第十三話 貴族の嫌悪 ― Noah’s Disgust
戦争は、どうして「正しい顔」をしてくるんだろう。
剣も銃も、叫び声も、誰かの死も。
その全部を「必要だった」と言い換えた瞬間に、
人は平気な顔で前へ進めてしまう。
――だから俺は、戦争が嫌いだ。
◇
雪の匂いがする。
帳の隙間から冷たい空気が入り込み、蝋燭の火がわずかに揺れた。
野営地の天幕は広い。広いが、豪奢ではない。
贅沢な絨毯も銀食器も、ここには持ち込まないと決めている。
俺は貴族だ。
だからこそ、こういう場所で贅沢をすると、部下が死ぬ。
机の上には地図が広げられていた。
灰色の線が幾重にも引かれ、塔の位置が黒い点で示されている。
灰鉄塔アストラ。
この戦役の「要」であり、同時に「言い訳」だ。
あれを守る。あれを奪う。あれを壊す。
どれも正しく聞こえるから、どれも始末が悪い。
「ノア閣下」
天幕の入口が開き、氷を踏む音がひとつ入ってきた。
副官のラズが敬礼する。頬に雪が貼りついていた。
「報告を」
「塔下方面、偵察より。今朝、残響脈の揺れが二度。規模は小。――ただし」
ラズは言葉を一拍止める。
その癖だけで、嫌な報告だと分かった。
「塔下の訓練区画で、心種現象が“連鎖”した形跡あり。
教団の観測班が『港』と呼んだ、と」
俺はペンを置き、ゆっくり息を吐いた。
「……港」
その単語は、昔から戦場の噂話に混ざっていた。
拾った鼓動を捨てられない人間。
他人の心種が寄ってくる体質。
味方を救うこともあれば、隊を丸ごと壊すこともある。
「名前は?」
「不明。訓練兵とのこと。塔下第十三小隊、という情報のみ」
塔下第十三小隊。
数字だけで、胃の奥がいやに重くなる。
(また、こうやって戦争は“人”を要にする)
塔を巡る争いの中心に、ひとりの少年を置く。
戦場はいつもそうだ。
便利な才能を見つけたら、正義の旗の下に括りつけて動かす。
「閣下。――次の命令は?」
ラズの声は平静だった。
だが、その平静さが、かえって腹の底を冷やす。
命令。
命令という言葉が、俺は嫌いだ。
命令はいつも、誰かの死体の上に立っている。
「……現状の配置を維持。正面衝突は避ける」
「避ける、ですか?」
ラズが目を瞬いた。
珍しい。彼が感情を見せるのは、相当なときだ。
「塔下の防衛線は固い。正面から叩けば、こちらが勝っても意味がない損耗になる」
「しかし、上は“成果”を求めています。塔を――」
「分かっている」
俺は地図の黒点、灰鉄塔アストラに指を置いた。
紙の上の点は小さい。
だが、点の外側には何十万人の生活があり、何十万の鼓動がある。
そして、点の内側には、もっと厄介なものが眠っている。
「……塔は、兵器じゃない。封印だ。生活の柱だ。墓だ。
それを奪う戦争を“平定”と呼ぶのは、吐き気がする」
言ってから気づく。
俺は、部下の前で本音を漏らしている。
貴族の教育は「本音は武器にならない」と教えるのに。
それでも、口が止まらなかった。
「閣下」
ラズがためらいがちに言う。
「では、教団――《残響教団》はどう動くと?」
俺は天幕の天井を見上げた。
布一枚の向こうで、雪が降っている気配がする。
教団。
神の名を掲げ、塔の起源を知り、残響脈の罪を知りながら、
それでも人を前へ進ませる者たち。
彼らは、祈りで戦争を“正しい形”に整える。
それがいちばん、厄介だ。
「教団は“裁く”と言うだろう。
塔を。戦場を。人間を。
そして裁きのために、誰かの心種を必要とする」
俺は指先で、自分の手袋の上から右手の甲を押さえた。
そこにあるのは、俺の心紋。
普段は見えない。だが、意識を向ければ薄く熱が立つ。
(心種は、重さだ)
自分の想いに重さを許した瞬間に生まれる核。
それをどう流すかで、人は戦場の形を変える。
俺は変えたくない。
戦場の形など、変える価値がない。
だが――変えられてしまう側の人間を、これ以上増やしたくもない。
「ラズ。偵察を増やせ。塔下第十三小隊の“港”を最優先で追う」
「捕縛、ですか?」
「違う」
俺は首を振った。
「会いに行く」
口にした瞬間、天幕の空気が一段冷えた気がした。
ラズが言葉を失うのが分かる。
貴族が。
指揮官が。
前線の訓練兵に会いに行く。
そんな行為は、合理ではない。
だが、合理だけで積み上げた戦争が、いま目の前にある。
「もし、その少年が“港”なら」
俺は地図の黒点をなぞり、ゆっくりと言った。
「塔も教団も、必ずその鼓動に手を伸ばす。
――だったら先に、こちらが“言葉”で触れる」
ラズは数秒沈黙し、それから静かにうなずいた。
「承知しました。護衛と経路を組みます」
「護衛は最小でいい。派手に動けば、教団に嗅ぎつけられる」
ラズが天幕を出ていく。
入口が閉じると、雪の音だけが戻ってきた。
俺は地図を見下ろし、黒点を指先で押さえたまま、目を閉じる。
戦争は正しい顔をしてくる。
だから、正しい顔をしたまま、誰かを飲み込む。
――その前に。
俺は自分の心臓の拍を数え、ひとつだけ、嘘を用意した。
(俺は“成果”のために動く)
そう言い張れる嘘を。
嘘の奥で、もっと醜い本音が、静かに鳴っていた。
(あの塔の下で、誰かがまた“選ばれる”のが見たくない)
目を開ける。
地図の黒点が、さっきより少しだけ大きく見えた。
灰鉄戦役の末期。
四人の英雄のうち、二人目の鼓動が――
ようやく、戦場の表へ出ようとしていた。




