第十四話 旗手の火傷 ― Row’s Burn
奪われたものは、返してもらう。
それが正義かどうかは知らない。
でも、奪われたまま生きろって言われるのは――もっと嫌だ。
◇
火は、いつも遅れて痛む。
指先の皮が裂けたみたいに、あとからじわじわ来る。
冷たい雪の上に座っていても、掌の奥だけが熱い。
ロウは手袋を外し、掌の古い火傷痕を見下ろした。
白く硬い皮膚の筋が一本、親指の付け根から掌へ斜めに走っている。
塔が燃えた夜の名残。
――いや。
正確には、塔が「燃やされた」夜の名残。
「また触ってる」
背後から声がした。
ロウは振り向かない。振り向く必要のない声だった。
「……触ってねぇよ」
「触ってる。指が勝手に行くやつ」
雪の上を踏む軽い足音。
同じ小隊の女が、ロウの隣にしゃがみこんだ。
名はミラ。
細身で、目だけがやけに鋭い。目の鋭さだけで、こいつが生き残ってきたのが分かる。
「痛むの?」
「痛くない」
「嘘」
ロウは息を吐き、手袋を戻した。
「……痛いんじゃない。腹が立つだけだ」
「同じでしょ」
ミラはそう言って、背中の布袋から乾いたパンをひとつ取り出す。
半分に割って、ロウに放った。
「食べな。怒りは腹が減る」
受け取ったパンは石みたいに硬い。
でも噛めば噛むほど、ほんの少しだけ甘い匂いが出る。
塔下の補給は豊かじゃない。
オルドの補給はもっと貧しい。
それでも前へ進むのは、理由があるからだ。
理由がなければ、こんな雪の中で死ぬ。
「……で」
ミラが低い声で言った。
「今日の“仕事”、本当にやるの?」
ロウはパンを噛み砕き、飲み込んでから答える。
「やる」
「相手は塔下防衛。しかも“観測隊”が動いてるって噂だよ」
「知ってる」
「残響教団も、近い」
「知ってる」
ミラが舌打ちした。
「知ってる知ってるって。死ぬ準備でもしてる?」
「してない」
ロウは立ち上がり、雪を払う。
「俺は、返してもらう準備してるだけだ」
◇
オルドの前線拠点は、洞窟を削ったような粗末な壕だった。
天井には凍った鍾乳石みたいな氷がぶら下がっている。
息を吐くたび白い霧が広がり、すぐ消えた。
壕の奥、地図の前にいる男がいる。
教団軍オルド――と言われてはいるが、実態は寄せ集めだ。
祈りを掲げる者もいれば、復讐を掲げる者もいる。
その中で、彼はいつも「正しく」見えた。
神官補佐、サヴァ。
胸に教団の紋を下げ、目線の動かし方が丁寧で、声が静かだ。
その静かさが、ロウは嫌いだった。
「ロウ」
サヴァが顔を上げる。
「行くのか」
「行く」
「……予定より早い」
「早くない。遅い」
ロウは地図に手を伸ばし、灰鉄塔アストラ周辺の線を指でなぞった。
「ここだ。塔下第三層の補給路。ここを切れば、塔下は“守る”しかなくなる」
サヴァはすぐには否定しない。
ただ、静かに言う。
「切れば、民が凍える」
「凍えさせたのは誰だ」
ロウの声が少しだけ荒くなる。
「塔が建ったとき、俺たちの町は“必要”って言葉で潰された。
封印のため。生活のため。秩序のため。
全部、正しい顔してた」
サヴァは目を伏せ、短く祈るように息を吐いた。
「……君の怒りは正しい」
その言い方が、ロウには一番腹が立つ。
「正しいとか言うな」
ロウは一歩、近づいた。
「正しいって言葉は、いつも後ろから人を刺す」
サヴァは少しだけ表情を揺らし、しかし声を崩さない。
「なら、君は何のために行く」
ロウは一拍止まる。
何のため。
それは、答えたくない問いだった。
復讐のため。
奪還のため。
自由のため。
どれも綺麗だ。
綺麗すぎる。
ロウは自分の掌の火傷痕を、手袋の上から強く握り込む。
「……返してもらうためだ」
「何を」
「奪われた時間を。奪われた顔を。奪われた名前を」
声が低く沈む。
「――塔に“都合よく”消されたもの全部だ」
サヴァはしばらく黙り、やがて地図の別の地点を指した。
