ごめんなさい
桜田町に引っ越すよりもずっと前、僕は父さんと母さんと、三人で東京で暮らしていた。その頃の僕は、学校で充実した生活を送っていた。友達は人並みにいたし、勉強だってそこそこできた。特に算数は、クラスの中の誰よりも得意だった。お母さんは柔らかい笑みで「ちゃんと勉強してて偉いね」とよく頭を撫でてくれた。その時の手の感触は今でも覚えている。
お父さんとお母さんの仲はあまり良くなかった。夜中に喧嘩の声が聞こえて眠れなかったことが何度かあったし、お父さんと話す時のお母さんの顔はいつも不機嫌そうだった。
それでも、僕がテストで良い点を取ると、二人とも喜んでくれた。その笑顔を見るととても安心できて、算数のテストの日の夜だけは喧嘩の声はしなかった。
僕は毎日必死に勉強した。喧嘩をさせないために。二人が仲良くしてくれるように。でも、その想いは届かなかった。
ある日突然、お母さんは家からいなくなった。お父さんに「お母さんはどこ?」と聞いても「今は会えないけど、きっとまた帰ってくる」と言って、それ以上のことは何も答えてくれなかった。
その日から、夜中にお父さんとお母さんの喧嘩の声を聞くことはなくなった。それなのに、僕はお母さんがいた時よりも寝苦しい夜が続いた。
お母さんがいなくなってから、僕は学校の友だちと遊ぶ頻度がどんどん減っていった。お母さんが今までやっていた家事を、お父さんと二人でやるようになったからだ。何度も友達からの遊びの誘いを断る僕は、次第に周りから距離を置かれるようになった。
そんな日が続いていた中、ある事件が起きた。それは授業参観の日の出来事だった。数日前、お父さんに授業参観のプリントを渡した。お父さんは顔の皺を寄せて、申し訳無さそうな表情で「ごめんな……その日は父さん、仕事があるから」といって、プリントに書いてある不参加という文字に丸をつけた。その丸を見るだけで、無性に泣きたい気持ちになった。それでも、帰ったらお父さんに自慢できるようにと思って、先生に質問されても全部答えられるくらいにいっぱい勉強した。
そして授業参観の当日。教室の中にはいろんな大人が入ってきていた。知らない大人たちに見られている状況に何だか緊張して、予習した内容を忘れてしまいそうだった。だから僕は、授業が始まるまで教科書とにらめっこをしていた。
僕が教科書を読んでいる時、隣から声がかかった。
「日向の親ってだれ?」
僕にそう聞いた子の名前は遠藤健。今まで仲良くしていた友達がみんな僕から距離を置く中、唯一ずっと一緒にいてくれた友達だった。
「今日は、忙しいから来られないんだって。だからここにはいないよ」
「ふーん。お前んちもそうなのか。俺もとーちゃんとかーちゃんどっちも忙しいって言ってた」
僕は、お父さんに「お母さんが家にいないことを学校では話すな」と言いつけられていた。だから僕は、健にもお母さんのことを話していなかった。健には本当のことを言いたかったけど、その時のお父さんはとても怖くて、誰にも言えずにいた。
「でも、いっぱい勉強したから、いっぱい問題に答えてお父さんに自慢するんだ!」
「だな! お前のかーちゃんもきっと喜ぶぞ!」
「あ……うん……」
「? どうしたんだ?」
「い、いや。別になんでもないよ!」
突然冷水をかけられたような、そんな嫌な気持ちが渦巻いたが、僕はすぐさま気を取り直して予習に集中した。
「よーしみんな席につけー」
チャイムが鳴り、担任の先生が教室に入る。その日はいつもと服装が違って、ジャージではなくお父さんがいつも仕事で着ているようなスーツ姿だった。
「先生今日はいつもと違うー!」
クラスのみんなは先生の事を茶化した。先生は「こらこら、そういうことは言わなくていいから!」と照れくさそうにしていた。いつもと違った雰囲気の中、こうして授業が始まった。
授業の科目は算数だった。僕の得意科目だったから、先生がみんなに質問する度に、僕は真っ先に手を上げた。そして当てられる度にちゃんと正解を答えた。
「どうした日向〜! 今日はいつもより調子がいいな〜!」
少し照れくさくなりつつも、僕は清々しい気持ちになっていた。これでお父さんにちゃんと褒めてもらえる。こうしていい子にしてたら、きっとお母さんは帰ってくる。そう思うと、どんどんやる気が湧いてきた。その時のクラスの皆の視線には一切気付かずに、僕は答えを言い当て続けた。
授業が終わる数分前に、先生が最後の問題を出した。僕はすぐに答えが分かり、今までと同じようにすぐさま手を挙げた。しかし、今回の問題は僕以外に手を上げる人はいなかった。僕はその時ようやく周りに目を向けた。そしてその瞬間、周りの空気が冷たくなっている事にようやく気がついた。
