第十七話 塔の近くで、拍が欠ける ― Where Beats Go Missin
塔に近づくほど、雪は白くなくなる。
煤みたいな灰が混じって、踏むたびに細かい粉が舞う。
空気の匂いも、冷たさじゃなくて――古い鉄の錆に寄っていく。
灰鉄塔アストラ。
街を守る柱で、墓標で、生活の屋根で、戦争の中心。
俺が嫌いで、怖くて、ずっと見上げてきたもの。
その“足元”に向かって、俺は歩いていた。
◇
「前線観測隊、集合」
朝の薄い光の中で、ハルド教官の声はいつもより短かった。
余計なものが全部削られた声。
推薦枠の紙を出したやつらが、十数名。
顔ぶれはバラバラで、共通点は一つだけ。
塔の近くに立たされても、倒れない身体。
俺の横で、ユラは腕を組み、口を真一文字に結んでいる。
来ないと言っていたのに、見送りに来た。
来ないと言いながら、来る。
そういうやつだ。
「……絶対、戻ってこいよ」
小さく言って、視線を逸らす。
照れではなく、怒りの逃がし方。
「戻る」
俺が言うと、ユラはそれ以上何も言わなかった。
代わりに、俺の胸元――護環の位置を指で軽く叩いた。
「それ、守れ。港の蓋。ちゃんと閉めとけ」
「閉めとく」
シンは少し離れた位置で、喉に手を当てていた。
歌うための準備じゃない。
“揃える”ための姿勢。
「カガリ」
シンが呼ぶ。
「拍、ずれたら言って。俺、後ろからでも追唱で寄せられる」
「無茶言うな」
「無茶じゃない。……港が沈む方が嫌」
言葉が、胸に刺さった。
沈むな。
俺は“嘘”を持ち歩く。
本音じゃなく、形を。
(この戦役を、ちゃんと見ていたい)
その嘘を、胸の真ん中に置く。
◇
塔の第三層へ向かう昇降路は、街の道じゃなかった。
戦場へ続く、生活の裏道だ。
壁は灰鉄で、床は古い骨材の石。
ところどころ、祈りの刻印が薄く剥がれている。
「お前ら、耳を開けとけ」
ハルド教官が先頭で言う。
「塔の近くは“情報”が音で来る。目で見るな。胸で聞け」
胸で聞く。
港にしろって話だ。
歩いているうちに、地面の下の残響脈が、少しずつ大きくなる。
低い唸りが、骨に触る。
同じ音なのに、いつもの塔下と違う。
ここは、“塔の中”だ。
そして――
欠けている。
拍が。
(……何だ、これ)
残響脈のうなりの中に、周期的に穴が空く。
音が一拍、消える。
止まるんじゃない。
“持っていかれる”。
「……教官」
俺が口を開くより先に、誰かが息を呑んだ。
「今、聞こえたか?」
ハルド教官は振り向かない。
答えを知っている声。
「聞こえました」
別の候補者が震えながら言う。
「うなりが……一瞬、空になった」
「それが塔の近くの現実だ」
教官が言う。
「残響脈は、拍を吐いてるんじゃない。
拍を“吸って”塔に回してる」
吸う。
胸の港が嫌な方向に理解してしまう。
港は物を受け入れる場所だ。
でも、受け入れるだけじゃない。
出ていく船もある。
出ていく拍もある。
(――持っていかれる)
それが、塔の仕組みだとしたら。
「止まるな。進む」
ハルド教官が言う。
「立ち止まった奴から、持っていかれる」
候補者たちの足が、少しだけ速くなる。
怖いとき、人は速くなる。
でも速くなるほど、拍は乱れる。
乱れた拍は、吸いやすい。
悪い構造だ。
(……誰がこんな仕組み作った)
塔が守りの柱だって言いながら、
実際は、人の拍を吸って回っている。
墓標じゃなくて――機械だ。
◇
第三層の観測廊。
窓の外に、塔の外壁が近い。
近すぎて、空が狭く見える。
そこに配置されていたのは、教団の護り手と、塔守の兵。
顔は疲れていて、目だけが冴えていた。
琥珀の瞳の女が、こちらを待っていた。
「来たのね、カガリ」
呼び捨てが、妙に馴れ馴れしい。
でも、距離は近づかない。
「条件、守れてる?」
「……今のところ」
「嘘は?」
俺は息を吸う。
「持ってる」
それだけで、彼女は満足そうにうなずいた。
「いい。じゃあ見せるわ」
彼女は窓際へ歩き、外壁の一点を指した。
灰鉄の継ぎ目。
祈りの刻印が剥がれた、その下。
「――あそこ。見える?」
最初は分からなかった。
でも、目じゃなく胸で見ると、分かる。
