第十九話 門が閉まる音 ― The Sound of a Gate Closing (※塔上接続班/ゲートリンク班)
門は、音で閉まる。
鉄が噛み合う音じゃない。鍵が落ちる音でもない。
もっと内側――鼓動の奥で、拍がひとつ“決まる”音だ。
北の塔が歌い出す前夜、アストラ分塔の接続門は、そんなふうに静かに閉じようとしていた。
◇
塔の喉元――接続門の前は、寒かった。
塔の外の雪の冷たさとは違う。
もっと乾いて、もっと骨に近い冷えだ。
灰鉄の床から、残響脈エコーラインのうなりが薄く伝わってくる。
それが今夜は、いつもより“高い”。
門の向こう側。
北塔――敵国の灰鉄塔が歌う気配がある、とイレナは言った。
「……静かすぎるな」
隣で、ダリルが低くつぶやいた。
軍帽は脱いで、髪を結び直している。
きっちりしたやつほど、こういう時に余計な所作が増える。
「静かなら良いんじゃないですか」
「静かなのはいい。
“静かすぎる”のが嫌だ」
ダリルは門の縁――灰鉄の継ぎ目を指でなぞった。
その動きが、変に丁寧だった。
(この人、門の癖を知ってるんだ)
塔下第三の副隊長代理。
現場を何度も通ってきた手だ。
「カガリ」
イレナがこちらを振り向く。
琥珀の瞳は、いつも通り淡いのに、今夜は少しだけ硬い。
「ゲートリンク班の役目は覚えてる?」
「外の鼓動と、中の鼓動を繋ぐ」
「そう。
ただし、繋ぐのは“橋”じゃない。“縁”よ」
イレナは門の中心――灰色の渦に近い空間を見た。
「橋を架けたら、向こうが渡ってくる。
縁を合わせるだけなら、まだこちらに主導権がある」
主導権。
その言葉が、戦記より物騒に聞こえる。
「……で、今夜は?」
ダリルが短く聞く。
「門を閉じる」
イレナは淡々と言った。
「北塔の歌がこちらの塔に届く前に、縁を揃えて閉める。
“応える準備”はするけど、応えはしない」
「喧嘩売ってるみたいですね」
「喧嘩を避けてるの。
今夜、こちらが応えたら――」
イレナの声が、ほんの少しだけ落ちる。
「街がひとつ、焼ける可能性がある」
冗談に聞こえない。
塔の上では、こういう言葉が普通に落ちてくる。
「……了解」
ダリルがうなずいた。
俺も頷くしかない。
「じゃ、手順」
イレナが指を立てる。
「ダリルは門縁の“揃え”を取る。
カガリは――拾わないで守る」
俺の胸が、軽く跳ねた。
「拾わないで……守る?」
「第十八話の続きね」
イレナは、当然みたいに言う。
「港の心臓は、漏れた拍を拾う。
拾った拍を束ねれば守れる。……でも今夜は逆」
琥珀の瞳が、俺の胸元に一瞬だけ落ちる。
「漏れた拍を拾わずに、“壁”だけ作る」
「……できるんですか、そんなの」
「できなきゃ困る」
イレナの言い方は優しいのに、内容が冷たい。
「港は、溜め込むのが癖。
癖は、戦場で死ぬ」
ダリルが横で小さく息を吐いた。
笑ってない。たぶん、同意してる。
「始めるわよ」
イレナが手を上げる。
「門、閉門準備。
接続班、拍の同期を――」
その瞬間だった。
門の縁が、ひとつ――“鳴った”。
金属の音じゃない。
鼓動の音に似た、低い衝撃。
「……来た」
ダリルが目を細める。
空気が薄く揺れる。
雪の匂いが一拍だけ混じる。
塔の外の世界の匂いじゃない。
もっと遠い、もっと硬い雪だ。
(北……)
北塔の歌が、まだ声にもならないうちに届いている。
それを、門が“先に”受けた。
「カガリ、拾うな」
ダリルが言う。
短いのに、強い。
「分かってる」
分かってる、けど――
漏れる拍がある。
門が鳴った瞬間、周囲の人間の鼓動が一斉に小さく乱れた。
緊張、恐怖、期待、義務。
それらが“漏れた拍”になって空間に漂う。
俺の心紋は港だ。
港は、漂うものを呼ぶ。
来るな。
そう思うのに、勝手に寄ってくる。
「祈導、《守》」
声に出した瞬間、胸の縦線が熱を帯びる。
今までの《守》は、拾って束ねる守りだった。
今夜は違う。
拾わずに守る。
つまり――
“受け皿”を作るな。
“壁”だけを作れ。
(どうやって)
