に金を渡しただけだ!」
その瞬間。
私は、少しだけ。
本当に、少しだけ。
がっかりしました。
女ども。
そう、おっしゃったのです。
エドガー様が。
ご自分を愛してくださった女性たちに。
「……そう」
私は俯きました。
「エドガー様は、皆様を……そんなふうに思っていらしたのですね」
「当たり前だろう! 都合のいい女どもだ!」
ああ。
だめです。
それは、だめ。
私は顔を上げました。
「セバスチャン」
「はい、お嬢様」
「書類を」
「こちらに」
セバスチャンが、銀の盆に載せた書類を差し出しました。
私は一枚、手に取りました。
「エドガー様。こちらをご覧ください」
「……なんだ?」
「あなたのお父様が、我が家に差し入れた借用証です」
エドガー様の顔色が変わりました。
「……借用証?」
「ええ。侯爵家は三年前から、多額の借金を抱えておりますの」
「……そんなはずは」
「私、ずっと援助していましたのよ」
私は笑いました。
「エドガー様と結婚するんですもの。実家が困っていたら、助けるのは当然でしょう?」
「……お前が?」
「ええ!」
私は別の書類を取りました。
「こちらは侯爵家の領地に設定された抵当権。こちらは商会への未払い金。そして、こちらが……」
私は少し迷いました。
「……まあ、面倒ですわね」
書類を置きました。
「簡単に申し上げますと、侯爵家の借金の大部分は、現在、私が債権者です」
エドガー様は、口を開けました。
「……何?」
「私が、借金を買い取りましたの」
「な……なぜ……?」
「だって、結婚したら同じ家族でしょう?」
私は笑いました。
「家族の借金を、他人に握られているなんて嫌ですもの」
エドガー様の膝が震え始めました。
「……ま、待て」
「はい?」
「それは……どうなるんだ……?」
「婚約破棄なさるのでしょう?」
私は首を傾げました。
「でしたら、もう家族ではありませんわね」
「……あ」
「返済について、お話ししなくては」
エドガー様は、椅子に崩れ落ちました。
私は心配になりました。
「まあ、大丈夫ですか?」
顔が真っ白です。
かわいそうに。
私はハンカチを差し出しました。
エドガー様は、受け取りませんでした。
9.どうして、そんなに俺が好きなんだ
「……ヴィオレッタ」
エドガー様が、震える声で言いました。
「……考え直してくれ」
「あら?」
「俺が悪かった……」
私は瞬きしました。
「……何を?」
「浮気だ……」
「まあ!」
私は嬉しくなりました。
「わかってくださったのね!」
「ああ! もう二度としない!」
エドガー様は私の手を握りました。
「だから、婚約破棄は取り消そう!」
私は笑いました。
嬉しい。
本当に、嬉しい。
でも。
「……エドガー様」
「なんだ?」
「皆様へのお詫びは?」
「……え?」
「お金を返してくださいね」
「そ、それは……」
「それから、王宮の情報を漏らすように命じた件も、きちんとご説明なさって」
エドガー様が、エリゼ様を見ました。
エリゼ様は、青ざめたまま俯いていました。
「……あれは、こいつが勝手に……」
私は。
初めて。
笑うのを、やめました。
「エドガー様」
私の声は、自分でも驚くほど静かでした。
「その方を、こいつと呼ばないで」
エドガー様が、びくりとしました。
「……ヴィオレッタ?」
「皆様、あなたを愛してくださった方々です」
私は、七人の女性を見渡しました。
クラリス様。
ミレーヌ様。
ソフィア様。
ローザ様。
アネット様。
マルグリット様。
エリゼ様。
皆様、私の婚約者を愛してくださった。
彼のために、お金を渡し、仕事を辞め、将来を捨てようとした。
なんて。
なんて、素敵な方々でしょう。
「エドガー様」
私は微笑みました。
「私、あなたが大好きです」
エドガー様が、ごくりと唾を呑みました。
「……なぜだ」
「……はい?」
「なぜ、そこまで俺に執着する……?」
私は瞬きしました。
そして。
嬉しくなりました。
「まあ!」
