第二話 自我
自分の声が脳内に響いていた。
──殺せ。殺せ。殺せ。
真っ赤に塗りたくられた視界の中に、自分の手が映った。
そこには、何かが握られていた。生暖かいそれは、赤黒い肉片だった。
ぐちゃり、と嫌な音を立てて、俺の手がそれを握り潰す。掌からこぼれ落ちた肉片からは、黒い羽が覗いていた。
──殺せ殺せ殺せ殺せ。
自分の意思に反して、勝手に身体が動く。ぐるりと旋回した視線の先には、先程の少女がこちらに向けて刀を構えている。その背後には、両翼を失って血みどろで蹲る、黒い進人が横たわっていた。
俺がやったのか。違うんだ。俺はこんなことがしたかったんじゃない。必死で目を背けようとしたが、身体がいうことを聞かない。
視界に映る自らの腕が、汚れを払うようにして進人の翼だったものを投げ棄てた。
その腕が、歪に尖った鱗で覆われている事に気付く。血に濡れて赤く光る拳を見て、俺は自分が進人になっている事をようやく理解した。
──なぜ庇う。なぜ刀を向ける。
声が響く。少女への憤りが脳内を支配しようとする。
やめろ。やめてくれ。叫ぶようにして、自分の身体の制御を取り戻そうとする。だが、その声は口から発されることなく、脳内に虚しく響くだけだった。
──お前も死ね。死ね。死ね!死ね!!
思考回路が灼かれるような錯覚に陥る。必死の抵抗も虚しく、俺の拳は少女に向かって振るわれた。
攻撃を刀で受けた少女が、衝撃で後ずさる。やめろ。俺は彼女を傷付けたくない。ただ守りたかった、ただ力になりたかっただけなのに。
少女が何かを叫んでいる。その声は俺の耳には届かない。
──殺す殺す殺す殺す。全て殺す!全て!
暴走した激情が身体中を走る。先の一撃よりも大きく振りかぶられた拳が、少女へと振り下ろされた。
鈍い衝撃が拳に伝わり、少女の身体が勢いよく吹き飛んだ。赤い鎧で再武装した少女の身体が、紙細工のようにへしゃげる感触があった。
辛うじて受け身を取った少女が、口から血を吐いて膝をついた。
止まれ。止まれ!
己が内に存在する、凶悪な自分を必死で止めようとした。
俺ではない俺は、その抵抗を歯牙にも掛けない様子で、黒い進人へと歩み寄る。
ゆっくりと、愉しむように。黒い進人へと手が伸びる。進人の顔に、先程までの凶暴な笑みはなかった。酷く怯えた眼差しで、震えながらこちらを見ている。
歪んだ掌が進人の首を掴もうとしたその瞬間、側頭部に衝撃が走った。
俺はぐらり、と体制を崩し、衝撃の出先に視線をやる。
少女がこちらに刀を振るっていた。その斬撃は、俺の身体を押し退けるにとどまり、ダメージを与えることは出来なかった。
少女はこちらを強い眼差しで見つめた。怒っている様な、悲しんでいる様なその瞳の奥には、微かに恐怖が滲んでいる。
邪魔者を振り払う様にして、俺の腕が少女の方に振るわれる。飛び退く様にして躱した少女に対し、息を吐く猶予すら与えまいと言わんばかりの追撃が降り注いだ。攻撃を受けきれずに体制を崩す少女の首を、俺は乱暴に掴んだ。
苦悶の表情を浮かべる少女を、思い切り投げ捨てる。
少女は近くにあった木の幹に勢いよく叩きつけられた。ぐしゃり、という音と共に崩れ落ちた少女は、到底動ける状態ではなさそうだった。
殺してしまう。守ろうとしたものを。俺の手で、殺してしまう。
俺が、ゆっくりと少女の方へと近付く。勿体ぶる様に少女の方へと伸ばされる腕は、これで殺す、と。そう言っている様だった。
「──て」
少女が何かを呟いた。ひどく遠くに感じるその声は、何故だか聞き逃してはいけない様な気がした。
「──を壊して」
少女がこちらを見つめながら、再度呟いた。