考えるより先に、身体が答えを探す。
拾うのをやめるなら、まず“港”を閉めるしかない。
港の入口を絞って、外から入ってくる拍の流れを遮る。
呼吸をひとつ深くする。
心臓の奥の“余白”を、ぎゅっと畳む感覚。
怖い。
港を閉じるのは、自分が自分を見捨てるみたいで怖い。
でも――
「今夜は、壁だけ」
ダリルの声が、もう一度落ちる。
俺は歯を噛む。
拾うな。
拾わない。
拾わない代わりに――
「……祈導、《守》――《縁壁》」
勝手に言葉が出た。
名前なんて、どうでもいい。
胸の熱が、外側へ薄く広がる。
壁というより、膜だ。
門と俺のあいだ。
空間の縁だけをなぞる、薄い膜。
漏れた拍が寄ってくる。
寄ってきて、膜に当たって――滑る。
拾わない。
吸わない。
ただ、弾く。
喉の奥が痛い。
自分に似てる何かを拒む感じがする。
「……いい」
ダリルが短く言った。
彼は門縁の継ぎ目に手を当て、祈導を微細に流している。
火でも風でもない。
“揃えるための無色”だ。
門の縁が、少しずつ静かになる。
北の匂いが、薄く引く。
(閉まる……)
その時だった。
門の縁の一箇所だけ、変な光が走った。
綺麗すぎる線。
祈導の乱れじゃない。
施工の継ぎ目でもない。
まるで――後から引いた“道”みたいな筋。
「ダリル、そこ」
俺が指を向けると、ダリルの目が鋭くなる。
「……最初からあった線じゃない」
「誰かが触った?」
「触ったっていうか――」
ダリルは唇を薄く結ぶ。
「門の“癖”を知ってる手だ」
その言い方が、嫌だった。
内部にいる。
そう言われているみたいで。
次の瞬間、床の隅で、かすかな金属音がした。
転がる護環アシュバインド。
ひとつだけ、落ちてる。
「なんで……」
支給品は全員分、回収管理しているはずだ。
落ちるなら、落とした本人が気づく。
なのに、その護環だけは“置かれて”いた。
俺は近づき、拾い上げる。
冷たい重み――いや、重すぎる。
(過充填……?)
灰脈素アシュフローが、器に詰め込まれすぎている。
こんなの、触っただけで漏れる。
「イレナ!」
ダリルが呼ぶのと同時に、護環が小さく鳴った。
拍が、漏れる。
漏れた拍が、門へ向かう。
俺の膜が弾く前に――門の筋が、その拍を“受けた”。
通路ができる。
一拍だけ、向こう側と縁が合う。
「……っ!」
背中が冷える。
今のは、閉門じゃない。
“繋ぎ”だ。
「誰かが……拍を流してる」
俺の声が、自分の耳に遠い。
ダリルが護環を奪い取るみたいに受け、床に叩きつけた。
軍靴で踏み砕く勢いで押さえ込む。
「止めろ。港、拾うな」
「拾ってない!」
叫ぶみたいに返す。
でも叫ぶことで、俺の拍が乱れる。
乱れた拍が漏れる。
門がそれを嗅ぐ。
最悪だ。
「落ち着け、カガリ」
ダリルが低く言う。
声は怒ってない。
怒ってるのは、状況だ。
「ここで門が一拍でも応えたら、外が燃える」
そう言われて、身体が冷える。
燃える。
街が。
人が。
ユラの顔が浮かぶ。
シンの喉が浮かぶ。
塔下の雪道が浮かぶ。
(拾うな)
拾わない。
拾わないために――
俺は膜を、もう一段薄くする。
薄くして、広げる。
港の入口を閉じたまま、縁だけを覆う。
漏れた拍は滑り、門へ届かない。
届かないはず――
その時、塔の奥から紙の擦れる音がした。
イレナが、封蝋のついた細い筒を受け取っている。
誰が持ってきたのか、見えない。
気づいたら、そこにある。
(……また“置かれた”)
イレナは封蝋を割り、中を読む。
琥珀の瞳が、ほんの少しだけ陰る。
そして、淡々と告げた。
「……記録が動いた」
その言い方は、上官の命令より気持ち悪かった。
「記録?」
俺が聞くと、ダリルが小声で言う。
「教団の中の……上の方の呼び名だ。
“誰が書くか”を決めるやつら」
イレナは紙を畳み、言葉を続ける。
「裁定が“門を閉じろ”と言ってる」
空気が一段、冷える。
「予見が――」
イレナが一拍、間を置く。
「今夜は、港は触れるな。拾うな。
……そう言ってる」
心臓が、変なふうに跳ねた。
(知ってる?)
