3.問題の写真集
「なんだか、納得いかないんだ。僕が好きなのは元の見座であって、娼婦みたいに色っぽいのは好きになれない。いくら私生活で魔性の女って陰口叩かれたって、清純そうに見える方がいいに決まってる。写真によって好きなショット、嫌いなショットが、こうも混じっているのは、なんだか納得いかないんだ……」
「納得いくもいかないも……。おまえもさ、手の届かない相手を追い求めるんじゃなく、リアルの彼女でも作れよ。彼女作って、その子のために、金使う方が生産的だぞ」
「僕にとっちゃ、見座に費やすのも生産的なの!」
「結局さ。なにが言いたいわけ? 長々と説明しているわりには、話が見えてこない」
保阪は真っ向から山県を見た。メガネの奥の眼に怯えの色が浮かんでいた。
「だって怖いと思わないのか? ゾワゾワしてるんだよ。僕の知っていた見座 リツコはどこへ行ったんだ。僕の記憶まであやふやで、なんだか足元を覆されるような落ち着かなさを感じるんだ。僕でさえ、本当に実在する自分自身なんだろうか? 君だって、本当に前から知ってる僕の同期なのか?」
そう言って、我が身を抱いた。思いつめたように俯く。焚き火の炎で、保阪の顔に暗い影がさした。
「ちょっ……。それって、カプグラ症候群じゃ……」
山県は思わず言葉を失くした。
山県が指摘したように、カプグラ症候群と呼ばれる精神疾患の事例がある。
よく見知ったはずの家族をはじめ、恋人や親友、隣人、職場の同僚などが非現実的に感じられ、瓜二つの替え玉に取って代わられているのではないかと妄想を訴えるケースだ。1923年にフランスの精神科医ジョセフ・カプグラらによって報告された。
ニューヨーク大学の神経学者は、2009年1月に『Neurology』誌に発表した症例の分析において、こう言及している。
――この種の妄想を抱く患者は通常、脳の左半球よりも右半球により大きなダメージを受けている。左半球は主として、直線的な思考や言語といった機能を司る傾向にあるのに対し、右半球は空間的能力に優れ、言葉の抑揚やアクセントをどのようにコントロールするかなどの『全体的な判断』が、より多く処理される傾向にある。
同氏によると、右半球がダメージを受けていることにより、家族や親しい人と一緒にいても、慣れ親しんだ感情の高まりを感じられないときがあるという。そこで患者の脳の正常な左半球はこのジレンマを、自己の断定的な論理によって解決し、『この人物は替え玉に違いない』と判断してしまうとされているのだ。
私は私である。
人間誰しも、そう信じて疑わないはずだ。
しかしながら、自己が自己であるための感覚とは、脳科学的に言えば、脳全体に張り巡らされた神経細胞の広大なネットワークによって、辛うじて支えられているにすぎない。したがって私とは、脳の一部分の『領域』というよりは、『プロセス』に近いとされているのだ。
してみるとカプグラ症候群の症例から、いかに自己同一性があやふやか思い知らされる。
私は、もしなんらかの事故が起きれば、この脆弱な自己という幻想は消えてしまい、私は別の誰かへと変異し、自分の両親や夫や妻、子どもたちが偽物であると疑うようになってしまうのだという。
「僕はメンタルの病気なんかじゃない」と、保阪は手のひらをかざした。「これだけ前置きしたんだ。山県は理論武装して僕に反論した。君の言い分はごくまっとうであり、理性的だと思うよ。だったら、これを見ろ」
かたわらのリュックの中をガサゴソやった。
すぐにA4判の、書籍らしきものを取り出す。
山県に突き出す。
表紙を見るまでもない。
問題の、見座 リツコの写真集であろう。
「おれを試したのか? ずいぶんと手の込んだことしやがって」山県は眼を丸くして言った。手にしていた紙皿と箸をサイドテーブルにどける。ビールをひと口、流し込み、口についた泡をグイと拭った。「なら、もったいぶらず、さっさと渡せよ。論より証拠。おれがチェックしてやる」
山県はひったくった。
保阪は顔をそむける。まるで見れば、失明してしまうとでも言わんばかりに。
本を手にした山県は、タープにぶら下げたLEDランタンをたぐり寄せ、手もとがよく見えるようにセッティングし、スイッチを入れた。
白樺の林の中は、すっかり夕日に染まっていた。そこかしこで夕飯の香りが漂っている。
キャンパーの和やかな声が賑々しく聞こえるが、二人の異質な世界とはかけ離れていた。誰も彼もが我関せずで、自分たちの世界に入り込んでいた。右手奥の女のグループも、輪になってうずくまり、談笑しながら箸やフォークを動かしている。
山県は頭からページをめくった。
遠慮なく親指に舌をつけて湿らせ、上質のマットコート紙を一枚一枚めくって検分していった。
◆◆◆◆◆
初っ端から渚で戯れる競泳水着姿の見座 リツコ。なるほど、容姿は幼く映った。陽光を照り返す肌もつやつやしている。
次のページは、シャツとショートパンツの恰好でジャンプした瞬間を捉えたショット。元気溌溂としていた。
しばらくページをめくると、見開きで、黒のビキニ姿での女豹のポーズがあった。これはいささか目に毒だった。
青いナイトドレスをまとい、見返り美人然とした写真は、たしかに別人のように色っぽい。憂いを帯びた横顔に魅入ってしまう。
下着一枚で腹ばいになったまま無防備なリラックスポーズや、腰のくびれを強調した横座りは、身体のラインがきれいだ。しかしながら、顔の造りがさっきとは別人のように、彫りが深く見えるのはどういうわけか。
保阪は色っぽい写真に戸惑ったと言ったが、山県にしたら、むしろこちらの方が魅力的に映った。
その表現では生ぬるい。――性的昂奮を催したほどだ。もしもこんなあられもない姿で山県の眼の前に現れたのなら、どうにかなってしまいそうなほどの劣情を掻き立てた。
さらにページをめくった。
ありがちな膝立ち脱ぎからはじまり、ベッドに寝そべり、手を差しのべた姿態。前屈みで顔の横でピースサインのバストアップ。
これらは保阪好みの清潔感と幼児性を感じさせた。女の好みも、男によって千差万別というわけだ。そういう意味では、この写真集の見座は、男性読者の幅広い嗜好にたえ得ると言えよう。
水着でのサービスショットは本の中盤にもあった。
少女の面影を残しているものもあれば、全身これエロスといった対極的なショットも混じっている。肉付きのいい、熟したトマトのように年増な香りを放つものさえある。
カジュアルな服装でテーブルの前に腰かけ、物欲しげに頬杖突いた写真は、言われてみれば眼と眼が離れている気がする。
お次はダブダブのニットセーターを着て、ハイネックに顎を埋め、指まで隠れたショット。
一転して、スカートをたくしあげ、下着を露出させたポーズ。
キャミソール姿で正座を崩し、身体をカーブさせた定番のもの……。
結局、最終ページに至るまで、胸の谷間や尻の割れ目が見えるだけで、肝心の部分は写っていない。