第二話 心紋の演習(Rehearsal of the Heartmarks)
心種が胸に立ち上がる瞬間を、俺はまだ好きになりきれていない。
鼓動が一拍だけ止まって、次の拍で音が半音沈む。
胸の奥に、世界へ踏み出すための足場みたいなものが置かれる感覚。
それが戦場で人を殺すための前段階だと分かっていても――
塔の下で生きてきたせいか、どこかで少しだけ、あの感覚に救われている自分がいる。
◇
冬の灰鉄塔アストラは、よく晴れた朝の空の下で、細く長い影を落としていた。
陽の当たる雪は白く、塔の影に沈んだ雪は灰色だ。
その境目に、俺たち訓練兵は横一列に並ばされていた。
足元のずっと下から、低いざわめきが伝わってくる。
残響脈の震え。
塔がここに立っている限り、この音は消えない。俺たちは、その下で育ってきた。
「――整列」
ハルド教官の声は、塔の金属音と同じ種類の冷たさを持っている。
俺は小銃を肩に掛け直し、靴底を揃えた。固く踏み固められた雪が、きゅっと鳴った。
「今日は、心種の演習だ」
教官は、吐く息も惜しむように短く告げる。
「心紋を浮かべるところまで。
祈導は禁止。鼓導は一切なし。」
列のどこかで、小さく息を呑む音がした。
心紋――心種が立ち上がった時、身体のどこかに浮かぶ紋。
普段は自分にしか分からないそれが、集中した時だけ、薄い光として滲む。
それを見られるのは、あまり好きじゃない。
ハルド教官は軍靴で雪を蹴り、足元に線を引いた。
「復習だ」
指で円を描く。
「胸ん中には、いろんな“思い”が流れている。腹が立つ、怖い、眠い、寒い……そういうのは全部、ただ巡ってるだけだ」
今度は、その円の下をぐっと押し込んだ。
「沈んで底に残ったやつだけが“想い”になる。
だが、それもまだ外には届かん。胸の底でうずくばってるだけだ」
拳を握りしめる。
「その想いに、自分で重さを許した瞬間――
『重くていい』『武器にして構わない』と決めた時に起きる変化。
それが、**心種現象**だ」
雪原の空気が少し引き締まる。
「心種現象が起きると、鼓動は一拍止まって、もう一拍で戻る。
その時、内側に“核”が生まれる。それを教本じゃ**心種**と呼ぶ」
こん、と教官は自分の胸を叩いた。
「同時に、身体のどこかに**心紋**が立つ。胸か、腕か、喉か、足か……場所も形も、人ごとに決まってる。一生変わらん」
俺は、無意識に胸の真ん中あたりを指先で押さえていた。
俺の心紋が浮かぶ場所は、もう知っている。
「――いいか。ここからが今日の本題だ」
教官の声が、わずかに低くなった。
「心種は“出す”んじゃない。浮かぶんだ。
“出した”つもりでいるやつの大半は、そのまま祈導まで突っ走ってるだけだ」
空へ向けた指先を、銃へと下ろす。
「心種をどこに落とし、どう流すか――
その技術と癖の集合を、俺たちは**祈導**と呼ぶ」
銃口を少し持ち上げてみせる。
「銃に落とせば弾に乗る。足に落とせば走りに乗る。声に落とせば、号令や歌にだって乗る。
祈導の精度が悪けりゃ、どれだけ重い心種でも、ただ眩しくてうるさいだけだ」
銃を肩に戻し、短く言い足した。
「祈導の先で世界に現れる“効果”――炎でも風でも光でも守りでも、全部ひっくるめて**鼓導**だ。
今日やらせたいのは、その手前。
心種を起こし、心紋を浮かべたところで止めろ。外へ流さず抱えていろ。」
塔のざわめきが、一段高くなった気がした。
「前列と後列、向き合え!」
号令に合わせて、俺たちは一斉に振り返る。
俺の正面に来たのは、同じ小隊のバルだった。丸刈りで、いかにも真面目そうな少年だ。
「よ、よろしく……」
「よろしく」
声がわずかに震えている。
心紋を見られるのが怖いのか、心種そのものが怖いのか。どっちもだろう。
「カガリ」
名前を呼ばれ、俺は前に一歩出た。
「お前からだ」
「……はい」
「説明は要るか?」
「大丈夫です」
「じゃあ見せろ。
心種現象の立ち上がり。心紋が浮かぶところまで。祈導に入るな。」
分かっている。
分かっているつもりだ。
俺は目を閉じ、息を一度だけ深く吸い込んだ。
まず、雑音を流す。
寒い。眠い。腹が減った。
ユラの頭に乗っていた雪が落ちた弾みで、シンがくしゃみを飲み込んだこと――
そういう“思い”は、全部水面の泡みたいなものだ。そのまま流す。
