第十二話 名前のない祈り ― The Nameless Prayer
塔の上は、雪が降らない。
降るはずの白は、いつも途中で削られて、塔の外壁に弾かれていく。
だから、塔上にいると時々――
世界が「清いもの」を最初から持っていないみたいな気分になる。
その代わりに、ここには灰がある。
積もらない灰が、ずっと空気の中に漂っている。
◇
朝。
ゲートリンクの間に入ると、ダリルがすでに観測板を並べ終えていた。
イレナは珍しく、椅子に腰を下ろしたまま目を閉じている。
「……眠いんですか?」
思わず聞くと、イレナは目を開けもせず答えた。
「眠いんじゃない。聞いてるのよ」
「何を?」
「塔の“前兆”」
その言い方が嫌だった。
前兆。
戦場よりも前に、塔が決める。塔が知らせる。
そういう気配。
「昨夜、北塔は歌ってない」
ダリルが淡々と言った。
「なのに今朝、波形が不自然に整ってる。
これは――歌い手が変わった」
やっぱり。
昨日、冷たかった波。削れた温度。
あれは“別の声”だったのかもしれない。
「来るわよ」
イレナが小さく言った。
「今日は“挨拶”じゃない。
向こうは、確かめに来る」
確かめる。
何を?
――港の拍を。
胸が勝手に数を刻み始める。
塔のざわめきが、ほんの少しだけ高くなる。
その時、ダリルが観測板の端を指で叩いた。
「港。今日は最初から《返》を用意しろ。
受け止めてからじゃ遅い」
「……分かった」
自分の喉が乾くのが分かる。
でも、逃げられない。
塔上に来た時点で、もう逃げ道は閉じている。
◇
“窓”が明るくなった。
そこに映ったのは、雪原じゃなかった。
――街だ。
塔下の街に似ているのに、どこか違う。
屋根の形が違う。煙突の数が違う。
街を囲む壁の色が、より黒い。
「北塔の麓の街だな」
ダリルが低く言う。
「……向こうの生活を、見せてきた?」
「そう。
“俺たちにも守るものがある”って言いたいんだろう」
その時点で、胸の奥が嫌なふうに痛んだ。
守るものがある。
それは、こっちだけの特権じゃない。
戦記は、いつもそこを突いてくる。
「来る」
イレナの声が落ちた瞬間――
北塔の波形が、ぶつかった。
昨日までの荒さじゃない。
整っている。硬い。無駄がない。
そして――冷たい。
祈導というより、裁定に近い圧。
「お前の拍は要るか、要らないか」を選別するような波。
(……やめろ)
胸の火種が、一瞬だけ揺らぐ。
揺らいだ瞬間を、塔は狙ってくる。
「祈導、《守》――!」
壁を立てる。
でも、圧が薄皮を剥ぐみたいに削ってくる。
守っているのに、守り方が“バレていく”。
港の癖。
拾い方。束ね方。返し方。
全部、見透かされる。
「《返》だ!」
ダリルの声。
俺は歯を食いしばり、壁を“波”に変える。
「祈導、《返》!」
押し返した。
押し返したはずなのに――
北塔の波は、さらにその上から覆いかぶさってきた。
二重。三重。
まるで、こちらの《返》を学習しているみたいに。
(……こいつ、賢い)
戦場の人間の癖じゃない。
もっと“上”の癖。
塔の癖。
塔に近い者の癖。
そこまで考えた瞬間――
あの“柔らかい深い拍”が、また混ざった。
今度は、混ざるのが早い。
ノイズのふりをする暇もなく、まっすぐ胸に刺さる。
(助けて)
昨夜より、はっきりしていた。
助けて。
助けて。
でも、助けないで。
そんな矛盾を抱えた拍。
「……っ」
息が詰まる。
守るべき街が窓に映っている。
押し返さなきゃ塔下が揺れる。
でも、胸の奥に刺さってくる拍が、
“敵の叫び”じゃない。
それは、誰かの“祈り”だ。
祈りは、敵と味方を区別しない。
塔が、そういう器なのだから。
「港!」
イレナの声が鋭く落ちた。
「拾うな! 今は拾うな!」
拾うな。
でも、港は拾ってしまう。
拾ってしまった瞬間に、分かってしまった。
――この拍は、“旗手”の拍じゃない。
歌っている声の奥で、
ずっと押し潰されている拍だ。
北塔の麓の街。
そのどこかで。
誰かが、塔の歌に巻き込まれて、
自分の拍を失いかけている。
(……これが、ノイズ?)
