7.人類の黄昏
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「負けるわけにはいかねえんだ……。あんたらの侵略を阻止しないと、地球の未来が大変なことになっちまう」
と、山県は言って、引き剥がすように見座 リツコの豊満な身体を押しのけた。
右手に握りしめた拳を女の胸に当てていた。
ゆっくりと抜いた。
アウトドア用の折り畳みナイフは、血に染まっていた。
妖艶バージョンの見座は、信じられないような顔つきで、自身の左胸を見た。
白いTシャツについた血の滲みが、見る見る面積を広げていく。
急所を突いたはずだった。さしもの花人間でも、首から下は人間だ。
人体は物理法則、数理科学に従って動いている。心臓は拍動し、物理的な力学効果を発生させ、血液はというと、流体科学に則って流れているはずである。そこに損傷を与えれば、失血死は免れまい。
すなわち殺害できる。
もっとも、地球上の法則が通用するならではあるが――。
驚愕の表情を浮かべた見座が、突如、ガクガクと揺れはじめた。
白眼をむいたまま口を開け、まるで頭部だけがバイブレーションをかけたかのように震え出す。
顔じゅうから発汗していた。汗にしては粘液じみていた。それこそ大量の粘液を滂沱と滴らせている。
顔色が急速に変わった。
どす黒い色になる。
一面に稲妻のような毛細血管が浮き出た。
とたんに、巨大な風船が破裂するような音とともに、肉片と血しぶきが放射状に飛び散った。
見座の頭部は、無惨にも左右に割れた。
ささくれた肉塊の中央に、蕾状の物体があった。
蕾は紡錘形をしており、見るからに硬い殻に覆われている。
その蕾までがびくびくと震え、大きく膨張した。
と思ったら、殻が裂け、一気に黄色や赤、紫、水色など色とりどりの花弁が飛び出した。
またたく間に花弁は上に向かって広げ、ぶわさっとパラソルが開く音とともに、弾むように大きく開いた。
まさに巨大な一輪の花。
地球上のどの草花にも相当しない、世にも美しい花冠の塊が現れたのだった。
中央にひと際眼を引く堂々たる雌しべが屹立しており、まるで女王を護衛する騎士のように、いくつもの雄しべが取り巻いていた。
雌しべの先端に当たる柱頭は、ぬらぬらと湿った色をたたえている。
花人間は胸に血を染めたまま、山県につかみかかった。
捕獲すると、その花冠に山県の上半身を放り込んだ。
山県の悲鳴は聞くに堪えない。
さながら食虫植物のように、花びらをバクバク言わせながら山県を頭から食らっていく……。
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保阪は眼を醒ました。
すぐに夢を見ていたのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
赤すぎる夕日が、甘い考えを打ち消した。
殴られた頭頂部がズキズキと疼く。
地面を探り、メガネを見つけると、かけた。
見座 リツコの写真集から彼女のプライベートに迫り、地球外からやってきた侵略者だと看破したのを憶えている。
その矢先、何者かに背後から襲撃され、気を失っていたと思い出す。
気づかれたのだ。正体を見破ったため、それを阻止しようと、奴らが実力行使に出たにちがいあるまい。
グズグズしている場合ではない。一刻も早くこのことを、政府に伝えなくては……。
とりあえず今は無事だ。気配を殺して逃げるしかない。
テントの入り口に立てかけたリュックサックを手にした。
ハタと気づいた。
隣には、別の誰かのリュックまで置かれているのだ。
「これは――誰のだ?」
保阪は怪訝な顔で、見慣れぬリュックを見た。
フロントポケットのストラップの金具に、ネームプレートが取り付けられていた。
『山県 章夫』と書かれている。
「山県?」と、保阪は眉をひそめてつぶやいた。「山県って誰だよ。いったいなんで、僕のテントに――」
拘っている時間すら惜しい。保阪は自身のを背負い、立ち上がった。
タープの真下にはダッチオーブンやバーベキューコンロ、メスティン、片手鍋、クーラーボックスが雑然と置かれている。
テント地のアウトドアチェアが二つあるのは、どういうことか?