俺の癖を。
今起きてる細工を。
それとも、もっと別の何かを。
「……三賢人ってやつですか」
ダリルが、口の端でそう言った。
イレナは否定もしない。肯定もしない。
ただ、冷たく言う。
「呼び方はどうでもいい。
今、門を閉じる。それだけ」
俺は喉が乾く。
上が動いたなら、スパイは――
上と繋がっている可能性がある。
(誰が)
この場にいる人間の顔を見ても、分からない。
分かるのは、“置かれる”ことだけだ。
護環が置かれた。
命令が置かれた。
拍が流された。
人物じゃない。
行動の痕跡だけが、淡々と残る。
「……来る」
ダリルが言う。
北塔の歌が、今度は匂いじゃない。
音になって届く。
低い歌。
遠いのに、胸の奥だけを振らす歌。
門が、応えたがる。
塔が、応えたがる。
俺の心臓が――塔に似ている部分が、応えたがる。
(やめろ)
拾うな。
拾わない。
守れ。
拾わずに守れ。
俺は息を吸う。
胸の縦線が燃える。
膜を、もっと“縁”にする。
壁じゃない。
ただの境界にする。
境界は、受け皿にならない。
受け皿は、橋になる。
橋を架けるな。
「祈導、《守》――《縁壁》、再適用」
自分の声が、少し震えている。
でも震えてもいい。
拾わないで、境界を作れ。
北塔の歌が、門へ触れる。
触れて、滑る。
滑って、落ちる。
門が、閉まっていく。
――そのはずだった。
さっきの“綺麗すぎる筋”が、また光った。
今度は、外からじゃない。
内側から。
塔の中のどこかが、門へ拍を流している。
「……っくそ」
ダリルが歯を鳴らす。
「カガリ、見えるか」
「見える」
筋が、道になっている。
道が、拍を運んでいる。
拾ってないのに。
俺が拾ってないのに、門に拍が届く。
(港のせいじゃない)
そう思った瞬間、逆に怖くなる。
港じゃなくても、拍は流される。
なら、俺の役目は――
「止める」
ダリルが言った。
「俺が筋を切る。
カガリは、門を閉めろ」
「筋、切れるんですか」
「切る。切れるようにやる」
ダリルの祈導が変わる。
乾いた炎みたいなリズムが、灰鉄の継ぎ目に刺さる。
火じゃない。
切断の拍だ。
“揃える”じゃなく、“断つ”方向。
筋が一瞬、暴れる。
門の縁が鳴る。
北塔の歌が、笑うみたいに揺れる。
(まずい)
門が応える前に、閉める。
俺は膜を、さらに薄くする。
薄くして、強くする。
矛盾みたいな感覚。
拾わずに守る。
守りながら、閉める。
港の入口を閉じたまま、境界だけを固める。
胸が痛い。
自分の拍だけが、やけに大きい。
そこへ――
誰かの拍が一つ、混じった。
俺のでも、ダリルでも、イレナでもない。
もっと整いすぎた拍。
薄い。
冷たい。
“書く”みたいな拍。
(記録……?)
