第一話 塔が人間だった頃の話 ― Episode 1: When the Tower Was Still Human ―
人の心は、どこにあるのか。
そんなことを、俺はときどき考える。
教本には「心臓ではない」と書いてあった。
心臓はただ、血を送り出すポンプ――鼓動を生むエンジンだ、と。
じゃあ、心はどこに宿るのか。
授業で一番えらそうな教官は、胸を軽く叩いてみせて言った。
「体全体だ。
骨には、生きる意味が沈み込み、
血には、生きた理由が混ざる。
そしてそれらが、いつか灰と鉄になる。」
そのときは「また大げさな」と思ったが、
今は、その言葉を噛み締めざるを得ない。
俺の頭の上で、その“灰”と“鉄”が、今日も軋んでいるからだ。
ゆっくりと顔を上げる。
視界を覆い尽くす、灰色の巨塔がそこにあった。
雲を突き刺し、雪をはじき返しながら立ち続ける、街の中心。
ひび割れた灰鉄の外壁には、何百年分の祈りと罵声と、
数えきれない鼓動の名残が染み付いている。
俺たちの街の象徴――灰鉄塔アストラ。
その塔が、もとは人間だったなんて、
初めて聞いたとき、俺は笑ってしまった。
「はは。塔が人間って、それ、どこの酔っぱらいの昔話だよ」
酒場で酔っ払いが言うならまだしも、
そう言ったのは、街で一番古い教会の神官だった。
「笑っていい。信じなくてもいい。
でも、お前は一度、その“中身”に触れているはずだよ、カガリ。」
あの日の返事を、俺はまだ返せていない。
……というか、返したくなかった。
塔の“中身”――。
その言葉を聞いただけで、
胸の奥でなにかがひゅっと縮こまる感覚が蘇る。
八つのとき、塔に触れた。
あれはまだ、戦争がここまで酷くなる前の年だ。
好奇心からじゃない。
塔守の兵士に腕を引かれたのだ。
「怖くないよ。ほら、手をあててみろ。
ここは、お前を守ってくれた人たちの“墓”なんだ。」
冷たい、と思った。
冬の石より、もっと深いところまで冷えている感じがした。
そのくせ、次の瞬間には――
ドン、と。
塔の奥のどこかで、巨大な何かが一度だけ脈打った。
押し寄せる血潮みたいな音が耳の内側を埋め尽くし、
視界が真っ白になった。
知らない誰かの、最後の一撃。
知らない誰かの、ちぎれそうなほど強く握りしめた銃。
知らない誰かの、「まだ死にたくない」という本気の叫び。
それら全部が、まとめて俺の胸に叩きつけられた。
気がついたときには、俺は雪の上に倒れていて、
塔守の兵士が、血の泡を吐きながら俺を庇うように横たわっていた。
彼の胸には、エコー暴走で砕けた石柱の欠片が深く刺さっていた。
「……よかった。
お前だけは、間に合ったな。」
そう言って、彼は笑った。
そして、そのまま二度と起き上がらなかった。
兵士の遺体は、その日のうちに灰にされ、
塔の上部に運ばれていったと聞く。
それ以来だ。
俺は、塔が嫌いになった。
塔が怖くなった。
塔は俺を守ってくれた。
でも同時に、俺から“何か”を奪った。
俺はそれをうまく言葉にできないまま、
十年近く、塔を見上げるたびに首の奥が重くなる日々を過ごした。
そんな俺が、よりによって、
今は塔を守る側の兵士をやっている。
「――また、塔見上げてる。」
背中から声が飛んできた。
振り向くと、雪の上にしゃがみこんだユラが、
ぬれた手袋をぱんぱん叩きながら、こちらを見上げていた。
目元までマフラーを巻いていても分かる。
笑ってる。
「癖になってるよ、それ。塔見て黙るやつ。」
「別に。立ってるもんがでかいと、ぼーっとしたくなるだけだ。」
「ふーん? こっちから見ると、“塔に睨まれて固まってる人”にしか見えないけど。」
ユラの後ろで、シンが荷箱を蹴りながら笑った。
「お前なぁ、塔下ってあだ名、本人の前で言うのやめろっての。」
「言ってないでしょ。まだ心の中。」
「いや、口から出てんだよ、それが。」
第十三小隊。
灰鉄塔アストラの麓を担当する、塔下防衛小隊の朝は、だいたいこんな調子だ。
雪かき。塔下の見回り。
塔の影から吹き込む風は骨に刺さるほど冷たいのに、
ユラとシンの口だけは、どれだけでもよく回る。
「でもさ、ほんと不思議だよね。」
ユラが、ふいに真面目な声になった。
「同じ塔の下で育って、同じ雪道走って、
同じ訓練受けてきたのに――」
「またその話?」
シンが肩をすくめる。
「出たよ、“なんで塔はカガリだけ選んだのか問題”。」
「だって気になるでしょ。
あの日の訓練のあと、塔の近くでふらっと倒れたの、カガリだけだよ?」
「言い方。」
俺は深くため息をつき、マフラーを鼻の上まで引き上げた。
「選ばれてない。
勝手に近寄って、勝手に具合悪くなってるだけだ。」
「そうかなぁ。」
ユラは立ち上がり、塔を見上げた。
その瞳には、幼いころから変わらない好奇心と、
少しだけ混じった恐怖が揺れている。
「塔がもし、本当に昔は人間だったのならさ。
誰か一人くらい、自分のことを覚えててほしいって思うんじゃない?」
「……気持ち悪いこと言うな。」
でも、否定しきれない自分がいる。
塔のそばに立つと、胸がざわつく。
鼓動がひとつ、ふたつ、数えやすくなる。
そのリズムに、時々、**“別の何か”**が一拍だけ割り込んでくる。
それが、誰のものなのか。
俺はまだ、聞き分けられない。
けれど――。
「おーい、第十三小隊! 集合!」
塔下の詰め所から、太い声が飛んだ。
デイル小隊長だ。
「臨時の通達だ! いいニュースじゃねぇ顔しとけよ!」
「うわ、絶対ろくな話じゃないね。」
ユラが、小さく肩をすくめた。
シンは「賭けるか? 前線か補給地変更か」とか言いながら荷物を抱え直す。
俺たちは、雪を蹴って詰め所に向かった。
灰鉄塔の影は、さっきより少しだけ長く伸びている。
塔の上の方から、かすかな軋む音が聞こえた気がした。
気のせいだ、と思う。
そう思おうとする。
それでも、胸の奥でエンジンが一拍だけ跳ねた。
――生きている。
“墓標代わりの塔”のくせに、まだどこかが脈打っている。
俺だけが、その鼓動を聞いてしまったような気がして、
首の後ろが、ひやりと冷たくなった。
灰鉄戦役の末期。
塔の下で、俺たちの“順番”が、ようやく回ってこようとしていた。




