第十八話 漏れた拍を、拾わずに守れ ― Guard Without Taking
夜の塔は、眠っていない。
眠らないのは人間の都合だと思っていた。
けれど塔は、都合じゃなく――仕組みとして起きている。
吸って、回して、沈めて、積み上げる。
終わり損ねた拍を、灰鉄の中へ。
その仕組みのどこかに、薄い膜がある。
そこから、漏れる。
漏れたものは、拾われる。
そして“港”は――拾ってしまう。
(拾うな)
俺は胸の奥に、蓋を置く。
◇
警鐘は、音じゃなく“欠け”で来た。
残響脈のうなりが一拍、すっと抜ける。
それが合図だった。
次の瞬間、塔内の灯りが一斉にわずか揺れた。
揺れたというより、光が一拍だけ遅れた。
廊下の先で、兵の足音が増える。
「観測廊へ!」
誰かが叫ぶ。
俺は靴を履くより先に、胸元の護環を握った。
冷たい金属。
それが今は、やけに頼りない。
観測廊へ走る。
走りながら、地面の下の残響脈が、いつもと違う鳴り方をしているのが分かった。
うなりじゃない。
呻きだ。
痛みの声。
◇
観測廊の窓際には、もう人が集まっていた。
塔守の兵。
教団の護り手。
候補者たち。
そして、琥珀の瞳の女。
「……来たわね」
彼女は窓の外壁を見たまま言う。
薄い膜の場所。
あの、継ぎ目。
そこが――黒く光っていた。
煤の中で光るみたいな、嫌な光。
灰鉄の灯りじゃない。
祈りの光でもない。
“残り滓”が、光っている。
次の瞬間。
窓の外、外壁の一部が、ふっと歪んだ。
割れたわけじゃない。
裂けたわけでもない。
――滲んだ。
膜の向こう側の何かが、こちらへ滲み出した。
空気が、冷える。
いや、冷えるんじゃない。
温度が“抜ける”。
生き物の熱が一拍だけ消える。
「……うそ」
誰かが声を漏らした。
滲み出したのは、人の形じゃない。
霧でもない。
煙でもない。
拍の影。
黒い波紋みたいなものが、壁からにじみ、空間に落ちてきた。
落ちた瞬間、観測廊の空気が一段重くなる。
息が吸いにくい。
胸が、勝手に耳を開く。
(拾うな)
分かってる。
分かってるのに――
“音”が来る。
言葉みたいな音が、耳じゃなく胸へ。
――返せ。
――返せ。
――返せ。
拍の影が、こちらへ向かってくるわけじゃない。
ただ、そこに在るだけで、周りの拍を引っ張る。
引っ張られた拍が、薄くなる。
候補者の一人が、ふらりと膝をついた。
「っ……!」
誰かが支える。
でも支えたその人間も、肩で息をし始める。
“持っていかれる”。
ここにいるだけで、拍が削られる。
「全員、後退!」
ハルド教官の声が飛ぶ。
「観測廊を空けろ! 壁際から離れろ!」
人が下がる。
足音が混ざる。
混ざった拍が乱れる。
乱れた拍は、吸いやすい。
(くそ……)
悪循環。
そして――
黒い波紋が、床へ触れた。
触れた場所の雪――いや、ここは室内だ。
でも床の粉塵が、ふわりと舞う。
舞った粉塵が、空中で一瞬だけ“止まる”。
拍が止まったんじゃない。
世界の微細な揺れが止まる。
そこだけ、時間が薄い。
(……これが、終わり損ねた拍)
終わり損ねた拍は、周りの終わりを奪う。
自分が終われないから、周りから終わりを借りる。
それが、残響。
「カガリ」
琥珀の瞳の女が、俺を呼ぶ。
振り向くと、彼女は言った。
「あなた、できる?」
「何を」
「拾わずに、止める」
心臓が、嫌な鳴り方をした。
拾わずに止める。
港がそれをやったら――
港じゃなくなるか、港が壊れる。
「無茶だ」
俺が言うと、ハルド教官が低く言った。
「無茶でもやれ。ここで漏れが広がったら、塔の“内側”が崩れる」
「内側が崩れたら?」
「塔下が死ぬ」
その一言で、胸が決まった。
守る。
拾わないで守る。
俺の嘘が、錨になる。
(この戦役を、ちゃんと見ていたい)
見たいなら、ここで終わらせるな。
◇
俺は一歩、前へ出た。
「やめろ!」
誰かが叫ぶ。
ユラじゃない。シンでもない。
この場の誰かの、本能。
でも俺は止まらない。
黒い波紋の前で、立ち止まる。
息を吸う。
胸の底へ沈む。
寒い。
怖い。
逃げたい。
それらは全部泡だ。流す。
沈んでいるものだけを掴む。
――塔下を守る。
――港の蓋を閉める。
――拾わずに守る。
それを“重くていい”と許した瞬間、
鼓動が一拍止まり、次の拍で半音沈む。
胸の心紋が熱く立ち上がった。
縦の一本線。
塔の影みたいな線。
「祈導、《守》」
声に出した途端、黒い波紋が、ぐっと俺へ寄った。
(来るな)
来るものを拒めない。
港は拒めない。
だから、まとめ方だけ選ぶ。
俺は心種を“外側”へ流す。
壁を作る。
でも、壁の材料を拾わない。
自分の拍だけで――
無理だ。
足りない。
ここで、港がいつもやるのは簡単だ。
周りの拍を借りる。束ねる。壁にする。
でも、それは“拾う”。
拾った瞬間、残響が港に乗る。
港が汚れる。
(じゃあ……どうする)
考えるより先に、喉の奥で音がした。
――追唱。
懐かしい高さ。
遠いのに、確かに揃ってくる拍。
耳じゃない。胸の内側が、少しだけ整う。
(シン……?)
