第六話 接続候補者たち ― Candidates at the Gate
不思議なもので、覚悟を決めたあとの夜は、意外とよく眠れた。
いい夢を見たわけじゃない。
塔の中みたいに真っ暗な場所で、誰かの鼓動だけを延々聞かされる、
あまり気持ちのいいとは言えない夢だった。
それでも、目が覚めたときには、胸の奥で何かが一段落ち着いていた。
(――書いたんだ。もう、戻せない)
枕元のポケットを確認する。
昨夜までそこにあった紙は、きちんと机の上に移されていた。
署名欄には、もう俺の名前が乗っている。
それだけの事実が、やけに大きく見えた。
◇
食堂に行くと、二人はいつも通りだった。
「おはよ、前線志願者くん」
ユラがスープをすすりながら、軽く手を振る。
「志願者ってほど格好いいものでもないけどな」
「いいじゃない。どうせ噂になるんだし。
だったら、最初にあたしらが茶化しといてあげる」
シンはパンを半分に割りながら、こちらを見た。
「書いたんだね」
「……うん」
「じゃ、はい。これ」
目の前に、ネックレスが放り出された。
灰色の石がはめ込まれた輪。
塔の外壁を削り出した小さなプレートが、中央で光を吸い込んでいる。
「なにこれ」
「なにって、“灰鉄護環”でしょ。支給品」
ユラが、自分の首元の紐を指で引っ張って見せる。
「前線候補は、訓練の時からちゃんと着けとけって。
昨日、倉庫のサインのとこに追加で名前があったよ。カガリ」
「気づかなかった……」
「そういうとこだよねぇ」
半分呆れ、半分あきらめた声。
でも、その目はどこか楽しんでいる。
アシュバインドを手に取ると、掌にひんやりした重みが乗った。
塔と同じ匂いがする石。
そこに、薄く刻まれた祈りの文様。
これを通して、塔の灰脈素が外に流れ、
俺たちの心種と混ざる――教本にはそう書いてあった。
「似合ってるよ」
シンが、少しだけ笑う。
「港に錨が付いたみたい」
「縁起でもねぇな」
「大丈夫。ちゃんと上げ下ろし手伝うから」
その軽口が、少しだけ心をほぐしてくれた。
◇
午前の訓練が始まる前に、呼び出しがかかった。
「接続候補者、番号一番から五番、訓練場裏へ集合!」
塔下の雪原に声が響く。
「行ってらっしゃい」
ユラが背中を軽く叩く。
シンは喉に手を当てて、短く頷いた。
「何かあったら、音で分かるから」
「心強いな」
冗談半分、本気半分で返して、俺は列から抜けた。
訓練場の裏には、もう何人か集まっていた。
見覚えのある顔もあれば、初めて見る徽章もある。
塔下以外の部隊からも、接続候補者が選ばれているらしい。
「お、港じゃねえか」
聞き覚えのある声がして振り向くと、
分隊長のデイルが壁にもたれていた。
「小隊から、ひとりだけとはな。
もう少しまとめて送り出してくれてもよかったのに」
「いや、それはそれで困りますけど」
「冗談だ。……半分はな」
デイルは笑い、アシュバインドに目をやる。
「サイズは合ってるか?」
「多分」
「ならいい」
デイルが視線を上げると、塔の上から鈴の音のような響きが降りてきた。
振り向くと、琥珀色の瞳の女性――昨日の教団の神官が、雪を踏んでこちらに近づいてくる。
「揃っているわね」
彼女は一人一人の顔を確かめるように見渡した。
「今日の試験は、塔上の“門”に立つための、最初の一歩。
身体検査でも、学科でもないわ」
淡々とした声なのに、どこか胸の奥に残る。
「あなたたちの心種が、塔とどこまで“話せるか”を見る試験よ」
「話す?」
誰かが小さく繰り返した。
「そう。塔は、ただの石の塊じゃない。
封じられた鼓動と、積み上げられた祈りの集合体。
そのざわめきに、自分の拍をどれだけ混ぜられるかを見たいの」