その拍は、門の筋に沿って滑り、
北塔の歌と一拍だけ合った。
門が、応える。
――一拍だけ。
「……っ!」
イレナが顔色を変えた。
「閉めろ!」
「閉めてる!」
俺の叫びが、門にぶつかる。
ぶつかって、震える。
北塔の歌が、こちらに“届いた”だけで終わるならまだいい。
応えたら、終わる。
街が燃える。
塔下が燃える。
ユラが。
シンが。
その瞬間、俺は理解した。
俺が拾わないようにしている“漏れた拍”だけじゃない。
俺の中にも、漏れる拍がある。
恐怖。
怒り。
守りたいという欲。
それが漏れたら、門は拾う。
門は橋にする。
(じゃあ――漏れさせない)
港を閉めるんじゃない。
“漏れ”を止める。
拾わないだけじゃ足りない。
出すな。
俺は呼吸を止める。
心臓を止めることはできない。
でも、拍の“余計な揺れ”は止められる。
胸の縦線が、痛いくらいに熱くなる。
痛みで、拍が揃う。
俺は、祈導の言葉を捨てて、ただ決めた。
閉める。
門の縁を、俺の縦線と同じ拍に揃える。
塔の鼓動と、自分の鼓動の境目が曖昧になる――
ハルド教官の言葉が脳裏をよぎる。
「どっちがどっちか分からなくなったら、足もと見ろ」
足もと。
灰鉄の床。
俺が立っている場所。
俺は足裏に意識を落とし、
自分が“ここ”にいることだけを確かめる。
塔じゃない。
俺だ。
俺が閉める。
縁が、静かになる。
北塔の歌が、滑って落ちる。
門が、応え損ねる。
ダリルの切断が、筋を断ち切る。
綺麗すぎた線が、ぱちん、と消えた。
そして――
門が、音で閉まった。
ひとつ、低い拍。
それだけ。
◇
しばらく、誰も喋れなかった。
門の前の空気が、やけに軽い。
軽いのに、胸が重い。
イレナが息を吐き、護環の残骸を見下ろす。
「……誰かが拍を流した」
断定だった。
「内部にいる」
ダリルが言う。
悔しさじゃない。
事実を数える声。
「この門の癖を知ってるやつが」
俺は喉が乾いたまま、言った。
「さっき……変な拍が混じりました。
冷たくて……整いすぎてて……」
イレナの琥珀の瞳が、一瞬だけ細くなる。
「“書く”拍ね」
その言葉が、背中を冷やす。
「記録の拍……?」
「可能性はある」
イレナは、あまりに普通の声で答える。
「だから、今夜の命令が来た。
予見が言った。“港は拾うな”と」
俺は笑いそうになった。
笑えないのに。
「拾ってないのに、流されました」
「だから厄介なの」
イレナは淡々と続ける。
「港が拾うからじゃない。
港が“境界になるから”狙われる」
境界。
橋じゃなく、縁。
俺が今夜やったこと。
それを、誰かは利用できる。
「……セラは」
ふいに、口から出た。
残響教団の神官。
四人の英雄のひとりになるはずの名前。
「まだ出ない」
イレナは即答した。
「セラは、今は“遠い塔”にいる」
その言い方が、嫌だった。
遠い塔。
北塔じゃない、別の塔。
塔は一つじゃない。
この戦祈の輪郭が、また一段大きくなる。
「三賢人……」
ダリルが小さく言う。
「記録と裁定と予見。
あいつらが動く時って、だいたい――」
「世界が“揃えられる”前よ」
イレナが言葉を継いだ。
揃えられる。
拍が。
人間が。
胸の奥で、嫌な予感が沈む。
そして、俺は気づいた。
さっき混じった“書く拍”が、まだ微かに残っている。
拾ってない。
拾ってないのに、残っている。
俺の心紋が、一拍だけ――
俺の形じゃない縦線の揺れ方をした。
(……来た)
誰かが触れた。
俺の港に、境界に。
ダリルが俺の顔を見る。
「カガリ」
「……大丈夫です」
大丈夫じゃない。
でも、今はそう言うしかない。
「次からは、もっと露骨になる」
ダリルは静かに言った。
「相手は、試した。
門が一拍応えるか。港が拾うか。
……答えは出た」
俺は護環の残骸を見下ろす。
踏み砕かれた金属。
でも拍は、踏んでも消えない。
イレナが封筒の残り紙を握り潰し、淡々と告げた。
「ゲートリンク班。次の仕事よ」
琥珀の瞳が、俺とダリルを順に見る。
「次は――“誰が流してるか”を、門の音だけで見つける」
それは、戦いじゃない。
でも、戦いより嫌な仕事だ。
港を出る船は、もう戻れない。
なら、せめて。
どこまで流されて、
どこで撃ち返すか――
その“どこ”を、俺は今夜、初めて見た気がした。
門が閉まった後の静けさは、
祈りよりも、ずっと不気味だった。




