代償
授業参観から数日が過ぎた。あれから僕はお父さんと一緒に、殴ってしまった女の子のもとへ謝罪をしに行った。お父さんはひどくやつれたような表情で、女の子の母親に何度も頭を下げた。途中、その母親の口からお母さんの名前が何度か出ていた気がしたけど、僕は話をよく理解できずに、お父さんの隣で黙って頭を下げることしかできなかった。
家に帰ったあと、お父さんに聞かれた。
「どうして殴ったりしたんだ?」
「……」
父の問いに、僕はうまく答えられなかった。あの日のように、僕の口は動かそうとしてもうまく動かず、ただ空気が肺から漏れるだけだった。
「黙ってちゃ分からないだろ? 怒らないから言ってみなさい」
お父さんを困らせるわけにはいかない。いい子でいなければならない。そう思った僕は、無理やり声を出した。
「おっ……! おかあ、さんのこと……悪く言われて……」
僕は言葉をつっかえさせながらも、なんとかあの日起きたことをすべて話した。お父さんは僕が話し終えるまでの間、何も口を出さずに黙って話を聞いていた。
僕が全部話し終えた後、お父さんは言った。
「お母さんのこと、学校で話したのか?」
僕は、お父さんにお母さんのことを話すなと言われたときの、あの怖い顔を思い出した。
「い……一回も話してない……」
「そうか……」
お父さんは、しばらく考え込むように顎に手を当てていた。その間、僕は何か悪いことをしてしまったんじゃないかと、そわそわした気持ちで落ち着かなかった。
「じゃあ、このことはもういい。今日はゆっくり休みなさい」
お父さんは僕を叱らなかった。それ以来、あの参観日の出来事は一切話すことがなかった。
それから、学校で僕へのいじめが始まった。朝教室に入るたびに、女子たちから罵声を浴びせられ、男子からは、のけ者扱いされる日々だった。
それでも、健だけは唯一僕と一緒にいてくれた。健とは小学校一年生の時からの友達で、これまでもずっと仲が良かった。お互いの家に行って遊んだことだって何度もある。お母さんが家からいなくなってからは、遊ぶ機会が減ってしまったが、それでも健だけはずっと友達だった。
「なあ日向、なんでお前ずっと早く家に帰ってるんだ?」
「そ、それは……前にも言ったけど、ちょっと、家のこと手伝わないといけなくて……」
「お前の母ちゃんは? 今までずっと母ちゃんが家事とかやってたんだろ?」
「えっと……それは……」
「まあ、答えたくないならいいけどさ。お前最近ずっと暗い顔してるし、なんかあるなら言えよ? 俺たち友達なんだし」
「うん……ありがとう……」
僕はずっと健にあいまいな返事しか返せなかった。お母さんが居なくなってから、ずっとこうだ。言葉をうまく出せない。何かが口の中でつっかえているみたいに、途中で言葉が止まってしまう。
それからはずっと、学校では健としか会話をしなくなった。僕は健やお父さん以外の人と会話をしようとしても、うまく喋ることができなかった。そんな僕の様子を見て、クラスのみんなは僕のことを気持ち悪がった。
「どけよ根暗」
「何黙って見てんだよ、気持ち悪い」
「アキに近寄らないでよ!」
「親が最低なやつだからこんな子供になるんだな」
クラスの人たちからの悪口は日に日に増していった。そのたびに、僕と一緒にいた健は「やめろよお前ら!」とか「日向にだって事情があるんだ!」とか、僕を庇護するようなことを言ってくれた。
「事情ってなんだよ? 事情があったら殴っても良いのかよ」
「それは……!」
「何か知ってるならそいつの代わりに教えてよ遠藤。ていうか、本当は事情なんて何もないんでしょ?」
「……! もういい。行こう、日向」
「う……うん……」
「結局お前は遠藤の後ろに隠れたままなんだな! 根暗!」
僕はその言葉に何も言い返せず、ただ黙って健の陰に隠れていることしかできなかった。
「日向も、何か言い返さないとダメだぞ。ああいうのは何もしてこないってわかったら、調子に乗るからな」