「ここも揺れている。残響脈の乱れが連続している」
「……エコーラインの荒れ?」
「そうだ。塔下の訓練区画で“連鎖”が起きたという」
ロウの眉がぴくりと動く。
「連鎖?」
「心種が、他人に触れたらしい」
サヴァが続ける。
「“港”だと、観測班が言った」
その単語を聞いた瞬間、壕の空気が冷たくなる。
港。
鼓動が寄ってくる体質。
味方を救うことも、壊すこともある。
噂は戦場を走る。
血より早く走る。
「塔下に、そんなのがいるのか」
「いるらしい」
サヴァは目を細める。
「君が狙う補給路の近くだ」
ロウは口の端を歪めた。
「……面倒なものが混ざったな」
「面倒、で済むと思うか」
サヴァの声がわずかに鋭くなる。
「港は、教団も欲しがる。塔下も欲しがる。帝国も欲しがる。
そして何より――」
一拍。
「港自身が、戦場に引きずり出される」
ロウは目を逸らした。
なぜか、その言葉が胸に刺さったからだ。
(引きずり出される)
自分だってそうだ。
戦場に出たかったわけじゃない。
出ないと“返してもらえない”と思っただけだ。
「……だったら、早い方がいい」
ロウは言い捨てるように言った。
「塔下が港を抱え込む前に。教団が名前を付ける前に。
俺が――俺のやり方で、奪う」
サヴァが首を振る。
「奪う、奪うと言うが。君は、何かを救いたいんじゃないのか」
ロウは笑った。
乾いた笑いだ。
「救いたいなら、祈ればいいだろ。お前みたいに」
サヴァの目がほんの少しだけ痛む。
ロウはそれを見て、少しだけ後悔しそうになる。
その瞬間、後悔の芽を踏み潰す。
後悔は、前に進む足を止める。
「……出る」
ロウは背中の布袋を持ち上げる。
「ミラ。準備しろ」
入口の影から、ミラが手を挙げた。
「はいはい。死ぬ準備じゃなくて、帰る準備ね」
「帰るとは言ってない」
「言わなくていい。足が言う」
ミラが立ち上がる。
その瞬間、彼女の足首の辺りが、うっすらと熱を帯びた。
心紋。
彼女のは足だ。短い線で、鋭い。
ロウはそれを見て、ふと自分の胸に意識を向ける。
自分の心紋は、右肩から鎖骨へかけて走る、ひび割れた稲妻みたいな形だ。
(俺の心種は、何だ)
ずっと考えないようにしてきた。
祈導を使えば、戦場は派手になる。
派手になれば、誰かが死ぬ。
だからロウは、必要なときにしか心種を起こさない。
必要なときだけ。
――奪うときだけ。
◇
夜。
雪はやんでいた。
空が澄んで、星が刺さるように光っている。
補給路へ向かう途中、ロウは一度だけ立ち止まった。
遠くに、塔の輪郭が見えた。
灰鉄塔アストラ。
巨大な墓標。
生活の柱。
封印塔。
言い方はいくらでもある。
でもロウにとっては、一つしかない。
奪ったものを積み上げて、正しい顔をする怪物。
「……ロウ」
ミラが小さく呼ぶ。
「何」
「港ってさ。――こっちの味方かもよ」
「知らない」
「知らない、で切るの?」
ミラの声が少しだけ柔らかい。
ロウはそれが嫌で、少し強く言う。
「味方かどうかは、あとで決める」
「あとって、いつ」
「奪ってからだ」
ミラがため息をつく。
「相変わらず、順番が逆」
「順番を守ってたら、全部奪われる」
ロウは歩き出す。
雪がきしむ音が、夜に吸われる。
遠くで、塔が軋んだ気がした。
その音に混じって――
ほんの一瞬だけ、別の鼓動が聞こえた。
自分の鼓動じゃない。
ミラの鼓動でもない。
もっと遠い、もっと混ざった音。
港。
誰かの想いが、集まりすぎている音。
ロウは足を止めずに、手袋の上から掌の火傷を握り込んだ。
(……奪われてるのは、俺だけじゃない)
その事実が、怒りを少しだけ歪ませる。
歪んだ怒りは、刃物より危ない。
でも、危ないからこそ、戦場では役に立つ。
ロウは息を吐き、雪の匂いを肺に入れた。
灰鉄戦役の末期。
四人の英雄のうち、三人目の鼓動が――
ようやく、同じ塔へ向かって動き始めた。




