第五話 港に残る嘘 ― A Lie Left at the Harbor
決めないっていう選択にも、たぶん、期限はある。
分かってるくせに、俺はまだ、紙切れ一枚に名前を書けずにいた。
ポケットの中で折りたたまれた《接続候補者・推薦枠》が、
心臓のすぐ横で、余計な鼓動を一拍ずつ増やしてくる。
◇
「……で、結局まだ書いてないんだ」
朝食のパンをちぎりながら、ユラがじとっとした目を向けてきた。
「見せてみ」
「やだよ」
「なんで?」
「字が汚いって笑われたら嫌だ」
「そこ気にする?」
ユラが呆れたように肩をすくめる。
隣でシンが、スープをかき混ぜながらつぶやいた。
「締切、いつ?」
「一応、三日後って言われた」
「一応って何」
「“その前に呼び出される可能性はある”って」
「あー、教団だね、それは」
シンは妙に納得した顔をする。
「どうせ塔の上からも見てるし、紙はただの“確認”だよってやつ」
「言い方やめろ。余計書きたくなくなる」
パンをかじる。味はいつも通り薄いのに、今日はやけに重かった。
「でもさ」
ユラが、パンの端っこを指でいじりながら言う。
「書くにしても、書かないにしても。
あんた、ちゃんとそれを“自分の嘘”にしときなよ」
「嘘?」
「うん。ほんとの本音なんて、戦場まで連れてくもんじゃないでしょ」
彼女の言い方は、いつも少し乱暴で、少しだけ優しい。
「だからさ。“本音のフリした嘘”を、ひとつ決めときなよ。
“俺はこうしたくてこうしたんだ”って言い張れるやつ」
それがどれだけ後から崩れても、
最初の一歩くらいは、見栄で踏んでもいい――そんな言い方だった。
「……難しいこと言うな」
「難しいのは戦記でしょ。
人間の方は、案外シンプルだよ?」
ユラはそう言って、残りのパンを一口でかじり取った。
◇
午前中の訓練は、いつも通りの基礎だった。
走って、体を温めて、祈導のルートを確認して、
心紋を立てたり、落としたりする練習。
でも、塔のざわめきだけは、いつもと少し違っていた。
遠くで、何かが擦れるような音。
地面の下の残響脈が、わずかに荒れている気配。
(……外で、何かあったか?)
そう思っても、訓練兵に届く情報は少ない。
「集中しろ、港」
ハルド教官の声が飛んでくる。
「塔の機嫌を心配するのは、塔の上の連中の仕事だ。
お前の仕事は、“今ここ”で鼓動を揃えること」
「……はい」
返事をして、呼吸を一度深く整えた。
自分の心種を浮かべる。
胸の奥に沈んでいる火種を、そっと指先で探るみたいに。
(俺は――)
俺は、何になりたいんだろう。
塔の心臓か。
港のままか。
それとも、ただのどこにでもいる兵士か。
答えが出る前に、その瞬間は来た。
◇
空気が、一瞬だけ変なふうに揺れた。
訓練場の向こう側、塔の反対方向。
灰色の空の下で、空気がねじれたみたいに光る。
「……え?」
誰かが声を漏らすと同時に、遅れて音が来た。
遠くで何かが爆ぜるような低い響き。
塔のざわめきとは違う、無骨な衝撃波。
その一拍あとに、訓練場の地面がぐらりと揺れた。
「全員、その場で待機――!」
ハルド教官の号令が飛ぶ。
でも、揺れは二度目で済まなかった。
塔の下を走る残響脈が、突然吠えたみたいに震え、
訓練場の端に積まれていた木箱がごろりと崩れる。
崩れた先にいたのは、新しく配属されたばかりの一年目の連中だった。
そのうちの一人の頭上に、木箱の角が落ちていく。
(間に合わない――)
思うより先に、身体が動いていた。
「祈導、《身》!」
足に心種を落とし、雪を蹴る。
でも、距離が悪い。俺が飛び込んでも、ぶつかるだけだ。
その瞬間、塔のざわめきと一緒に、周りの“音”が一気に流れ込んできた。
ユラの「ちょっと待って!」っていう焦りの拍。
シンの「歌わなきゃ」っていう義務の拍。
後ろで誰かが祈っている、名も知らない鼓動の拍。
(――来るな)
そう思ったのに、全部、胸に集まってきてしまう。
港は、選べない。
来るものを拒めない。
だったらせめて、まとめ方だけは選ぶ。
「……っ、祈導、《守》!」
叫んだ瞬間、胸の心紋が焼けるみたいに熱くなった。
今まで使ったことのないルートだ。
武器でも脚でもなく、自分の“外側”に心種を流す感覚。
拾ってしまった鼓動全部を、まとめてひとつに束ねて、
崩れ落ちる木箱と、新兵の身体の間に滑り込ませる。
見えない何かが、がつん、と鳴った。
木箱の角が、ありえない角度で跳ね上がり、
新兵の頭のすぐ横をかすめて落ちる。
雪煙が舞ったあとに残っていたのは、
俺の目の前で尻もちをついている一年目と、
その向こうで揺れ続ける塔の影だけだった。
「……っ、は……」
肺の空気が一気に抜ける。
足元がぐらりとした。
「カガリ!」
ユラの声が聞こえたと思ったら、肩を支えられていた。
「何やったの、今!?」
「さあ……」
自分でも、よく分からない。
ただ、胸の奥で暴れていた鼓動が、
少しだけ静かになっていた。
「祈導、《守》、か」
低い声が頭上から降ってきた。
見上げると、ハルド教官が立っていた。
それから、その少し後ろに――
昨日見た琥珀色の瞳の、教団の女性。
「今の、見てたんですね」
「見てなくても、塔が教えてくる」
女性は、すっと歩み寄ってきた。
「面白い守り方をするわね。
自分の心種だけじゃなくて、周りの鼓動をまとめて壁にするなんて」
「褒めてるんですか、それ」
「ええ。とても」
彼女は、何の迷いもなくうなずいた。
「そういうのをね、**“共鳴盾”って呼ぶのよ。教団では」
「勝手に名前付けないでほしい」
「もう付いてるの。ずっと昔に」
琥珀色の瞳が、少しだけ遠くを見る。
「塔に似た心臓を持つ人は、いつもそうやって守った。
自分の鼓動だけじゃ足りないから、周りの想いごと抱えてしまうの」
(……それは、呪いじゃないのか?)
