第17話 見えないものを払えるか
何日もかけて鋼マキコをぺしょぺしょにした彼はふと奇妙な空気に気づいた。
何かいる、何もない筈の帰り道にそう感じたのだ。
周囲を見渡しても誰もいない。視覚的に見つからないということは何かある。
彼の直感ではあるが、悪い方向では信頼できる経験がある。
息を整え、周囲を感じる。
頼るのは五感ではなく第六感。今まで精霊を見つける時にも良くやる手法である。
わずかに反応する勘を頼りにゆっくりと歩き、物陰に誰かいないかを探してみる。
そしてーーー
「こんにちは。お久しぶりですね」
「……………………」
前に公園で出会った妙に存在感がない子供が溝にハマっていた。
すっぽりとハマって抜けなさそうな感じがする。このままずっと放置されていたのだろうか、それとも何も考えていないのか虚無の目をし続けていた。
とりあえず生きているかの確認でかるくつついてみる。
ぷにぷにと柔らかいほっぺだ。死後硬直ではなさそうだ。
よく見ると小さく胸が動いているため呼吸もしている。それでも溝から抜けるという選択をとらないのは謎だが。
「汚れてしまいますよ」
「……………………」
「しょうがないですね。では少しお手を拝借して」
望んで溝にハマっている、という幻想は捨てて衛生的にも問題がある溝から強制的に引っ張りっ出した。
この引っ張り出しにも無抵抗であったため、本当に何がしたいのか分からず彼はひたすら困惑した。
「おやおや、かなり汚れてるじゃないですか。落としてあげますよ」
溝に溜まっていた土やコケが付いていたので親切心ではらってあげる。
その間も無抵抗で無関心な子供だが、少しすると彼の手が触れるだけでぴくりと動くようになる。
気持ちよさ、というよりも恐怖。無理矢理心を殺していたせいか少し触れ合いが長くなるだけで何らかの小さなリアクションが出るようになっているようだ。
彼が前に予想したことが的中しているようでならない。
こういった子供が本当に虐待されているのか、それとも滅茶苦茶変わった趣味をしているのか、彼には未だに区別がつかない。
彼の記憶の中には本当に度し難い行為を行う人間が複数人いる。この子供がこの年で変態行為に目覚めたのであれば全力で矯正にかかるつもりだった。
だが、そのような矯正よりも警察に相談した方がいいタイプの案件だった。
この震えは心理的な恐怖だと彼の経験則から感じ取ることが出来た。誰かに触れられる、感情を表に出してしまうことが恐怖、そのような感じが取れる。
「君、名前は?」
「……………………」
「あまり自分のことは話したくないですか?」
「……………………」
「それとも話すことが怖いですか?」
「……………………」
「怖がらないでください。私は君の敵ではありません、さあ、ゆっくり話してください」
にこやかに警戒させない笑顔で語りかける。
怪しさはあるとはいえ和やかで心安らかそうな声で話しかける。
それでも子供は喋らない。いや、何か言おうと口を開きかけては閉じるを繰り返している。
「大丈夫、自分のタイミングで構いません。ほら、私を信じて」
身振り手振りを大げさ気味にふりながら危険がないことをアピールしつつ話が出来るか試してみる。
そのかいあってかどこでもない虚無を向いていた目が彼へと向けられる。
やはり、その瞳はどこか虚空で何も捉えていないような気がする。
その瞳を覗き込めば常人ならば一歩、いや三歩は引いてしまうだろう。
だが彼は狂人だった。その程度のことは一切気にしないほど対象をしっかりと見ていた。
絶対に目を背けるなと、言わんばかりに彼は子供の目を見ていた。
「…………あそこは、落ち着いたのに」
「おや、溝が好きなのですか?」
「…………暗くて、じめってして、静かだった」
「衛生面はどうでしょうか?もう少しきれいなところだってあります、紹介しましょうか?」
「…………いい」
少しぶっきらぼうだが会話は出来た。前もそうだったがそれだけでも進歩だ。
前もそうだったが情報が欲しい。この子供がただの変人ならいいが、彼が予想する厄介ごとであるなら話はかなり変わる。
過去に関わった事件に、この子供の様な状態が多発した話があったりする。
その話は既に消え失せているのだが、可能性を潰しておきたいので彼は話しかける。
「ご両親は何をなされているのですか?」
「…………わかんない」
「そうですか。確かに、自分の親が何をしているか把握するのは案外難しいですよね」
肯定、同意、共感、人と接する中で相手に取り入るための感情をフルに活用して会話を続ける。
それでも子供の生活背景はあまり見えてこない。しいて言うなら育児放棄に近い愛の無さが見える生活があるくらい。
流石に食事は出ているが他のことがまるで無い。否、敢えて何もないようにしている気もする。
「カードバトル以外の遊びを1人でやっていたら自然に人が集まることもあります。例えばリフティング、あれも奥深いものがあったりしますよ」
「…………ん」
「案外、遊びとは何かと考えると多くて何がいいか分からなくなりますね。難しい、ですが考えるのも面白いですね」
「…………ん」
「と、申し訳ありません。私の時間がもうなさそうです。同居人が怒りそうなので」
「……………………」
そこそこ話し込んでいたら『悪神ウェロボラウス』が早く帰ってきて欲しいと言っていた時間を過ぎようとしていた。
このままだと癇癪を起こされる可能性を考えて致し方なく彼は会話を切り上げた。
この子供は自分よりも市役所的な組織に任せた方がまだ丸く収まりそうである。
「では、また会いましょう。今度は名前を教えてくださいね」
匿名で通報をしよう、彼はそう思い子供に背を向けた。
「……………………ん、またね」
彼は振り返った。
そこに子供はいなかった。
「ふむ、精霊…………いえ、やはり…………」
やはり選択を間違った。勘がそう囁いている。
事は全て起きてから知る。いつものことであり防げないこと。
全てがままならない。彼の中に残る過去を思いながら帰路につくしかなかった。
そして、どうして溝にハマるのが良かったのか家に着くまでずっと考える事となる。




