第十五話 補給路の裂け目 ― The Crack in the Supply Line
塔の近くで戦うってことは、敵と戦う前に――
“塔そのもの”と戦うってことだ。
俺はまだ、その意味を知らなかった。
◇
前線観測隊の推薦枠に名前を書いた翌朝、兵舎の空気が少しだけ変わった。
見られてる、って感じじゃない。
“数えられてる”って感じだ。
朝の点呼で名前が呼ばれると、返事の音がいつもより硬く響く。
廊下ですれ違う上級生の視線が、胸じゃなくて喉とか足とかに落ちてくる。
心紋の場所を探られてるのが分かる。
「……やめてほしいんだけどな」
俺が小さくぼやくと、隣でユラが肩をすくめた。
「今さらでしょ。港は“荷物”が増える運命なんだって」
「増やしてんのは周りだろ」
「周りも増やすし、あんたも拾うし。相性最悪」
最悪って言いながら、ユラは俺の袖を引いた。
「今日、補給路の見回りって言ってたよ。塔下第三層の」
塔下第三層。
昨日、掲示板でシンが読み上げてた“条件”の文字が、頭の奥で浮かぶ。
「……分かった」
俺は銃を背負い直した。
まだ祈導を乗せない、ただの重たい鉄の塊。
でもその重さだけが、いまは助けになる。
余計なものを拾いそうになったとき、
肩の鉄が「お前は兵士だ」って思い出させる。
◇
補給路は、塔の影の端っこを縫うみたいに伸びている。
雪を踏む音が、やけに乾いていた。
空は青いのに、風は冷たい。
残響脈エコーラインのざわめきが、地面の下からずっと続いている。
そのざわめきに、今日は“別の擦れ”が混じっていた。
金属が歯を鳴らすみたいな、嫌な音。
(……荒れてる)
俺が足を止めた瞬間、シンが横から覗き込む。
「聞こえる?」
「聞こえる」
ユラが鼻で笑った。
「そりゃ港だからね」
「うるせぇ」
俺たちは補給路の途中、倒れた木柵のところで立ち止まった。
ここは塔下と外縁の境目――つまり、狙われる場所だ。
護環を指で弾くと、薄い鳴りが返ってくる。
塔から分けられた灰脈素アシュフローが、かすかに温度を持っている。
「ねえ、カガリ」
ユラが急に真面目な声を出した。
「今日さ。拾うなら、拾う前に言ってよ」
「拾わない」
「“拾わない”って言うと拾うじゃん」
俺が口を開こうとした、その瞬間だった。
――空気が、裂けた。
視界の端で、雪がふわっと浮いた。
爆風じゃない。衝撃波でもない。
“下から持ち上げられた”みたいな浮き方。
次いで、低い音が来る。
ドン、じゃない。
ゴン、でもない。
もっと鈍い、腹の底に落ちる音。
残響脈が、一拍だけ吠えた。
「伏せ――!」
ハルド教官の声が、どこからか飛んできた気がした。
実際には違う。教官はいない。
頭の中の声だ。
俺は反射でユラの肩を掴み、雪の影へ引き倒した。
同時にシンが、喉を押さえるみたいに息を整える。
「祈導、する?」
「するな!」
俺は即答した。
この距離で祈導を起こしたら――港が“拾う”。
拾ってしまったら、俺は多分、止まれない。
なのに。
補給路の向こうから、足音が来た。
軽い。鋭い。迷いがない。
それと同時に、もっと嫌なものが来る。
“怒り”の拍。
“返せ”の拍。
寒さでも怖さでもない、刃物みたいな意志。
(……敵だ)
俺の胸の奥が、勝手に反応する。
心種が浮き上がりかける。
「……っ」
止めろ。
止めろって言ってるのに、止まらない。
港は、来るものを拒めない。
「カガリ!」
ユラが俺の腕を掴んだ。
「来てるよ、これ! ヤバい!」
シンが息を吐き、低く言う。
「音が、ひとつじゃない。……二つ、三つ、混ざってる」