――僕は単独でキャンプに来たはずだ。なら、これらの荷物は誰が運んだんだ? そもそも、こんなキャンプグッズを購入した憶えはない。椅子が二つ並んでるのが、いちばん引っかかる。まるで並んで、さっきまで誰かと会話してたみたいに……。
「それとも……。僕は、他人のキャンプで気を失ってたんじゃ?」保阪は違和感のさざ波に襲われるたび、あり得る限り、可能性を並べてみた。どんなに頭を働かせても、別の疑問がこみあげてくる。まるで靴の中の小石のように、気になって仕方がない。「今は考えるな。とにかく駐車場まで行こう」
キャンプ場のずっと向こうにある駐車場までは、ざっと100メートル。
そして、愛車に乗り込むのだ。
奴らに見つからず車に乗ることができたら、こっちのもの……。
キーは……と、保阪はジーンズのポケットをまさぐった。
アパートの鍵しか出てこなかった。
ない。
どこをどう探しても、車の鍵が見つからない。
保阪はそこで我に返り、眼を瞠った。
それもそのはず、保阪は車の免許を持っていないからだ。営業課とちがい、経理課は電車通勤だったのだ。
とすれば、どうやって東京から長野のオートキャンプ場に来た?
片手を頭にやった。
思い出せない。
都内を発ったのは早朝の、まだ暗い時間だった。
新幹線でやってきたのだったか? 一人キャンプをするのに、あれだけの荷物を総動員して? 多くの乗客は、さぞかし顔をしかめたことだろう。
目眩を憶えずにはいられない。
波乗りしたみたいに足元が揺らぐ。どこから現実で、どこから夢なのか?
一人キャンプをしていたつもりだったのに、さっきまでずっと誰かと会話していた気がするが……。
それが誰だったか、思い出せない。その人物はどこへ行ったのか?
第一、なぜインドア派の自分が、わざわざ戸隠くんだりまで足を運んだというのか。人はそんな気まぐれを起こすものだろうか。
リュックを背負った保阪は、忍び足でキャンプ場を突っ切っている最中だった。
思い思いの場所で焚き火をしたり、夕飯をとっていたはずのキャンパーたちが立ちあがり、こちらを見ていた。
そこかしこで、直立不動のシルエット。
木陰のせいで頭が翳っていた。
保阪は、眼を凝らして彼らを見た。
いずれも異様な頭部だった。
キャンパーたちは、人間の頭をしていなかった。まるで花束をシャツの首に突っ込んだみたいに、誰もが大きな花を広げていた。
もの言わず、佇んでいた。
無理もあるまい。花には声帯がないのだ。
魅入られてしまい、眼を引き剥がしたくても逸らすことすらできない。
花人間たちはいっせいに保阪のもとに歩いてくる。手を差しのべ、よたよたと、しかし確実に。
――さっき誰かとしゃべった花人間にちがいない。
――誰か? いったい誰と、そんな話をしたんだ、僕は?
奴らはなにが目的かは、どうやらわからずじまいに終わりそうだ。
侵略のやり方としては、まわりくどすぎた。どうせやるからには人口密集地でやれば、それこそ爆発的に被害を広げられるだろう。わざわざ長野のキャンプ場で、キャンパーに偽装して保阪のような人畜無害に手をかけるとは婉曲的すぎる……。
そこまで考えて思いついた。
それとも都心は、今ごろすでに完全に奴らの手に落ちているとしたら?
異性の性的魅力に訴えかける容姿にモデルチェンジし、接触する。ビーオーキッドのように擬態して。
口づけだけで種を植え付け、かんたんに発芽させられるのだ。花人間に変態を遂げた者も、ゾンビのごとく増殖し、次々に人間を毒牙にかけていく。
それこそオセロで、たった数個の黒石が、ゲーム後半で一気に形勢逆転し、盤上を黒一色に染めてしまうように、今ごろ東京は大変なことになっているのでは……。
都心部がほぼ手中におさめられたから、次なるターゲットとして地方へ勢力を広げにきたのかもしれない。人口密集地に比べれば、消化試合みたいなものだろう。
急速に夕日は翳りつつある。冷気が取り巻いていた。
もしかしたらこの夕焼けは、そのまま人類の黄昏につながるのかもしれない。
じきに夜を迎える。奴らの時間がはじまるのだ――。
擬態者の時間に。
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暗くなった森の中で、5人の見座 リツコたちの声が聞こえた。花化した妖艶バージョンは食事の最中だ。
「こやつら、よくぞ我らの秘密の計画を見抜いたものだな」
と、年増な顔立ちと身体つきの見座 リツコが言った。
その両側には、幼顔の見座、眼と眼に開きがある見座、どこか混血のような顔つきの見座、ややぽっちゃりした容姿の見座が佇んでいた。
「記憶にバグを起こさせても、ここまで食らいついたのだ。人間にしてはよくやった」
「メガネの若者は、なかなか見どころがある。だからこそ我らの下僕に加えてやる価値はあると思うの」
「勘は悪くなかった。ただし我らは、植物型ミュータントでも侵略エイリアンでもない」
「我らは――神だ」
了
※参考文献
『脳はいいかげんにできている: その場しのぎの進化が生んだ人間らしさ』デイヴィッド・J.リンデン 夏目 大 (翻訳) 河出文庫