必死に、その声を聞き逃すまいと耳を澄ました。
「──仮面を、壊して」
俺の腕が大きく振りかぶられた。
「ッああああああ!!!!!!!」
全力で叫ぶ。
全神経を、自らの腕に集中させた。
一瞬だけ。この一瞬だけでも。この拳を、取り返すために、叫んだ。
振り翳した拳が勢いよく振り下ろされる。
その拳は、少女を貫くことなく──自らの顔を、勢いよく殴打した。
ガラスが割れるような甲高い音と共に、身体中の激情が引いていく。
溶けるようにして、俺の身体を覆う装甲が消えていくのがわかった。
力が抜けていく。指先一つすら動かせないほどの虚脱感が全身を襲った。
覆い被さるように崩れ落ちる俺の身体を、少女が優しく抱きとめた。
「もう大丈夫」
遠のく意識の中で、少女の優しい声が確かに届いた。
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柔らかいベッドの上で目が覚めた。
仰向けに横たわったまま、天に翳すようにして自分の手を見つめる。その手はよく見慣れた、俺自身の手だった。
「あら、目が覚めたの?」
聞き覚えのある声がした。身体を起こし、声の方を向くと、あの少女が部屋に入ってくるところだった。
「貴方、2ヶ月くらいずっと眠ってたのよ」
そう言って、部屋にある洗面所の方へと歩いて行った少女は、蛇口から温かいお湯を出してタオルを濡らした。
生きていた。安堵感が溢れた。俺は──彼女を殺さずに済んだのだ。
泣きそうな顔で少女を見つめる俺をよそに、少女はテキパキと作業を終えると、ベッドの脇にある椅子に腰掛けて温かいタオルを差し出した。セーラー服から覗くその腕には、白い包帯が巻かれているのが見えた。
「もう自分で拭けるでしょ?」
タオルを受け取らずに硬直している俺の顔を、少女が怪訝そうに見る。
俺は半ば無意識に、勢いよくベッドの上に両手をついた。
「ごめん」
唐突な土下座に、少女はきょとんとした顔で何が?と答えた。
「君を殺すところだった」
頭を下げ続ける俺に、少女は顔を上げるように促した。
「謝ることないわ」
「でも、俺……」
「いいの。こちらこそごめんなさい。貴方を危険な戦いに巻き込んだ」
「違う。俺が飛び出したんだ。君を守ろうとして、その結果、傷付けた。ごめん」
「謝らないでって言ってるでしょ」
俯く俺の手を取るようにして、少女がタオルを握らせた。そのタオルは、優しい温かさだった。
「貴方が進人だったから良かったけど、そうじゃなければ貴方は死んでたわ。私の力不足のせいでね」
少女は、まるでその言葉を自分に言い聞かせるかのようにして、言葉を紡いだ。
「だから、おあいこ」
自分が進人であるという事実を改めて告げられて、ショックじゃなかったと言えば嘘になる。だがそれ以上に、少女に謝らせてしまう自分の不甲斐なさが苦しくて、俺は俯いた。
重苦しい沈黙が二人の間に流れた。
「だけど、」
少女が口を開いた。俺が顔を上げると、少女は少し照れ臭そうに目線を外して、こう言った。
「感謝だけは伝えておくわ。あの時、私の声を聞いてくれて、ありがとう。貴方のお陰で、私は死なずに済んだ」
あの時、暴走する自我の中で彼女の声を聞いたのを思い出す。
『──仮面を、壊して』
あの声がなければ、今頃どうなっていたんだろう。
感謝するのは、俺の方だった。
「俺も──」
俺の声を遮るようにして、少女が立ち上がった。背中を向けて、扉の方へと歩いて行く。
「タオル、使い終わったらそこに置いておいて。あと、ボスが呼んでるから、歩けそうだったら二階に来ること」
そう言って部屋を出ていく少女の耳は、少しだけ赤くなっていた。