喉元まで出かかった言葉を、飲み込む。
「怪我人は?」
「か、かすり傷だけっす!」
新兵が慌てて頭を下げる。
「ありがとうございますっ、あの、カガリ先輩!」
「先輩って年じゃないけどな……」
苦笑いがこぼれる。
体はまだふらついていたが、立てないほどじゃない。
「港」
ハルド教官が、俺の名を呼ぶ。
「さっき言ったな。
“今ここで答える話じゃない”って」
胸のポケットの紙を、教官の視線が一瞬だけなぞる。
「悪いが――」
教官は、ほんの少しだけ顔をしかめた。
「塔の方が、先にお前の答えを聞きたがってるらしい」
「……そっすか」
笑うしかなかった。
◇
その日の夕方。
兵舎に戻ると、ユラとシンが揃って待っていた。
「噂になってるよ、あんた」
ユラが腕を組んで言う。
「木箱、素手で弾いたって?」
「盛りすぎだろ、それは」
「じゃあ何?」
「……“共鳴盾”だってさ。教団いわく」
「おー、なんかカッコつけた名前来たね」
シンが妙に楽しそうに目を細める。
「港っぽいじゃん。
いろんな船の荷物、まとめて積み上げて壁にする感じ」
「例えが雑だな」
ポケットの紙切れが、やけに存在感を増している。
ユラが、それに目をやる。
「で」
「……何だよ」
「決めた?」
逃げ場はない。
逃げる気も、もうあまり残ってなかった。
「教団の人に言われた」
自分の言葉を、自分の耳で確認するみたいに、ゆっくりと口を開く。
「“心種の重みは、自分で許すもの。誰かの想いで決めるものじゃない”って」
「うん」
「教官にも言われた。“誰のせいにもすんな”って」
「うん」
「だから――」
深く息を吸う。
鼓動が一拍、強く鳴る。
「行く。塔の近くまで」
ユラの目が、少しだけ見開かれる。
「……そっか」
それだけ言って、彼女は視線を逸らした。
その横で、シンが静かにうなずく。
「理由、聞いてもいい?」
ユラの声は、いつもより少しだけ細かった。
「本音の方か、“本音のフリした嘘”の方か」
「嘘からで」
少しだけ笑いそうになりながら、言葉を選ぶ。
「――この戦役のことを、ちゃんと見ていたいから」
自分で言って、自分で苦笑した。
「前線で何が起きてるのか。
塔の近くで何が失われて、何が残るのか。
後から誰かに聞いて、“そうなんだ”って頷くだけの人生は、何か違う気がする」
それは、きっと半分くらい本音だった。
残りの半分は、もっと醜くて、もっと単純だ。
(――俺の心臓が、どこまでやれるか知りたい)
塔に似てるって言われ続けてきた、この港みたいな心臓が、
戦場で本当に役に立つのか。
それとも、誰かを壊すだけなのか。
その境界を、自分の目で見ておきたかった。
「……バカだなぁ」
ユラがぽつりとこぼす。
「そんなの、後ろから見てた方が長生きできるのに」
「長生きしたいなら、そもそも兵舎にいない」
「それもそうだね」
ユラは、諦めたみたいに笑った。
「じゃあさ」
彼女は俺に向かって、右手を差し出す。
「あんたが前線に行くなら。
あたしたちは、ちゃんと“戻ってくる場所”で待ってる」
その言葉は、不思議と塔のざわめきよりも静かに響いた。
「港ってさ。
出てく船がないと、何の意味もないでしょ?」
「……お前、たまにカッコつけるよな」
「たまにじゃないし」
差し出された手を、握り返す。
シンもその上に、そっと手を重ねた。
「じゃ、三人分の鼓動、ちょっとだけ預けとくわ」
「重すぎたらごめん」
「重かったら返す」
それがいつになるかは、まだ分からない。
◇
その夜。
机の上に紙を広げる。
かすかな灯りが、文字を照らしていた。
《接続候補者・推薦枠》
署名欄は、まだ空白だ。
ペンを持つ手が、少しだけ震える。
(本音のフリした嘘、か)
ユラの言葉を思い出す。
「俺は――」
声に出してみる。
「俺は、自分の心臓が選んだ戦場に行く」
それがどれだけ綺麗事でも、どれだけ自己満足でもいい。
最初の一歩くらいは、自分の嘘で踏み出したかった。
ペン先が、紙の上を滑る。
名前を書く。カガリという音が、文字に変わっていく。
書き終えた瞬間、胸の奥で、塔のざわめきと自分の鼓動が、
一拍だけ、きれいに重なった気がした。
(――灰鉄戦役が、ただの歴史じゃなくなる)
そんな予感が、静かに、でもはっきりと胸に沈む。
灰と鉄と心臓で綴られる、ひとつの戦祈。
そのどこかのページに、自分の名前が小さく載るのだとしたら。
――それはきっと、この一文字目から始まる。
ペンを置くと、心臓がひとつ、軽くなった。