学校から家までの帰り道。健にそう言われた。僕は思い切って、自分が健やお父さん以外の人とうまく喋れなくなったことを打ち明けた。
「な、何も言えないんだ……健とお父さん以外の人と話そうとすると、声が出せなくなるんだ」
「……?」
「な、何?」
健は僕を怪訝な顔で見ていた。
「お前、最近父ちゃんの話はするけど、母ちゃんの話はしないよな」
「え……?」
「この前クラスで聞いたんだけど、お前の母ちゃんって、今いないのか?」
「……」
僕は何も答えなかった。言えばお父さんに怒られるような気がして、何も言えなかった。言ったら、お母さんだけじゃなく、お父さんまで僕を置いて行ってしまうような気がして怖かった。
「なんで何も答えないんだよ。俺とも話したくないのか? 友達なんだから隠し事すんなよ!」
だんだんと、健の口調は荒々しくなっていった。
「ち、違う……! ただ、お父さんに言われてて……」
「だから、何をだよ。言ってくれなきゃわかんないだろ?」
「そ……それは……」
「……もういい! 俺は先に帰る!」
「ちょ、ちょっと……! 待って……!」
健は僕の言葉を待たずに走っていってしまった。僕は、心にできた虚無感を持て余し、ふらついた足取りでなんとか家に帰った。
次の日から、健は僕と話してくれなくなった。僕が話しかけても。無視するようになった。
「た、健……! この前は、ごめん」
「……」
こんな日がしばらく続いた。健は僕と話してくれなくなったけど、僕以外の人と話しているところも見なかった。
それからまた数日が経った。僕はこのままではいけないと思い、健にお母さんのことについて話すことにした。お父さんに怒られてしまうことよりも、今後も学校で健と話せなることが、今は一番怖かった。学校には健以外に僕の味方はいなかったからだ。
「た……健! ちょっと待って!」
放課後。健の姿を追いかけて、僕は声を掛けた。健は僕の声に気づき、顔をこちらに向けた。その瞬間、違和感を感じた。健の表情がいつもと違ったのだ。
「健……」
「日向……」
健は僕の顔を見ても、表情を何一つ動かさなかった。ずっと無表情のまま、僕のことを見ている。
「健……? どうしたの? なにかあったの?」
僕は不安な気持ちに駆られて、健の肩を掴んだ。その瞬間、健は顔をしかめた。
「いっ……」
「た、健!?」
「いきなりさわるな……」
「健……なんか変だよ……いったい何があったの」
「何があったかだって……? よくもそんな能天気でいられるな!」
突然の大きな声に、僕は追わず健から身を引いてしまう。健はゆっくりと立ち上がり、服の裾をゆっくりと捲った。
「そ、それって……!」
「クラスの連中にやられた……お前の母ちゃんのこと聞かれて、何も知らないって言ったら、これだ。お前があの時話してくれてれば……!」
健の体には、いくつもの痣があった。背中や腕や胸、いたるところに。
「なんで……」
訳も分からず、頭が混乱する。どうして僕は何もされずに、健が傷つけられたんだ? 健は何もしていないのに……。
「こんなことなら……お前のことなんか放っておけばよかった……」
健は苦虫を噛み潰したような表情で、僕のことを睨みつけた。僕は健の言葉を聞いて、ようやく理解した。今まで、健は僕のことをずっとかばっていてくれていた。僕が悪口を言われるたびに、僕の代わりにみんなと戦ってくれていた。それが、クラスの皆にとっては不快だったのだろう。いじめの標的は、いつの間にか僕から健にかわっていた。
「ご、ごめん健……! 僕、今日は健にお母さんのことを言おうと……!」
「もういいよ! 今更何なんだよお前は!」
健は僕を突き飛ばした。僕は、硬い廊下の床に尻餅をついた。
「もう関わらないでくれ……」
健は力なく項垂れ、とぼとぼと校門の方まで歩いて行ってしまった。僕は、この学校で唯一の親友から拒絶されたショックで、しばらくその場を動くことが出来なかった。頭の中で、何度も健の言葉がリフレインしていた。