「じゃあ日向、この問題の答えは?」
先生が僕に答えを促すが、僕は授業のことよりも、周りのみんなからの視線のほうが気になって仕方がなかった。なんでみんなはあんな顔をしているんだ。これじゃあまるで僕が悪者みたいだ。
「おい、どうした日向? もしかして答えが分からないのか?」
先生は、他の生徒からの僕への視線がおかしい事に気づいていない。僕はそのことに困惑し、うまく答えを言えずにいた。
「……なんだよ。答えられないくせに手を上げたのかよ」
近くから、小さな声でそんな言葉が聞こえてきた。僕は必死に答えを言おうとするが、なぜだか僕の口はうまく動いてくれなかった。そんな僕の様子を見て、クラスの中がざわつき始める。必死に口を動かそうとするが、みんなの冷たい視線が、僕の体にまとわりついて何もさせてくれなかった。
「知ってる? 奥村のお母さんって、お父さん以外の男の人とどっか行っちゃったんだって」
「それって、浮気ってこと? 最低じゃん」
「ね〜。最低だよね。それで授業参観に親が来てないみたい。それなのになんであんなに頑張って答えようとしてるんだろう」
ひそひそ声が、僕の耳に大きな音となって響く。僕は自分の心の奥底から溢れ出る感情を留めておくことが出来なかった。湧いて出た感情は、まとわりついた皆の視線をすべて忘れさせた。身体には熱がこもり、その衝動のまま、僕は声の方を振り返った。
「お、おい! 日向!」
なにか音が聞こえたような気がする。それは、先生の声であり、周りの生徒の声であり、僕の声でもあり、鈍い、何かがぶつかったような音でもあった。
音に少し遅れて、手にじりじりとした痛みを感じた。その瞬間、僕の視界は一気に色を取り戻す。悲鳴の上がる教室。何かを叫んでいる先生。目の前には、さっきまでひそひそ声で喋っていた女子生徒が床に座り込んでいて、頬を抑えていた。どうやら泣いているようだった。
「何してるんだ! おい!聞いてるのか日向!」
先生の声が、ようやく意味を持って僕の頭に入り込んでくる。僕はその声を聞いた瞬間、自分が何をしてしまったのかをようやく理解した。
「いきなり何するのよ! アキ、ねえ大丈夫?」
女の子の母親らしき人が、アキという女子生徒に駆け寄った。僕はさっきまで体の中にあった熱が、今度は嫌な汗となって体の外に出てくるのを感じた。
「ひっぐ……」
アキと呼ばれた女の子はずっと顔を下に向けて泣いている。僕は今、この子の頬を思いっきり殴ってしまった。周りのクラスメイトや、その保護者たちは突然のことに少しパニック状態になっていた。先生は側まで駆け寄り、僕の腕を掴んだ。
「おい、日向! 聞いてるのか!」
「えっ……あっ……」
今まで先生に怒られたことのない僕は、明らかに怒気の混じった大きな声に体を震わせてしまう。そしてその声は、お父さんとお母さんが毎晩喧嘩をしていた声と同じもののように感じた。
「今日は授業参観で、いろんな親御さんがみんなの授業の様子を見に来てくれているんだぞ! そんな大事な日になんてことをしているんだお前は!」
「ちょっと、うちの子にちゃんと謝りなさいよ!」
女の子の母親は、僕をキッと睨みつけている。その顔を見て、僕の心は限界を迎えてしまった。目の奥から熱いものが流れてきて、視界がジワリとにじむ。目に力を入れてそれを止めようとするが、力を入れれば入れるほどにその流れは強くなり、やがて崩壊してしまう。僕は、我慢することを諦め、ボロボロとあふれる感情とともに涙を流した。
「おい、日向。ちゃんと謝らないとダメだろう。何があったか知らないが、殴るのはよくないぞ」
そうだ……僕は殴ってしまった。一瞬我を忘れて、衝動に任せたままクラスメイトを傷つけた。僕はお母さんが居なくなってからも、ずっといい子であろうとしてきた。お父さんとお母さんに仲良くなってほしいから……でも、今日僕はいい子でいることが出来なかった。きっとまたお母さんはお父さんと喧嘩をする。たとえお母さんが家にいなくても、僕の中でお父さんとお母さんは喧嘩をする。僕はきっと今晩も眠れないのだろう。先生の声に紛れて、今も頭の中で二人の口喧嘩はずっと続きっぱなしだ。
「ごめん……なさい……」
僕は謝った。その謝罪は、今目の前でうずくまって泣いている女の子にではない。頭の中でずっと喧嘩をしている両親に向けての謝罪だった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
いい子でいられなくてごめんなさい。その言葉を言うべき相手は、もうどこにもいないのに、僕は何度も何度も謝罪の言葉を繰り返した。