私は両手を合わせました。
「覚えていらっしゃらないのですか?」
「……何を?」
「あの日の、砂糖菓子です」
「……砂糖菓子?」
「ええ。白い薔薇の形をした、小さなお菓子」
私は微笑みました。
「私たちが七歳のとき。ローゼンベルク家の庭園で、あなたが私にくださったでしょう?」
エドガー様は、ぽかんとしました。
「……は?」
「私、一人ぼっちだったんです」
懐かしい。
あの日の空。
あの日の風。
あの日の、エドガー様。
全部、全部。
覚えています。
「あなたが、私に声をかけてくださったんです」
「……そんなこと……」
「そして、お菓子をくださった」
私は、胸に手を当てました。
「私、とても嬉しかったんです」
エドガー様は、何も言いませんでした。
私は微笑みました。
「それから、ずっと」
ずっと。
ずっと。
「あなたのことが、大好きなんです」
エドガー様の顔色が、変わりました。
「……まさか」
「……はい?」
「……たった、それだけで……?」
私は首を傾げました。
「……それだけ?」
エドガー様は、震えていました。
「……菓子一つ……?」
「ええ!」
「そんなもの……」
彼は、乾いた声で笑いました。
「……俺は、覚えてすらいない……」
私は微笑みました。
「大丈夫です」
そして。
彼の手を、そっと握りました。
「私が、覚えていますから」
エドガー様は。
なぜか。
泣き出しました。
あら。
どうしてでしょう。
私は、困ってしまいました。
でも。
泣いているエドガー様も、可愛らしいです。
私は、彼の涙を拭って差し上げました。
「大丈夫ですよ」
優しく、囁きました。
「私が、ずっと覚えていますからね」
10.さようなら、私の初恋
それからのことは、あっという間でした。
エドガー様は、王宮の情報を不正に入手した疑いで連行されました。
女性たちへの詐欺についても、調査が始まりました。
侯爵閣下は、私に何度も頭を下げました。
私は、何度も大丈夫だと申し上げました。
だって。
侯爵閣下は、悪くありませんもの。
少なくとも、今回の件では。
婚約は、正式に解消されました。
侯爵家の借金は、領地の一部を売却することで返済されました。
七人の女性には、全額のお金が戻りました。
ローザ様は劇場に復帰。
アネット様は新しい店を開きました。
クラリス様とミレーヌ様は、私とよくお茶をする仲になりました。
ソフィア様は、私のことをお姉様と呼んでくださいます。
とても嬉しいです。
マルグリット様は、私の商会で働いてくださることになりました。
エリゼ様は、王宮の調査に全面的に協力したことで処罰が軽減され、今は地方の修道院で暮らしています。
そして。
エドガー様。
彼は、王宮の機密を不正に入手した罪で、三年間の禁錮刑となりました。
ああ。
かわいそうなエドガー様。
あんなに美しい方が、冷たい牢獄で暮らしているなんて。
胸が痛みます。
私は、毎月お見舞いに行きました。
もちろん、差し入れも忘れません。
彼の好きな焼き菓子。
彼の好きな果物。
彼の好きな紅茶。
けれど。
「帰れ!!」
エドガー様は、いつも怒鳴りました。
「二度と来るな!!」
「まあ、エドガー様」
私は悲しくなりました。
「そんなことをおっしゃらないで」
「お前の顔なんて見たくない!!」
「……そうですか」
私は俯きました。
悲しい。
とても、悲しい。
でも。
大丈夫。
私は、強い女ですもの。
エドガー様が出所するまで、待ちましょう。
きっと、いつか。
きっと、いつか。
彼は、私のことを。
また、好きになってくださるはず。
私は、そう信じていました。
ところが。
ある日。
思いがけないことが起きたのです。
11.新しい恋人
「ヴィオレッタ様」
ある日の午後。
セバスチャンが、珍しく困った顔でやってきました。
「……お客様が」
「あら、どなた?」
「……エドガー様でございます」
私は、飛び上がりました。
「まあ!!」
エドガー様!
私のエドガー様!
