幸せの鬼
「椅子を買うとき、良いものを探し求めて歩き回るから、どの椅子も座り心地が最高になってしまう。」これは、哲学者ならぬ、究極の「安楽」の追求に人生を賭けている自称「幸せの鬼」こと、私、古北が長年の経験から導き出した「相対的安楽の法則」である。
幸せの鬼なんて仰々しく格好つけているが、要はただのしがない独身男性である。だが、こんな私でもこの法則は本質を見極めていると確信している。なぜなら、私は幸せの鬼だからだ。
ある週末、私は究極の書斎椅子を探すため、都内最大級の高級家具店「Pursuit」にいた。店内は磨き上げられた床がきらめき、洗練されたデザインの家具が、まるで芸術品のようにスポットライトを浴びている。並んでいる椅子の平均価格は、私の月収を軽く超えるだろう。
私はすでに3時間、店内を歩き回り続けていた。本革張りの重役椅子、人間工学に基づいたオフィスチェア、北欧デザインのラウンジチェア……。展示されている椅子全てに腰を下ろし、背もたれの角度、座面の深さ、肘掛けの高さ、そして微細なクッションの反発力まで、徹底的に吟味した。
最初のうちは「この革は肌触りが少し硬い」「ランバーサポートの位置がわずかに下すぎる」など、明確な不満点が見つかった。しかし、1時間、2時間と歩き回り、座るという行為を繰り返すうちに、脚と腰、判断力は疲労の極致に達する。
そして、3時間目に座った、定価50万円のイタリア製本革アームチェア。
『……す、すごい』
それはもう、座り心地という概念を超越していた。体全体を上質なカシミアのような安らぎが包み込み、頭の中で微細な快楽物質が分泌されるのがわかる。疲弊しきった筋肉と関節にとって、この椅子は天国そのものだった。
『お客様、そちらは弊社の「至高の逃避」というモデルで、最高級の……』と、営業マンが近づいてきた。
『これだ。これに決めた』と、私は財布の紐が緩みきった声で告げた。
その翌週、私は部署の打ち合わせで、自社が関わる新プロジェクトについて説明を受けていた。企画部が提案した新規事業は、「デジタル・アノニマス・コミュニティ構想」という、少々大仰な名前が付いていた。
『つまり、現代社会に疲弊した人々が、一切の社会的属性や過去を匿名化し、デジタル空間内で「究極の自己解放」を享受できるプラットフォームです。』と、企画部の若手が熱弁する。
彼の後ろのスクリーンには、霧の中に浮かぶ、幻想的な都市のイメージが映し出されている。
『社会的皮肉はすべて排除し、ここでは誰もが「最高の自分」になれる。仕事のストレス、家族の期待、SNSでの評価、過去の失敗……すべてをドロップボックスに閉じ込め、この空間では新しい人格、新しいライフスタイルを自由に選べます』
会議室にいた重役たちは、一様に満足げに頷いていた。
『素晴らしい。現代人が抱える「自己肯定感の不足」というマーケットに、真っ向から切り込んでいる。』と、部長が太鼓判を押した。
私はこの話を聞きながら、どうにも胸の奥がざらつくのを感じていた。
究極の安楽。究極の自己解放。
私が先週大金を払って手に入れた「至高の逃避」アームチェア。あの椅子が提供してくれたのは、究極の「逃避」だった。長時間の歩行による肉体の疲労という「現実」からの解放。
はたしてあのときの、どの椅子にも感じた翼が生えたような感覚は本来の感想といえるのだろうか?究極の安楽は、究極の疲労によってのみ引き出されるのではないのだろうか?私の頭の中で、幸福のあり方が暗に示されたように感じた。
この「デジタル・アノニマス・コミュニティ」も同じではないか?