その瞬間――補給路の木柵の向こうに、人影が跳ねた。
黒い外套。雪に溶ける灰色の布。
顔は見えない。けれど“目”だけが、こっちを見ている。
視線が刺さる。
刺さった瞬間、俺の胸の心紋が熱くなった。
縦の一本線が、皮膚の下で焼ける。
(やめろ)
俺は歯を食いしばる。
なのに、その熱の隣に――別の熱が混じった。
白い火傷みたいな熱。
古い痛みの匂い。
俺は知らない。会ったこともない。
でも“分かってしまう”。
あいつも、港みたいに何かを抱えてる。
抱え方は違う。
俺が“預かる”なら、あいつは“奪う”。
その差だけが、鼓動の輪郭になる。
「……退け」
低い声がした。
雪を裂くみたいに、まっすぐ。
次の瞬間、俺の背後で補給箱が爆ぜた。
爆ぜた、というより――割れた。
中身を狙った破壊。
食料じゃない。薬でもない。
護環の補給箱だ。
「狙い、護環だ!」
シンが叫ぶ。
俺の視界が一瞬だけ青く滲んだ。
目が光る。最悪だ。
敵の影がもう一度跳ぶ。
近い。
ユラが足に心種を落としかける。
「ユラ、待て!」
「待ってたらやられる!」
正しい。
正しいけど、正しいって言葉はいつも遅い。
俺は、決めた。
拾う。
でも――拾い方だけは、選ぶ。
「祈導、《守》――!」
胸の中に集まってくる鼓動を、ひとつに束ねる。
ユラの踏みとどまる熱。
シンの揃える耳。
そして、向こうの“奪う怒り”。
最悪の混ざり方だ。
だからこそ――壁にするしかない。
共鳴盾が、見えない膜みたいに広がった。
木柵の前、護環箱の前、そして俺たちの前。
敵の一撃が、がつん、と膜に当たる。
膜が悲鳴を上げた。
俺の胸も、同じ音で鳴った。
「……っ、こいつ――」
敵の声が、初めて揺れた。
驚きの揺れ。怒りの揺れ。
その一拍だけで、俺は確信する。
(港を、知ってる)
知ってるというより――嫌いだ。
このタイプの心臓を、きっと昔から。
俺は膝をつきかけた。
ユラが支える。シンが声を低くする。
「カガリ、息! 揃えるよ!」
シンの《追唱》が、俺の肺に空気を戻す。
その瞬間――膜の向こうで、敵が一歩だけ引いた。
そして、俺の耳の奥に、もうひとつの音が混じる。
祈りの拍。
教団の鼓動だ。
(……来る)
最悪の順番で、全部が集まってくる。
港に、戦場が寄港し始めている。
俺が“塔の近くまで行く”と決めたせいで。
雪の向こうで、誰かが名を呼んだ。
「――ロウ!」
ミラの声。
敵の影が一瞬だけ振り向き、舌打ちした。
「……チッ。今日はここまでだ」
ロウ、と呼ばれた男が、雪の闇へ溶けるように退く。
退き際、最後に一度だけ、こっちを見た。
その視線は、俺じゃなく――
俺の胸の“港”を見ていた。
◇
静かになった補給路で、雪がまた落ち始めた。
俺は膝をついたまま、呼吸を整える。
胸の奥に、他人の鼓動の残り香が残っている。
ユラが俺の襟を掴み、乱暴に引き上げた。
「ほら。生きてる。港」
「……うるせぇ」
シンが息を吐く。
「今の、危なかった。拾い方、間違えたら、壊れてたよ」
「分かってる」
分かってる。
でも、分かってるだけじゃ足りない。
塔の方角で、かすかに軋む音がした。
その音に混じって――
今まで聞いたことのない“影のざわめき”が、一拍だけ増えた。
残響脈の奥で、何かが“終わり損ねた拍”を集めている。
シャドウスパイア。
その名前はまだ、誰も口にしていない。
でも、音だけが先に知ってしまう。
俺は雪の上で、手袋越しに胸を押さえた。
港に残った嘘が、まだ温かい。
(――俺は、見ていたい)
そう決めた。
だから、次の頁はもう――戻れない。