どうして!?
出所には、まだ半年あるはずです。
「恩赦が出たそうでございます」
「まあ!」
私は嬉しくて、くるくる回ってしまいました。
「早くお通しして!」
「……お嬢様」
「なあに?」
「……お一人では、ございません」
私は止まりました。
「……え?」
「……女性を、お連れです」
まあ。
まあまあまあ。
エドガー様ったら。
出所したばかりなのに。
もう新しい恋人を?
私は、胸がいっぱいになりました。
ああ。
エドガー様。
なんて、変わらない方なのでしょう。
私は急いで、応接室へ向かいました。
扉を開けると。
そこには。
少し痩せたエドガー様と。
見知らぬ女性が、立っていました。
「……ヴィオレッタ」
エドガー様は、私を見るなり、顔を強張らせました。
「まあ、エドガー様!」
私は駆け寄りました。
「お元気そうで何よりです!」
「……近づくな」
「あら」
私は止まりました。
悲しいです。
でも。
仕方ありません。
久しぶりですもの。
「それで、こちらの方は?」
私は女性を見ました。
茶色の髪。
優しそうな瞳。
質素なドレス。
とても可愛らしい方でした。
女性は、少し緊張した様子で頭を下げました。
「……はじめまして。リディアと申します」
「まあ!」
私は微笑みました。
「ヴィオレッタです。どうぞよろしく!」
リディア様は、エドガー様を見ました。
エドガー様は、私を睨んだまま言いました。
「……彼女と、結婚する」
私は瞬きしました。
「まあ!」
エドガー様は、震える声で続けました。
「俺は、リディアを愛している。今度こそ、本気なんだ」
そう。
本気。
本気の恋。
私は、リディア様を見ました。
「……そうなのですね」
「……ああ」
エドガー様は、彼女の手を握りました。
「だから、もう二度と俺たちに関わるな」
私は、しばらく黙りました。
リディア様は、不安そうに私を見ていました。
エドガー様は、怯えるように私を見ていました。
私は。
ゆっくり、微笑みました。
「……わかりました」
「……え?」
「おめでとうございます!」
私は、二人に頭を下げました。
「どうぞ、お幸せに!」
エドガー様は、呆然としていました。
リディア様は、ほっとしたように微笑みました。
「……ありがとうございます」
「いいえ!」
私は笑いました。
「エドガー様を、よろしくお願いいたしますね」
そして。
二人を、見送りました。
馬車が遠ざかっていきます。
私は、いつまでも手を振りました。
セバスチャンが、隣に立ちました。
「……お嬢様」
「なあに?」
「……よろしいのですか?」
私は微笑みました。
「ええ」
そして。
小さく、呟きました。
「……本当に、よかった」
セバスチャンは、何も言いませんでした。
私は、空を見上げました。
青い空。
白い雲。
小鳥の声。
なんて、素敵な日なのでしょう。
私は、心の底から。
幸せでした。
12.最後のお茶会
それから一年。
私は、再びお茶会を開きました。
招待客は、七人。
クラリス様。
ミレーヌ様。
ソフィア様。
ローザ様。
アネット様。
マルグリット様。
エリゼ様。
皆様、お元気そうでした。
「ヴィオレッタ様!」
ソフィア様が、私に抱きつきました。
「お久しぶりです!」
「まあ、ソフィア様!」
私は嬉しくなりました。
「お元気でした?」
「はい!」
ローザ様は、新しい劇場で主役を務めていらっしゃるそうです。
アネット様のお店は、大繁盛。
クラリス様には、新しい婚約者ができました。
皆様、それぞれの人生を歩んでいらっしゃいます。
私は、心から嬉しく思いました。
「ところで、ヴィオレッタ様」
ローザ様が、紅茶を飲みながら尋ねました。
「エドガーのこと、聞いた?」
「ええ!」
私は頷きました。
「結婚なさったそうですね!」
「……そうなのよ」
ローザ様は、少し複雑そうなお顔をしました。
「田舎の小さな屋敷で、奥様と暮らしているんですって」
「まあ、素敵!」
