第九話 北塔が歌う夜 ― The Night of the Northern Song
戦争の始まりって、もっと派手な音がするものだと思っていた。
空が裂けて、塔が揺れて、誰かが大声で「始まったぞ!」って叫ぶ――
そんな分かりやすい合図があるものだと、勝手に想像していた。
実際は、もっと静かだった。
◇
夜になっても、塔上の空は暗くならない。
灰鉄塔アストラの上層に近づくほど、壁の文様は淡く光を帯びていく。
灰脈素が、塔の中を駆け巡っている証拠だ。
塔上接続班に案内されたのは、門階よりもさらに上。
心臓部までは届かないが、その手前に作られた細長い広間だった。
「ここが、接続門の間だ」
ダリルが短く言う。
部屋の中央には、塔の芯に繋がった灰鉄の柱。
その周りを取り巻くように、半円状の台座がいくつも並んでいる。
それぞれの台座には、心紋を刻むための薄い板と、
祈導具を固定するための溝。
そして、その背後には、塔の外を映し出すための“窓”。
「窓って言っても、外に向かって開いてるわけじゃないわ」
イレナが言う。
「灰脈素の流れを一時的に“立ち上げて”、
そこに他の塔の祈導の波形を映す。鏡みたいなものよ」
「そんな器用な真似、誰が考えたんですか」
「最初の塔守たちよ。
灰鉄塔を“生活の柱”から“戦争の柱”に変えた人たち」
イレナの声は、少しだけ冷たかった。
「褒めてるわけじゃない。
ただ、そのおかげで今、戦記を“読む”ことができる」
壁の文様が、少しずつ色を変えていく。
灰色だった線が、青みを帯び、やがて薄い紫へと揺れる。
「北塔の歌が、そろそろ届くわ」
イレナが灰鉄の柱に手を置いた。
「ダリル、観測席へ。
カガリは――ここ」
示されたのは、中央の台座の少し後ろ側。
塔の芯と、外の“窓”のどちらも視界に入る位置だった。
「ゲートリンク班の役目は、簡単に言うと二つ」
イレナは淡々と続ける。
「ひとつは、外から届く祈導の“癖”を読むこと。
もうひとつは、塔の中に沈んでいる古い鼓動と、今の戦場の鼓動を繋ぐこと」
「繋いで、どうするんです?」
「どこまで耐えられるか、試すのよ」
即答だった。
「塔は墓標。
でも同時に、“テストベッド”でもある」
「……聞かなきゃよかったかも」
「聞いた方がいいわ。
知らないまま繋げられるより、マシでしょう?」
それは、たぶんイレナなりの“優しさ”だったのだろう。
◇
空気が、変わった。
何の前触れもなく――と、思ったけれど、
よく考えれば昼からずっと、塔のざわめきは少しずつ高くなっていた。
今、その音がいきなりひっくり返る。
低かった拍が、一段だけ高い位置に跳ね上がり、
そこから細かい震えが幾重にも折り重なっていく。
「来たわね」
イレナが、小さく息を吐いた。
「これが、北塔の歌――」
塔上の“窓”が、ふっと明るくなった。
そこには、夜の雪原が映っていた。
灰色の空。
風に削られた氷の丘。
遠くに霞む、もう一本の塔――北塔。
その塔の周りを、目に見えない“光の線”が無数に巡っている。
祈導のルートだ。
塔から街へ。
街から塔へ。
そして、塔と塔のあいだへ。
北の塔と、どこか別の塔を繋ぐ線が、一瞬だけ強く光った。
「……“呼びかけ”か」
ダリルが、観測席でつぶやく。
「そう。北塔が、誰かに歌ってる」
イレナが頷く。
「向こう側の心臓に、“一緒に祈れ”って」
「敵同士なのに、ですか?」
思わず口を挟むと、イレナは肩をすくめた。
「敵同士でも、塔にとっては同じ“燃料”よ。
どの国の祈りも、どの民族の鼓動も、塔には全部同じ灰と鉄」
それは、塔の残酷さであり、公平さでもあった。
「ゲートリンク班、準備」
イレナがこちらを振り返る。
「ダリルは波形を読む。
カガリは――塔の拍を落ち着かせる」
「落ち着かせる?」
「北塔の歌に引きずられて、アストラの拍が暴れると、
塔下の街が吐き気を起こすのよ。
最悪、心紋の弱い人から倒れていく」
イレナは淡々と告げる。
「“港”でしょ、あなた。
余った鼓動の行き場を作りなさい」
「簡単に言ってくれますね」
「簡単にやれるでしょ?」
酷い言い方だ。