沈んでいるものだけを探す。
雪の下に隠れた石を、手探りで探り当てるように。
胸の底に、いつも似た形のものが沈んでいる。
――戦争には、行きたくない。
最初に浮かぶのは、だいたいこれだ。
分かりやすくて、扱いやすい“思い”。
けれど、それはまだ武器にはならない。
(それは、まだ流していい)
俺はそれをそっと横に避ける。
あとで拾いに戻る、と自分だけに分かる約束をして。
その奥にある、もっと細くて、頑固なものを探した。
――せめて、自分の一撃は、自分で選びたい。
そこに触れた瞬間、胸の奥で何かが一つ、くっきりと輪郭を持つ。
“想い”になる。
(これは、重くていい)
自分でそう認めた瞬間――
鼓動が、一拍だけ止まった。
次の拍で、音が半音沈んで戻ってくる。
胸の内側に、世界へ踏み出すための踏み台が置かれたみたいな感覚。
同時に、胸骨の裏側がじんわりと熱を帯びた。
皮膚の下を、細い線がなぞっていく。
見えないはずの紋の輪郭が、一瞬だけ、光景として分かるほどに濃くなる。
それが、俺の心紋だ。
胸の真ん中から、塔の影みたいに縦に伸びる一本の線。
その瞬間、視界の端がかすかに青く滲んだ。
塔と同じ色の光が、瞳の奥で輪になって揺れた気がする。
――目まで、うっかり塔と繋がったらしい。
祈導の構えを取る前に、そこで手を離す。
銃にも、足にも、声にも落とさない。
ただ「ここに在る」と認めて、抱えたままでいる。
「……よし。そこまでだ」
ハルド教官の声に、俺は静かに目を開けた。
冷たい風が頬を打ち、雪片が視界を流れていく。
その中で、バルが固まったまま俺を見ていた。
「な、なんか……今、目、光ってませんでした?」
思わず、俺は瞬きをする。
「気のせいだろ」
「でも……胸も熱くなって……」
バルは自分の胸を押さえた。
その瞬間、俺の耳の奥で、別の鼓動が揺れる。
自分の心音とは少しズレた、けれど同じ高さをなぞる音。
バルの襟元の布の下。
ほんの一瞬だけ、そこにも淡い光の筋が浮かんだように見えた。
(……また、やった)
心の中だけで、小さく舌打ちする。
「バル」
ハルド教官の声が低く落ちた。
「今、自分の心紋が立った感覚はあるか」
「え、えっと……さっき急に、胸が重くなって……。見えたかどうかまでは……」
バルは戸惑ったまま、俺と教官の間を見比べる。
ハルド教官は、俺に視線を向けた。
「カガリ。
お前、自分の心種だけ起こしたか?」
嘘は、たぶん下手だ。
「……多分、少し、溢れました」
ハルドは額を指で押さえ、短くため息をつく。
「やっぱりな。
“紡ぎ手”の癖が、まだ抜けてねぇ」
列のどこかで、くすりと笑い声がした。
他人の心種の“音”を拾い、
自分の心紋に一瞬だけ編み込んでしまう体質。
心種紡ぎ《シード・ウィーバー》。
心種の港。
そんな呼び名を、俺はあまり好きではない。
「カガリ」
「はい」
「今、自分の心種はどこにある」
「胸の、真ん中です」
「じゃあ、バルのは?」
バルがびくりと肩を震わせる。
俺は一瞬だけ目を閉じ、耳の奥に意識を沈めた。
自分の鼓動のすぐ隣で、まだ小さく揺れている音がある。
「……俺のすぐ隣で、まだ少し鳴ってます」
バルは目を丸くし、ハルド教官は苦い顔で笑った。
「そういうところだよ、お前は」
それ以上、説教は飛んでこなかった。
代わりに、教官は周りへと顔を向ける。
「いいか。今のをよく見とけ。
心種現象だけで、自分と他人の心紋を同時に揺らす奴なんざ、そうそういねぇ。
ついでに目まで塔色に光らせる阿呆は、なおさらだ」
「え、やっぱり光ってたんですか」
バルが慌てて声を上げる。
「気にするな。塔の下で育った副作用みたいなもんだ」
ハルド教官はそう言っておきながら、俺の顔をもう一度だけ、じっと見た。
その視線から目を逸らしたくて、俺は空を見上げる。
塔の頂から漏れる青白い光が、雪を貫いて降りてきていた。
「……港」
列の右の方から、小さな声が飛んできた。ユラだ。
「今日も、あんまり溜め込まないでよ。
目まで光ってたら、さすがにバレるからね」
俺は肩をすくめてみせる。返事の代わりだ。
(溜めたくて溜めてるわけじゃない)
そう思いながらも、胸の奥にはやっぱり、
自分のものじゃない重みが、うっすらと残っていた。