彼女の視線が、一瞬だけ俺の胸元で止まる。
「特に、港――カガリ。あなたのような心臓は、試されやすい」
「光栄ですね」
「ええ。とても」
微笑んでいるのかどうか、よく分からない笑みだった。
「さあ、ついてきて」
神官は踵を返し、塔の基部に開いた小さな扉へ向かう。
雪で滑りそうな石段を上がりながら、俺は一度だけ振り返った。
訓練場の向こう側。
そこに、ユラとシンの姿が小さく見える。
ユラは両手を大きく振り、シンは喉に触れたまま、静かに片手を上げた。
その仕草だけで、胸の中の心種が一つ、穏やかに揺れる。
(――港から出る船だ)
自分で自分をそう呼んで、少しだけ笑った。
◇
塔の中は、思っていたよりも明るかった。
外から見える灰色の外壁とは違う、淡い光を宿した石。
壁に刻まれた文様が、灰脈素を流す道になっているのだと教官が言っていた。
神官は足を止めずに進む。
「ここはまだ“外縁”よ。
塔の心臓部までは、あと何百段もある」
「何百……」
誰かがうめく声が聞こえた。
「安心して。あなたたちが行くのは、心臓の手前。
鼓動が一番よく聞こえる場所――“門階”まで」
門階。教本で見た言葉だ。
塔の外の世界と、塔の内の世界。
その二つの鼓動が、ぎりぎり同じリズムで混ざり合える高さ。
そこに立つ者だけが、前線観測隊として“接続”を許される。
「ここ」
螺旋階段をしばらく上ったあと、神官が足を止めた。
薄い霧のようなものが漂う広間。
床には、円形の紋章が幾重にも刻まれている。
中心には、塔の外壁と同じ灰鉄の柱。
先ほど首にかけたアシュバインドと同じ文様が、淡く光っていた。
「順番に、円の中に立って。
自分の心種だけを意識して」
神官はそう告げると、灰鉄の柱に手を置いた。
「塔の鼓動を少しだけ上げるから、驚かないでね」
言葉と同時に、足元から音が立ち上がった。
どん、と。
どん、と。
街で聞く塔のざわめきとは違う。
もっと近く、もっと重い拍。
骨の内側まで届いてくるような鼓動だった。
(……これが、塔の“素顔”か)
順番が回ってくる。
円の中に立つと、アシュバインドが微かに熱を帯びた。
「カガリ」
神官が名を呼ぶ。
「あなたは、港。
余った鼓動の行き場になれる心臓」
「それ、褒め言葉なんですか」
「少なくとも、塔はそう思ってる」
意味が分かるような、分からないようなことを言って、
彼女は俺から少し下がった。
「さあ。心種を立てて」
胸の奥に沈んでいる火種を、そっと浮かせる。
思い。
想い。
重み。
それらが一つにまとまって、形になった時、
心種は、胸のどこかに小さな光を灯す。
そこから祈導のルートに乗せて、身体のどこかへ流す。
いつもは脚や腕に落とすが、今日は違う。
(……塔に、聞かせる)
胸の中に留めたまま、自分の鼓動を数える。
一拍。
二拍。
三拍――。
塔の拍と、自分の拍が、少しずつ寄ってくるのが分かる。
塔の方が、ほんの少しだけ速い。
焦っているみたいに。
(落ち着け。こっちに合わせろ)
心の中でそうつぶやいてみる。
ばかみたいだと思いながらも、試してみたかった。
港から出た船が、ゆっくりと波をならしていくみたいに。
自分の鼓動のリズムを、ほんのわずかに変える。
どん、どん、どん。
塔の内側から、同じ高さの音が返ってきた気がした。
「……!」
神官が、小さく息を呑む気配がする。
「面白いわね」
彼女の声が、どこか楽しそうに響いた。
「塔の方が、あなたに合わせてる。
久しぶりに見るわ、こういう“接続”」
胸の奥で、心種がひとつ震えた。
(――これが、俺の戦場か)
まだ何も始まっていないのに、
もう足元が少しだけ変わってしまったような気がした。