「……奥様が、すごくしっかりした方らしくて」
「ええ!」
「家計も、仕事も、全部奥様が管理しているらしいわ」
「まあまあ!」
私は笑いました。
「エドガー様には、ぴったりですわね!」
ローザ様は、私をじっと見ました。
「……ヴィオレッタ様」
「なあに?」
「……あなた、もうエドガーのことは、何とも思っていないの?」
私は少し考えました。
そして。
微笑みました。
「……愛していますわ」
ローザ様が、目を見開きました。
「……まだ?」
「ええ!」
私は頷きました。
「今でも、世界で一番」
皆様が、黙りました。
私は、紅茶を一口飲みました。
美味しい。
とても、美味しい。
「……でも」
私は、窓の外を見ました。
「もう、私のものではありませんもの」
ローザ様が、ほっとしたように息を吐きました。
「……そうよね」
「ええ」
私は微笑みました。
「ですから、もう会いません」
皆様が、安堵したように笑いました。
私も笑いました。
楽しい。
とても、楽しいお茶会。
私は、幸せでした。
そして。
ふと。
思い出したように、尋ねました。
「そういえば、皆様」
「……なあに?」
「エドガー様の奥様、リディア様のことはご存じ?」
ローザ様が頷きました。
「ええ。噂では、とても優しい方だって」
「そうなのです!」
私は嬉しくなりました。
「本当に、素晴らしい方ですわ!」
「……お知り合いなの?」
「ええ!」
私は微笑みました。
「私が、選びましたもの」
静寂。
誰かが、カップを落としました。
陶器の割れる音が響きました。
私は、びっくりしました。
「まあ! 大丈夫ですか?」
ローザ様が、震える声で尋ねました。
「……選んだ?」
「ええ!」
私は頷きました。
「エドガー様には、私よりもずっと、彼に合う女性が必要だと思いましたの」
皆様が、私を見つめました。
「リディア様は、優しくて、辛抱強くて、とても働き者です」
私は微笑みました。
「お金の管理も上手ですし、エドガー様が悪いことをしたら、きちんと叱ってくださいます」
「……ま、まさか」
ローザ様の声が震えました。
「……あなたが、紹介したの?」
「いいえ!」
私は首を振りました。
「紹介したら、エドガー様が嫌がるでしょう?」
当然です。
彼は、私のことを怖がっていらっしゃいますもの。
「ですから、偶然出会うようにしたんです」
私は笑いました。
「リディア様が働く食堂に、エドガー様が通うようにして。彼の好きなお料理を覚えていただいて。何度もお話しする機会を作って……」
皆様が、黙っていました。
「うふふ。恋って、素敵ですわね!」
私は頬に手を当てました。
「エドガー様ったら、あっという間に夢中になってしまって!」
「……ヴィオレッタ様」
クラリス様が、青ざめた顔で尋ねました。
「……リディア様は、そのことを……?」
「もちろん、知っていますわ!」
私は微笑みました。
「だって、最初にお願いしたんですもの」
皆様が、息を呑みました。
私は、嬉しくなりました。
ああ。
やっと。
やっと、わかっていただけたのですね。
「リディア様は、私の乳母の姪御さんなんです」
私は笑いました。
「幼い頃から、よく知っていますのよ」
ローザ様が、額を押さえました。
「……なんてこと……」
「エドガー様は、あまり賢い方ではありませんから」
私は穏やかに続けました。
「お金の管理も、生活のことも、誰かが見て差し上げなくては」
私は、紅茶を飲みました。
「リディア様なら、安心です」
そして。
微笑みました。
「エドガー様がどこへ行って、誰と会って、何を食べて、何時に眠るのか」
私は、幸せな気持ちで言いました。
「毎月、詳しいお手紙をくださるんですもの」
誰も、何も言いませんでした。
私は、不思議に思いました。
どうしてでしょう。
皆様、顔色が悪いようです。
「……皆様?」
私は首を傾げました。
「どうかなさいました?」
ローザ様が、ようやく口を開きました。
「……あんた、本当に……」
