第十話 塔下からの声 ― Voices from the Foot of the Tower
塔の上で目を覚ます、って経験は、慣れるまで時間がかかる。
最初に聞こえるのが、小隊のいびきでも、
隣のベッドからの寝返りでもなくて――
灰鉄塔アストラそのものの、低いざわめきだからだ。
(……ここまで来ちまったんだよな)
薄い毛布を払いのけて、ゆっくりと身を起こす。
塔上の寝台は、塔下の兵舎より静かだ。
でも、その静けさは“何もない”んじゃなくて、
――“何か”の上に、無理やり布をかぶせて押し黙らせてる感じがする。
◇
その日の午前は、前夜の“北塔の歌”の片づけから始まった。
接続門の間では、塔上の連中が
忙しなく行き来している。
「昨夜の波形ログ、第三層まで回しておけ」
「北塔側の誤差、ここ。ここが一拍ズレてる」
祈導具の残光がまだ壁にこびりついているのに、
誰もそれを見上げて感傷に浸ったりはしない。
戦記の現場ってのは、案外ドライだ。
「おはよう、港」
振り向くと、ダリルが観測席に腰を下ろしながら片手を上げた。
「昨夜、よく眠れたか」
「塔のざわめきに子守唄歌ってもらいましたよ」
「贅沢だな。塔下の連中が聞いたら殴りに来るぞ」
ダリルは、そう言って少しだけ笑う。
「港の拍、今日も借りるぞ。
北塔の歌はしばらく続く。あいつら、一度火をつけたら冷めるのが遅い」
「了解です」
短く返事をして、胸のアシュバインドに触れる。
昨夜は、あの中を通る拍の一つに、
“名前のない誰か”が確かに混ざった。
(ノイズ、か)
イレナはそう言った。
俺だけが“誰か”だと思ってしまった。
それはきっと、余計な癖なんだろう。
港の心臓は、いらないものまで拾いがちだ。
◇
「おはよう、カガリ」
ゲートリンクの間に入ってきたイレナは、
いつも通りの落ち着いた顔をしていた。
けれど、その手元には見慣れない封筒がある。
「まずは仕事の前に、ひとつだけ」
「……何です?」
「塔下から届いた手紙。
“港宛て”って書いてあったわ」
――塔下。
その単語だけで、胸の拍がひとつ跳ねた。
「……誰からかは、聞いても?」
「中身を見れば分かるでしょう?」
イレナは、わざとそこは教えない。
封を切る。
やけに乱暴な字が飛び込んできた。
――だいたい、予想通りだった。
***
カガリへ
塔の上は生きてますか。ごはんは出ますか。
毎日ちゃんと寝てますか。
――って、いきなり質問ばっか書いてると怒られそうだね。
第十三小隊は、まだ塔の下で雪かきしてます。
あたしとシンは、相変わらず元気です。
この前、訓練場で噂になってたよ。
「木箱ぶっ飛ばしたやつ、もう塔の上行ったらしい」って。
……まあ、あんたのことでしょ?
港ってさ、上にあっても下にあっても港だと思うんだよね。
だから、勝手に出ていく船の心配ばっかしないで、
ちゃんと自分のことも見てなよ。
――あたしたちの鼓動を理由にしないって約束、忘れたら承知しないから。
あ、そうだ。
今度、塔下の教会で歌の練習することになったらしいよ。
シンがやたら張り切ってる。
「どうせ塔の上まで聞こえるから、変な音出せない」って。
だから、耳のどこかで聞こえたら笑ってやって。
ユラ
追伸:
字が汚いとか言ったら、今度帰ってきたとき蹴るからね。
***
読み終えて、無意識に息を吐いた。
「塔下の空気は、まだ雪まみれのままみたいですね」
そう言うと、イレナが首をかしげる。
「塔上と比べれば、何だって穏やかに見えるわ」
「穏やか……ですかね」
「少なくとも、ここよりは」
イレナは淡々と返す。
「手紙、返したければ、夜までに書きなさい。
塔下への祈導便に紛れ込ませてあげるわ」
「ありがとうございます」
頭を下げると、イレナは少しだけ目を細めた。
「……いい友達を持ったわね、港」
「そうでしょう」
そこだけは、胸を張って頷けた。
◇
準備を終えると、再び塔のざわめきに耳を澄ます時間が始まった。