ふざけるな。
ノイズじゃない。
人間だ。
その瞬間――
北塔の圧が、ほんの一拍だけ緩んだ。
まるで、こちらが拾うのを待っていたみたいに。
――誘導。
胸の奥が冷える。
(……俺を“港”として使う気か)
拾わせて、抱えさせて、
こちらの拍を濁らせて沈めるつもりか。
塔の上の戦いは、殴り合いじゃない。
溺れさせ合いだ。
――選べ。
イレナの言葉がよぎる。
港は、入れるものを選べ。
(……選ぶ)
歯を食いしばって、火種を立て直す。
拾った拍を――“抱えたまま”――外に出す。
港に入った船を、港の奥で沈めない。
沖に出す。波に戻す。
「祈導、《返》――!」
今度の《返》は、押し返すためじゃない。
“返す”ためだ。
拾ってしまった拍を、
塔の圧の外へ、そっと押し出す。
見捨てるんじゃない。
沈めないために、外へ出す。
波が、わずかに整う。
北塔の圧が、一瞬だけ躓いた。
「……今の」
ダリルの声が低くなる。
「港、お前――」
「黙って」
言葉にしたら壊れる気がした。
イレナが息を呑む音がした。
そして次の瞬間、北塔の歌はふっと引いた。
引き際が、早すぎる。
まるで――
“見たいものを見たから帰った”みたいに。
◇
窓の明かりが落ちた。
塔のざわめきが、元の低い位置に戻っていく。
でも、俺の胸の中だけが戻らない。
さっき押し出した拍の名残が、
まだ火種の周りを回っている。
「……港」
イレナが、今度は少し低い声で言った。
「今のは、何」
「……分かりません」
嘘じゃない。
分かりたくない、とも違う。
ただ――分かってしまうのが怖い。
「分からないで済ませるには、もう遅いわ」
イレナが淡々と言う。
「あなたは今、北塔の“内側”の拍に触れた。
旗手じゃない拍――それはつまり、
塔に繋がれた誰かの拍よ」
繋がれた。
言葉の重みが、胸に沈む。
「……牢獄、ですか」
口に出すと、喉が痛かった。
ダリルが観測板を睨んだまま言った。
「北塔側の波形ログ、ここ。
さっき一拍だけ、奇妙な空白がある」
「空白?」
「歌い手が息を止めたみたいな空白だ。
普通は出ない。
……誰かの拍が、横から触れた時にしか出ない」
俺の胸が、嫌なふうに熱くなる。
(触れたのは俺だ)
港として、触れてしまった。
「港」
イレナが言う。
「今日から、あなたは“選ぶ”だけじゃ足りない。
“名付ける”覚悟も必要になる」
「……名付ける?」
「そう。
名前のない祈りは、戦記の中で消える。
消えたら、次は誰も救えない」
イレナの瞳は、冷たいのに真剣だった。
「あなたが拾った拍。
あれは、あなたの港に入ってきた最初の“難民”よ」
難民。
その言葉が、妙に現実的で、
戦場の匂いがした。
「……俺は」
声が震えそうになって、噛み締める。
「俺は、戦記を書きたいわけじゃない」
「分かってる」
イレナは頷く。
「でも戦記は、あなたを使って勝手に書かれる。
なら、せめて――あなたが一行くらいは奪い返しなさい」
奪い返す。
その言葉が、胸の火種に重みを足した。
◇
その夜、眠れなかった。
塔のざわめきの奥に、まだあの拍を探してしまう。
探したところで、もう届かないのに。
(助けて)
耳の奥で、何度も蘇る。
――助けるって、何だ?
塔を壊すのか。
塔の歌を止めるのか。
北塔の麓の街に行くのか。
敵国の中に踏み込むのか。
現実的じゃない。
でも、現実的じゃないからって、
“ノイズ”にしていい理由にはならない。
俺は、ペンを握って紙を引き寄せた。
手紙じゃない。
誰にも送らないメモ。
塔上で拾った拍の、輪郭だけを書き留める。
柔らかい。深い。
折れない。
助けてと言いながら、助けないでと言っている。
――名前がない。
だから、戦記の中で消える。
(名付ける、か)
怖い。
名付けた瞬間、それは“責任”になる。
港が、ただの港じゃなくなる。
でも、港じゃなくなるのが怖くて、
誰かをノイズにしたくない。
俺は紙の上に、仮の名前を置いた。
まだ、決められない。
でも、火種だけは置いておく。
――「リア」。
口にしただけで、胸が一拍だけ鳴った。
その拍が、自分のものか、
誰かのものかは――
まだ、分からなかった。