彼らが提供しようとしている「究極の自己解放」は、現実社会の「究極の疲弊と抑圧」があることで成立する。人々が社会的皮肉やしがらみから逃げ出すほどに、このプラットフォームは「最高の解放区」と感じられるのだ。
『古北くん、どうした? 何か意見はあるか?』部長が私に尋ねた。
私は平静を装って、口を開いた。
『企画としては、大変素晴らしいと思います。ただ、一点懸念が……このプラットフォームは、「最高品質の解放感」を維持するために、我々は現実社会の「抑圧の品質」を維持する必要があるのではないでしょうか?』
会議室が静まり返った。企画部の若手が、困惑した表情を浮かべる。
『どういうことかね?』と、部長が怪訝そうに尋ねた。
『例えば、このプラットフォームが本当に「究極の自己解放」を提供するならば、人々は現実世界で、より深く、より長く、『究極の疲労』を経験しなければならない。そうでなければ、解放区のありがたみが薄れてしまいます」
私は続けた。
「つまり、我々はこの事業の成功のために、社会に跋扈する不安や競争心を激化させ、人々を疲弊させる『究極の地獄』を作り出す努力を、裏側で維持する必要があるのではないでしょうか?ヘトヘトになって初めて、解放区のありがたみが最高になるのですから。」
企画部の若手は震える声で反論した。
「それは……その、本末転倒というか……我々の目的はあくまで、社会貢献、人々の精神的幸福の追求です!」
「もちろん、表向きはそうでしょう。しかし、最高の解放区という商品の質を保つことは、最高の抑圧の質も同時に高めることと同義だと思いませんか?我々は疲労によって安楽を売るのです。」
会議は紛糾した。私の発言は、企業の表面の理念と、利益追求という裏面の間の、最も触れられたくない部分を突いたからだ。
部長は最終的に、私の発言を「少々、皮肉が過ぎるな。現実と仮想を混同しすぎだ」と一蹴し、企画はそのままGOサインが出された。
その夜、私は自宅に戻り、先日購入したばかりの「至高の逃避」アームチェアに腰を下ろした。
最高級の本革の匂い。体を包み込む完璧なクッション。
「……あれ?」
今日は、座り心地が、それほどでもない。
今日の会議での神経戦で、私の体は確かに疲弊しているはずだった。しかし、あの家具店で感じたような、魂が昇天するような究極の安楽は、得られない。
それはなぜか。
私はただ、家と会社を往復し、日常のタスクをこなしただけだ。あの時のような、究極の「歩き回る」という努力も、究極の「座り心地を探し求める」という切実な願いも、今日はなかった。
ここで私は、あのとき、最高の安楽を、探求する苦労と一緒に買ってしまったのだ。私はようやく確信した。
「至高の逃避」アームチェアに深く沈み込みながら、私は自嘲気味に笑った。
究極の安楽とは、その安楽を得るために費やした究極の努力と苦痛の代償によってのみ、その価値が保証される。
人々が現実社会で「最高の自分」を探し求めて歩き回り、ヘトヘトになったときに初めて、あの「デジタル・アノニマス・コミュニティ」は、最高の座り心地を提供するだろう。
そして、その座り心地に慣れてしまえば、また次の「究極の逃避先」を探して、人々は歩き回るのだろう。
私は静かに立ち上がり、リビングの隅にある、ニトリで買ったごく普通のオフィスチェアに座り直した。
『……悪くないな』
何時間も歩き回ったあの日の私ならば、この普通の椅子でさえ、最高の座り心地だと感じたに違いない。
最高の安楽を探し求めて、疲弊する。 疲弊したから、安楽が最高に感じる。
これは、社会と人間が絡み合う、永遠に続く皮肉な循環だ。
そして私は、明日も会社で、この循環を維持するために、精一杯「究極の地獄」を作り出す鬼として働くのだろう。究極の逃避先を提供するために、逃避が必要なほど疲れる社会を作るのだ。
私は目を閉じ、今日の会議の若手社員の熱意と、重役たちの満足げな顔を思い浮かべた。彼らは、最高の椅子を探して歩き回る人々と、何ら変わりない。
究極の安楽は、いつだって、手の届かないところに、あるという幻想に支えられているのだ。
個人的なあるあるを基に物語を作りました。