北塔の歌は、昨夜よりわずかに低い。
拍そのものはまだ荒いが、
どこか“迷い”みたいなものが混じり始めている。
「向こうも現場が混乱してるな」
ダリルが観測板を見ながら言う。
「昨日の“呼びかけ”で、誰かしら失敗したんだろう」
「失敗?」
「ああ。誓いの焼き直しってのは、
成功すれば鼓動は深くなるが、
失敗すれば、ただのひび割れだ」
ひび割れ。
その言葉に、昨夜の“祈りの拍”が頭をよぎる。
(……あれも、ひびのひとつなのか)
塔に届いてしまった、誰かの矛盾した願い。
ノイズと言われれば、それまでだ。
でも、港は勝手に拾ってしまう。
◇
その日の接続は、昨夜より短かった。
北塔の歌は途中でふっと力を失い、
波の高さを落としたまま消えていった。
「今日は引き際が早いな」
「向こうの旗手が潰れかけてるのかもね」
イレナとダリルの会話が、妙に現実的に聞こえる。
(……旗手も、生きてるんだよな)
当たり前のことなのに、
塔の中で鼓動だけ聞いていると、時々忘れそうになる。
“敵国”とか“向こう側”とか、
そういう言い方をすると、急に人間じゃないみたいに思えてくるからだ。
でも、昨夜の一拍は、どうしても“誰か”だった。
だから――。
◇
夜。
支給された薄い紙を前に、ペンを握る。
(手紙なんて、いつぶりだ)
ユラの字を思い出しながら、
自分の字の汚さを一瞬だけ呪ってから、書き始める。
***
ユラへ
塔の上も生きてます。ごはんは、まあまあです。
毎日ちゃんと寝るように努力しています。
第十三小隊の雪かきが順調そうで何よりです。
たぶん塔は、その雪の重さもちゃんと覚えてます。
こっちはこっちで、塔の歌の練習みたいなことをしてます。
北の塔が大声で歌ってくるので、
その音が塔下に響き過ぎないように、
間に“港の拍”を挟む仕事です。
……説明になってるかは知りません。
ユラが言った通り、
“本音のフリした嘘”も、ちゃんと持ってきました。
俺は、この戦役をちゃんと見ていたい。
塔の上でも、塔の下でも。
できれば、あんたたちの鼓動が傷つく前に、
どこで線を引けばいいのか知りたい。
本当の本音は、もうちょっと汚いので、
塔の中に預けておきます。
そのうち話せそうになったら、
帰ってきた時に聞いてください。
シンの歌は、こっちまで聞く準備をしておきます。
変な音出したら、塔のせいにしておいてください。
カガリ
追伸:
字が汚いのは自覚してるので、蹴る前に一回くらいは読んでください。
***
書き終えて、少しだけ笑った。
(……こういう嘘なら、悪くない)
塔のざわめきに紛れて、
自分の本音を少しだけ薄めておける“嘘”。
港らしい、ちゃちな防壁だ。
◇
手紙を折りたたんで封をし、
塔下行きの祈導便箱に入れようとした時だ。
ふっと、胸の奥がひやりとした。
塔のざわめきとは違う、
もっと細くて、もっと遠い拍。
昨夜、北塔の歌の奥に紛れ込んでいた、あの“祈りの音”に似ている。
(……まただ)
紙箱に手をかけたまま、動けなくなる。
今度の拍は、短かった。
でも、はっきりしていた。
――たすけて。
そう聞こえた気がした。
言葉じゃない。
心紋を通して伝わってきた“重み”だけだ。
振り返る。
接続門の間は、もう灯りが落とされている。
ダリルもイレナもいない。
塔だけが、低く唸っている。
「……ノイズ、か」
自分でそう言って、息を吐いた。
それ以上、踏み込んだらいけない気がした。
塔は墓標。
塔は戦場。
塔はテストベッド。
――そして、塔は牢獄かもしれない。
誰の、何の、牢獄なのか。
それを考えるには、心臓の準備がまだ足りない。
(今は――)
目を閉じて、拍をひとつ落とす。
(今は、塔下の手紙を先に届けよう)
港は、まず自分の船からだ。
箱に封筒を入れ、ふたを閉める。
塔のどこかで、誰かがまだ祈っている。
その拍を、港の中で勝手に名前もつけないまま、
俺は静かに、塔上の夜をやり過ごすことにした。