でも、塔のざわめきは、それを後押しするように高まっていく。
(……分かったよ)
深く息を吸い、胸の奥に手を当てる。
心種を浮かべる。
火種をひとつ立てる。
(俺は、港だ)
自分に言い聞かせる。
(来るもの全部を抱えるのは無理だ。
でも、“入ってくる前の波”くらいなら、少しはやわらげられる)
塔の拍が、一つ、二つと数えやすくなっていく。
北塔から届く高い拍。
アストラの低い拍。
その間に、自分の拍を差し込む。
どん、どん、どん。
塔と塔のあいだに、小さな“港”のリズムを作る。
北塔の歌が、そのリズムの上を滑るように通り始める。
「……いいわね」
イレナの声が、遠くで聞こえる。
「アストラのざわめきが、さっきより静かになった。
塔下の鼓動も、乱れ方が変わってる」
「向こうの波形も読めてきた」
ダリルの声が続く。
「これは――火の祈導か。
いや、もっと荒い。
“焼き直し”に近いな」
「焼き直し?」
「一度折れた誓いを、もう一回叩き直したみたいな音だ」
ダリルの表現は、妙に具体的だ。
「敵国の旗手の誰かが、
“まだ終わっていない”って塔に叩きつけてる」
その言葉に、胸の奥がひやりとした。
(向こうにも、誰かがいる)
塔に向かって祈っている誰か。
塔に心臓を明け渡す覚悟を、何度も何度も繰り返している誰か。
俺たちは、その“誰か”と、塔を挟んで向かい合っている。
まだ姿も名前も知らないまま。
◇
どれくらい時間が経ったのか、よく分からなかった。
集中していると、拍の間隔だけが世界になる。
北塔の歌は、やがて少しずつ高さを落としていった。
怒りと焦りで組まれていた拍が、
疲れと悔しさの混じるテンポへと変わっていく。
「……引いたな」
ダリルが、息を吐いた。
「今夜は、“挨拶”だけか」
「十分よ」
イレナが頷く。
「向こうの旗手の癖は、だいたい掴めた。
次に歌が来る時、どの街が狙われるかも読める」
塔のざわめきが、少しずつ元の低い音に戻っていく。
俺もゆっくりと心種を沈めた。
アシュバインドの表面に浮かんでいた光が、静かに消えていく。
「カガリ」
名前を呼ばれる。
顔を上げると、イレナとダリルがこちらを見ていた。
「どう? 初めての“塔同士の会話”は」
「……気分のいいもんじゃないですね」
正直な感想が、口から漏れた。
「誰かの怒鳴り声だけ拾って、
何があったのかは全部想像するしかないみたいな」
「それが戦記よ」
イレナは平然と言う。
「全部を見届けることなんてできない。
でも、鼓動だけは嘘をつかないから、まだマシ」
そうやって、クロムスは“記録”を続けてきたのかもしれない。
「港」
今度はダリルが俺を見る。
「さっきの“港の拍”――悪くなかった」
「褒め言葉ですか、それ」
「ああ。
北塔の波が乗りやすそうな、いい潮だった」
その言い方は、少しだけ嬉しかった。
「ただし」
ダリルはほんの僅か、表情を引き締める。
「今は“受け止めるだけ”で済んだが、
そのうち、受け止めたまま殴り返さなきゃいけない時が来る」
「……分かってます」
港でいられる時間には、限りがある。
いつか、塔の内側での戦いにも、
塔の外の戦場にも立たなきゃいけない。
それでも――
(今は、これでいい)
塔と塔のあいだに、小さな港を作る。
そこに、仲間たちの鼓動を一度預けておく。
その“やり方”を、ようやく掴めた気がした。
◇
その夜、塔上の寝台で横になっても、なかなか眠れなかった。
目を閉じると、北塔の歌が蘇る。
まだ会ったことのない旗手の鼓動。
焼き直された誓いの拍。
(どんな奴なんだろうな)
敵国の旗手。
いつか、塔の外で対峙することになるかもしれない誰か。
その時、自分の心臓がどう鳴るのか――
想像しようとして、やめた。
今はまだ、“ここ”の鼓動を聞くので精一杯だ。
灰鉄塔アストラのざわめき。
塔下で眠っている街の鼓動。
ユラとシンが、どこかの寝台で聞いているはずの拍。
それら全部が、かすかな残響になって耳の奥で混ざり合う。
(港は、まだ沈まない)
自分にそう言い聞かせて、
俺はようやく、浅い眠りに落ちていった。