欠けてる。
灰鉄の“音”が。
金属の連続するざわめきの中に、
そこだけ、穴がある。
まるで、壁の向こうが空洞みたいに。
「……空いてる?」
俺が言うと、彼女は首を横に振った。
「空いてるんじゃない。薄いの」
「薄い?」
「膜が薄い。終わり損ねた拍が、そこに溜まってる」
終わり損ねた拍。
俺の胸が、反射で熱くなる。
港は、それを拾ってしまう。
(拾うな)
条件が頭を殴る。
拾うな。拾うな。拾うな。
でも、胸が勝手に耳を開く。
薄い膜の向こうから、微かな“別の音”が来る。
残響脈のうなりとは違う。
塔のざわめきとも違う。
もっと、古くて、濁ってて、歪んでる。
――拍じゃない。
拍の“影”だ。
「……これ、何だ」
俺が言う。
「あなたたちが、幽霊って呼びたがるもの」
琥珀の瞳の女は淡々と言った。
「でも正確には違う。これは“残響”よ。
終わるはずだった拍が、終われなかった残り滓」
残り滓。
俺は思い出す。
塔は、終わりを預かる場所だ。
灰になった骨と鉄になった血を封じる場所。
だったら、終われない拍が溜まるのも当然だ。
問題は――それが、薄い膜の向こうで“動いている”こと。
「……割れたら?」
俺が問う。
彼女は一拍置いて、答えた。
「割れるわ。いつか。
だから、観測隊がいる」
観測。
つまり、見届けるためじゃない。
“裂ける瞬間”を、管理するため。
俺は窓に近づく。
胸が勝手に、港の形になろうとする。
(拾うな)
俺は自分の嘘を握る。
(この戦役を、ちゃんと見ていたい)
見たい。
でも、拾わない。
見たい。
でも、沈まない。
その境界で、俺は立つ。
その時――
薄い膜の向こうから、はっきりとした“言葉”みたいな音が一つ来た。
音ではない。
でも、音として聞こえる。
――返せ。
そう聞こえた気がした。
胸の港が、ぐらりと揺れた。
「カガリ!」
ハルド教官の声が背中から刺さる。
俺は一歩、下がった。
拾ってはいけない。
敵の鼓動を拾えば、港は奪う拍を覚える。
覚えた港は、次から自分で奪う。
俺は歯を食いしばって、胸の奥を閉める。
蓋をする。
その瞬間、膜の薄い部分が、かすかに光った。
灰鉄じゃない光。
煤の中で、黒く光るみたいな光。
「……今の、見た?」
誰かが震え声で言う。
琥珀の瞳の女は、静かに息を吐いた。
「ええ。見た」
そして、俺だけを見る。
「あなたが近づいたから、反応した」
「俺のせい?」
「あなたの“せい”じゃない。あなたの“性質”よ」
港。
終わり損ねた拍を呼ぶ性質。
つまり俺は、
この裂け目にとって――
餌だ。
◇
その夜。
観測隊の宿舎は、塔の内部の一角にあった。
眠れるはずがない場所で、眠るための場所。
俺はベッドに座って、護環の位置を指で押さえた。
まだ熱い。
さっきの“返せ”が、胸に残ってる。
紙――行動規範を開く。
一つ。敵の鼓動を拾わない。
二つ。味方の鼓動は数を決める。
三つ。嘘を持ち歩く。
俺は、三つ目をもう一回口の中で転がす。
「俺は、この戦役を、ちゃんと見ていたい」
言葉にした瞬間、胸の奥の熱が少しだけ落ち着く。
形がある嘘は、錨になる。
その時、廊下の向こうで、誰かが低い声で話しているのが聞こえた。
教団の人間の声じゃない。
塔守の兵の声でもない。
もっと遠い。
でも、妙に澄んでいる。
「……彼は、塔を嫌っているわけではない。
塔を“知りたがっている”。それが危険だ」
返事の声が続く。
男の声。落ち着いている。
疲れている。だけど、折れていない。
「危険でも、必要だ。
港は、拍の行方を知る。
我々は、拍の行方を知らねばならない」
名前は出ない。
でも、輪郭だけで分かる。
上に立つ人間の声だ。
戦争を、地面の高さじゃなく、地図の高さで見る声。
(……ノア側か)
俺は確信する。
そして同時に、気づく。
敵は、同じことを考えている。
拍の行方。
塔の仕組み。
終わり損ねた拍の集まり。
戦争は、ただ奪い合うだけじゃない。
“拍をどこへ置くか”の争いだ。
その夜、残響脈が一拍、深く沈んだ。
塔の中で、また何かが吸われた。
そして、薄い膜の向こうで――
欠けた拍が、もう一つ増えた気がした。