こんな距離で届くはずがない。
でも、届いている。
塔が媒介してる。
塔の中は音が通る。
さらにもう一つ、足音みたいな拍が混ざる。
踏みとどまる熱。
(ユラ……来てないのに)
来てない。
でも、来てる。
港は、距離を無視する。
危険だ。
でも――今は“拾う”んじゃない。
これは、俺が盗んだ拍じゃない。
向こうが、“預けた”拍だ。
五話の、あの手の重なり。
三人分の鼓動を、ちょっとだけ預けると言った。
今、その“預け”が戻ってきた。
(――借りるんじゃない)
(預かってたものが、戻ってるだけだ)
それなら拾ってない。
俺は盗んでない。
港の形を保ったまま、蓋を閉めたまま、壁にできる。
俺はその拍を“混ぜない”。
材料にしない。
ただ、自分の拍の“形”を崩さないために使う。
芯にする。
「……っ、祈導、《守》――《共鳴盾》!」
叫んだ瞬間、胸の熱が外へ拡がった。
黒い波紋の前に、見えない壁が立つ。
壁は光らない。
眩しくない。
ただ、そこだけ空気が“重い”。
黒い波紋が壁へ触れた。
触れた瞬間、俺の胸に“返せ”が刺さる。
返せ。返せ。返せ。
俺は歯を食いしばる。
「返さない」
声に出して言った。
言った瞬間、波紋が揺れる。
波紋が揺れた隙に、琥珀の瞳の女が手を上げた。
「封止班! 祈導、《縫》!」
教団の護り手たちが一斉に祈導へ入る。
空気に細い線が走る。
糸みたいな祈りの線が、波紋の周囲へ絡みつく。
俺の壁が、波紋をその場に留める。
教団の線が、それを壁側へ押し戻す。
押し戻すというより――
“終わり”の方へ滑らせる。
終われなかった拍を、終わらせる方向へ。
黒い波紋が、少しずつ薄くなっていく。
最後に一度、強く揺れた。
――返せ!
胸が裂けるほど痛い。
でも、俺は蓋を閉めたまま、壁を保つ。
預けられた拍は、芯として支えるだけ。
混ぜない。盗まない。
そして。
波紋が、消えた。
消えた瞬間、観測廊の空気が一気に軽くなる。
息が吸える。
誰かが膝から崩れ落ちた。
俺も、足元が揺れた。
視界が白くなる。
倒れる。
(……沈む)
その瞬間――
ハルド教官が俺の襟を掴んで引き上げた。
「沈むな、港」
冷たい声。
でも、力は確かだった。
「……すみません」
「謝るな。報告しろ」
俺は息を整える。
「拾ってません」
教官の眉が動いた。
「根拠は?」
俺は胸元を押さえ、言う。
「盗んだんじゃない。……預けられてた拍が戻っただけです」
琥珀の瞳の女が、ふっと笑った。
「……面白い言い方ね」
「俺の言い方じゃない」
俺は小さく言う。
「仲間の言い方です」
◇
深夜。
宿舎に戻っても眠れない。
胸が熱い。
でも、それはいつもの港の熱とは違う。
汚れてない。
拾ってない。
守れた。
机に伏せた紙――推薦枠の控えに、
俺は小さく指で触れた。
「……本音のフリした嘘、か」
俺の嘘は、錨になった。
今日だけは。
その時、扉が軽くノックされた。
返事をする前に、扉が少しだけ開く。
琥珀の瞳の女が、顔を覗かせた。
「寝てる?」
「寝てません」
「でしょうね」
彼女は部屋に入らず、廊下側で言う。
「今日、漏れが出た。
でも“裂け”じゃない。まだ“滲み”の段階」
「……次は?」
「次は、もっと大きい。
滲みが裂ける前に、原因を探す」
原因。
俺の胸が嫌な鳴り方をする。
「原因は、俺ですか」
彼女は首を横に振った。
「あなたは引き金じゃない。
でも、鍵ではある」
鍵。
「塔の向こう側は、あなたに反応する。
今日もそうだった」
「……“返せ”って言ってました」
彼女の目が一瞬だけ細くなる。
「聞こえたのね」
「聞こえた」
「じゃあ、覚えておいて。次に聞こえる言葉は、たぶん違う」
「何が来る」
彼女は少しだけ間を置いて言った。
「**『開け』**よ」
背中に、冷たいものが走った。
開け。
港の蓋を。
拾え。
混ぜろ。
沈め。
俺は息を吸う。
そして、嘘を握る。
「開けません」
彼女はうなずく。
「その返事ができるうちは、まだ大丈夫」
扉が閉まる。
廊下の足音が遠ざかる。
その遠さの中に、また別の声が混ざった気がした。
地図の高さの声。
上に立つ声。
――港を、手に入れろ。
そんな言葉が、残響脈の欠けの隙間から滲んでくる。
俺は胸元を押さえた。
塔の近くで、戦争が“形”を変え始めている。
奪い合うのは土地じゃない。
拍の行方。
そして、その行方の中心に――
港がいる。