そこで、言葉を切りました。
私は、続きを待ちました。
けれど。
ローザ様は、何も言いませんでした。
私は、にっこり笑いました。
「まあ、いいですわ!」
そして。
新しいお菓子を勧めました。
「こちらのチョコレートケーキ、とても美味しいのよ!」
皆様、なかなか手を伸ばしてくださいません。
困ったものです。
せっかく、用意したのに。
13.白い薔薇
お茶会が終わったあと。
私は、自室に戻りました。
窓辺の小さな棚。
そこには、ガラスの瓶が並んでいます。
一つ。
二つ。
三つ。
全部で、十九個。
毎年、一つずつ増やしてきました。
中には。
白い薔薇の砂糖菓子が、入っています。
七歳の春。
エドガー様が、私にくださったもの。
それが、最初の一つ。
翌年からは、同じ菓子職人にお願いして、毎年作っていただきました。
形も。
大きさも。
色も。
全部、同じに。
私は、その瓶を一つずつ眺めました。
ああ。
懐かしい。
あの日。
エドガー様は、私に声をかけてくださいました。
私が、一人ぼっちだったから。
私が、寂しそうにしていたから。
きっと。
優しい方だったのでしょう。
私は、そう信じています。
だって。
私が、こんなにも長い間。
彼を愛しているのですもの。
その愛が、間違っているはずがありません。
「……お嬢様」
セバスチャンが、静かに声をかけました。
「……リディア様から、お手紙が」
「まあ!」
私は振り返りました。
「ありがとう!」
封を開けると、丁寧な文字が並んでいました。
『ヴィオレッタ様。
エドガー様は、今日もお元気です。
朝は七時に起床。
朝食は卵料理とパン。
午前中は領地の仕事。
午後は庭の手入れをなさいました。
夕食は、鶏肉の煮込み。
夜は九時に就寝。
最近は、夜中にうなされることも少なくなりました。
ただ、ときどき、ヴィオレッタ様のお名前を口にされます。
その際は、たいへん怯えたご様子です。
ご心配には及びません。
私が、きちんとお世話しております。
リディア』
私は、胸がいっぱいになりました。
「まあ……」
エドガー様。
私のことを、思い出してくださるのですね。
嬉しい。
とても、嬉しい。
私は手紙を胸に抱きました。
そして。
窓の外を見ました。
夕暮れの空。
赤く染まった雲。
庭園の薔薇。
あの日と、同じ。
春の風。
「……セバスチャン」
「はい、お嬢様」
「来年も、砂糖菓子をお願いね」
「承知いたしました」
「それから……」
私は、少し考えました。
「リディア様に、お礼を贈りたいわ」
「何をお贈りいたしましょう?」
「そうね……」
私は微笑みました。
「白い薔薇の砂糖菓子を」
セバスチャンは、深々と頭を下げました。
「承知いたしました」
私は、ガラスの瓶を一つ、手に取りました。
中には、十九年前の。
小さな、小さな。
白い薔薇。
私は、それを見つめました。
ああ。
エドガー様。
私の、大好きなエドガー様。
あなたは、覚えていらっしゃらないのでしょうね。
あの日。
私に、お菓子をくださったこと。
たった一つ。
小さな、小さな。
砂糖菓子。
でも。
私は、覚えています。
ずっと。
ずっと。
ずうっと。
ですから。
安心してくださいね。
あなたが、何を忘れても。
どこへ行っても。
誰を愛しても。
私が、覚えていますから。
あなたのことを。
全部。
全部。
全部。
私は、ガラスの瓶を棚に戻しました。
そして。
にっこり笑いました。
「……エドガー様」
小さく、囁きました。
「今日も、幸せでいらっしゃいますか?」
返事は、ありません。
でも。
大丈夫。
私は、知っています。
だって。
私が、幸せにして差し上げているんですもの。
――ねえ、エドガー様。
愛とは、素敵なものですわね。
たった一つの砂糖菓子で。
こんなにも長く。
こんなにも深く。
人を、愛することができるのですから。
私は、今日も。
幸せです。
とても。
とても。
幸せです。
〈完〉




