【ちくわ探偵】湯煙の湯気は血の匂い
ちくわ食べたい師匠に愛と敬意を込めて。
湯気と出汁の香りが、夜の廊下にまで染み出していた。
ここは、練り物界屈指の老舗宿泊施設、
「大鍋グランドホテル」。
昆布だしの浴場、からし色の絨毯、各部屋に備えつけられた追い鰹サービス。
格式、風味、塩分濃度。どれを取っても一流のホテルである。
その最上階、特別出汁スイートで、凄惨な事件が起きた。
被害者は、資産家として名高い「極厚がんもどき」氏。
彼は自室の湯船――正確には、やや濃いめの醤油出汁――の中で、無残にも中身の具材を撒き散らして絶命していた。
人参。ひじき。銀杏。
富豪の中身とは、かくも散らかるものなのか。
現場に駆けつけたのは、琥珀色の外套を小粋にまとった私。
ちくわ探偵である。
「うう……なんて酷いことを……」
湯気の向こうで泣き崩れているのは、第一発見者であり、がんもどき氏の若き妻、「白滝」さんだった。
ほどけかけた結び目が、彼女の動揺を物語っている。
その傍らには、いかにも怪しい目つきをした主治医、「エリンギ」先生が立っていた。
傘の部分が妙に湿っている。
まあ、ここはおでんのホテルなので、だいたい全員湿ってはいるのだが。
私は現場を見回した。
私の体には、頭からつま先まで、ぽっかりと空洞が通っている。
その空洞を夜風が抜けるたび、事件の真相が、かすかに囁く。
もっとも、囁かれる内容はたいていくだらない。
「白滝さん」
私は静かに口を開いた。
「失礼ですが、あなたが旦那様を?」
「まさか!」
白滝さんは結び目をぶんぶん振った。
「私はただ、乾燥を防ぐために結び目を解いて、少し出汁に浸かっていただけですわ! その間に主人があんな姿に……!」
「なるほど。では、エリンギ先生」
「俺じゃない」
エリンギ先生は即答した。
「まだ何も聞いていませんが」
「聞かなくてもわかる。どうせ疑ってるんだろう」
「では、確認します。あなたが、がんもどき氏を?」
「バカを言え。私はただのキノコだぞ。あんな分厚いがんもどきを真っ二つにするような筋力はない」
「医者なら、切開の心得はあるのでは?」
「キノコにメスを持たせるな。衛生観念が終わる」
言い分はもっともだった。
悔しいが、キノコにしては筋が通っている。
私は再び現場を見た。
湯船には濁った出汁。
床には散った具材。
壁には飛び散った醤油の斑点。
そして、部屋の中央に、ひとつだけ異様なものが転がっていた。
返り血――いや、返り出汁を浴びた、一本の農具。
「……鍬、ですね」
白滝さんが震える声で言った。
そう。
それは、畑を耕すときに使う、どこにでもある鍬だった。
だが、ここはおでんのホテルである。
大根ならわかる。
こんにゃくもわかる。
卵など、むしろいて当然だ。
しかし、鍬は違う。
出汁の香る密室に、泥臭い農耕具。
あまりにも場違いだった。
エリンギ先生が眉をひそめる。
「おい、ちくわ探偵。凶器がその鍬なのは明白だ。だが、犯人は誰なんだ? 現場にいたのは、俺と白滝さんだけだぞ」
「それは違います」
私は琥珀色の外套を、バサァと翻した。
空洞を風が通る。
ひゅう、と鳴った。
事件が、私に答えを告げている。
いや。
正確には、答えっぽい駄洒落を告げている。
私は右手を胸の空洞に当て、ゆっくりと二人を指差した。
「犯人は、この中にいる誰でもありません」
白滝さんが息を呑む。
エリンギ先生の傘が、わずかに震える。
私は言った。
「犯人は――私自身です」
「「ええええええええええっ!?」」
出汁スイートに、驚愕の声が響き渡った。
白滝さんは涙を引っ込め、勢いよく身を乗り出した。
「ちょっと待ってよ探偵! あなた、さっき現場に駆けつけてきたじゃない! アリバイはどうしたのよ!」
「アリバイなど、問題ではありません」
「問題ですわよ!」
「探偵ものでは、たまに勢いで押し切れることがあります」
「押し切れません!」
エリンギ先生が、床の鍬を指した。
「だいたい、なぜお前が犯人になるんだ。理由を言え、理由を」
「いいでしょう」
私はフッと、自嘲気味に笑った。
そして、床に転がる血まみれの鍬を見つめた。
「皆さん。よく考えてみてください」
部屋が静まり返る。
出汁の湯気だけが、ゆらゆらと天井へ昇っていく。
「犯行に使われたのは、血のついた鍬です」
「ええ」
「つまり――」
私は一拍置いた。
「血のついた、鍬」
もう一拍。
「ち、くわ」
さらに一拍。
「ちくわ、だけに」
「…………」
「…………」
沈黙が落ちた。
湯気の音さえ止まった気がした。
白滝さんは、何も言わずに結び目をきつく結び直した。
エリンギ先生の傘は、心なしかシナシナに萎びている。
やがて、エリンギ先生が低い声で言った。
「……おい」
「はい」
「自分でやったと言いたいがために、がんもどきさんを手にかけたのか?」
「はい」
「動機が浅すぎるだろ」
「語呂合わせに命を懸ける者もいます」
「懸けるな」
白滝さんが、静かに首を振った。
「最低ですわ……。推理でもなんでもありませんわ……」
「推理とは、真実に至る道です」
私は外套の襟を正した。
「たとえその道が、駄洒落で舗装されていたとしても」
「舗装しないでください」
だが、もはや長居は無用だった。
私は窓を開けた。
眼下には、夜の出汁街が広がっている。
大根の街灯がぼんやりと光り、遠くで牛すじ横丁の湯気が揺れていた。
背後から、エリンギ先生の声が飛ぶ。
「待て、ちくわ探偵! がんもどきさんに謝れ!」
「いずれ、出汁の中で」
そう言い残し、私は夜へ身を投げた。
風が、胸の空洞を冷たく通り抜けていく。
ひゅう、と鳴った。
私の名は、ちくわ探偵。
真実のためなら嘘をつき、
駄洒落のためなら真実を曲げ、
時には自らを犯人に仕立て上げる。
孤独な練り物である。
そして今夜もまた、どこかの鍋で事件が煮えている。




