日常と非日常
平時のありがたさとは、失って初めて気付くものである。
高熱を出した時、健康とは何か分からなくなるように。或いは世界中で疫病が流行って、色んな行動に制限を掛けられるように。
日常に飽いて非日常を願った僕へと、それは唐突にやって来た。
失った後で日常の大切さに気付いても、それはどんなに望んだってもう返ってこないのだ。
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「——ん!おーい、兄さん!起きて!」
少年の声で目が覚める。覚醒しきらない意識にもどかしさを感じながら、僕は体を起こした。
「おはよう、兄さん。もう起きる時間だよ。ほら、準備して!」
「んん……」
この、情けなくも年下の少年に起こされていた男が僕——白羽葵だ。
そして、僕を起こしてくれた年下の少年こと三歳下の弟は、名を白羽 莉久と言う。
自堕落な兄と違いしっかり者の彼は、僕を起こすだけ起こした後、さっさと階下へ降りていってしまった。
「おはよう、葵」
「おはよう母さん」
着替えて僕も下へ行くと、既に母が朝食の準備をしてくれていた。莉久も父も、無言で母謹製の食事を摂っている。
「……いただきます」
父とは挨拶を交わさないまま、僕も朝食を食べ始めた。正直なところ、父とは反りが合わずあまり上手くいっていない。弟と比べて出来の悪い僕を、父は『出来損ない』と言って憚らないのだ。
——朝食を終えると、もう家を出なければならない時間だった。新聞を読んでいるせいでまだ食べ終わっていない父を差し置き、僕は玄関へ向かう。
「ふぅ……行ってきまーす」
聞こえているのかいないのか、いつも何かしら返してくれる母からの返事は無い。
そんな気分の時もあるのだろう、と挨拶は繰り返さないままに外へ出る。眩い朝日に目を細めながら、見飽きた通学路を一人歩き始めた。
「ようっ、葵!相変わらずしけた面してんなぁ……ちゃんと運動してるのか?」
「してないよ。耀太は相変わらずうるさいな……」
不意に大音量で声を掛けてきたのは、幼馴染みかつ腐れ縁の清水耀太だ。筋肉質で大柄な肉体に、日焼けして黒い肌。スポーツ刈りにしてある頭髪は、ツンツンとして痛そうである。
「まあそう邪険にすんなって。どうだ?葵も部活に入って運動始めれば、ちょっとはマシな顔つきになって友達も増えるかもだぞ。折角背も高いんだし、ウチのバスケ部とかさ!」
「やらない。何回も言ってるけど、運動は好きじゃないんだ。……というかその勧誘、いい加減諦めなよ。去年一年間誘って全部断られてるんだから、望み無しとか思わない?」
「思うが、俺は諦めん!お前の幼馴染みとして、俺は絶対にお前を見捨てないぞ!」
「そりゃどーも」
昔から変わらず暑苦しい耀太に、適当な返事をしてその場をやり過ごした。
その後は数学の宿題がどうだったとか、今日は体育が無いからどうだとか。他愛も無い会話を続けて、通学中の暇を潰す。
そして、僕達の通う高校——県立櫻庭高等学校に到着した。僕も耀太も、今年でここの二年生になっている。
まだ四月ともなれば馴染んでいない新入生ばかりで、春特有のどこか落ち着かない雰囲気が辺りに満ちていた。
「よし……んじゃあ俺は新入生の勧誘に行ってくるから、また後でな!」
「ん、分かった。頑張れー」
校門を過ぎた辺りで耀太とは別れ、僕はそのまま教室へと直行した。
「あ、おはよう白羽くん!」
教室の扉を開くと、その近くで固まって話をしていた女子グループの一人から声を掛けられる。
「おはよう、如月さん」
彼女は如月夏鈴。小学校からずっと同じ学校へ通っているが、それほど接点がある訳では無い。栗色の髪をいつもポニーテールにしており、それがトレードマークにもなっている。明朗快活な性格から男女共に人気が高く、かなり目立つ存在だ。
自分の席に座った後は、携帯を弄ったり机に突っ伏して寝たりして、ホームルームが始まるのを待つ。
耀太が時間ギリギリで教室に来て、そのすぐ後に担任が来て。ホームルームが終わったら授業が始まって、それも終わったら休み時間。何回かそれを繰り返せば、いつの間にか一日も終わってる。
大して変わり映えしない、平和で退屈な日常。その繰り返しに飽き飽きして、僕は何か目の覚めるような、非日常が訪れないかと期待する。
——それすらもまた、日常の一部になっているけれど。
真面目に授業を受けたり、不真面目に寝たりしている内に、もう放課後だ。夕暮れ色に染まる校庭を横目に、強烈な眠気が僕を襲う。
「今日は、やけに眠いな……」
別に、急いで帰らなければならない理由も無い。少し遅れて帰ればいいだろうと、誰も居なくなった教室で一人、僕は目を閉じた。
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「——い!おーい、葵!帰るよ!」
女子の声で目が覚める。覚醒しきらない意識にもどかしさを感じながら、僕は体を起こした。
……しかし僕のことを下の名前で呼ぶ女子なんて、誰かいただろうか?
「あっ、起きた。大丈夫?今日ほとんど寝てたみたいだけど……」
「——如月、さん?」
やけに距離感が近いが、声の主は如月夏鈴だった。そんな彼女に、僕は違和感を覚えて——
いや、それよりももっと大きな違和感が、自分の中にあった。
声だろうか。違う、声だけじゃない。髪、首、腕、胸、脚——全身の至るところに、強烈な違和感がある。
恐る恐る、僕は自分の体を確認しようと下を向いた。
「葵、本当に大丈夫?何か——」
「何だ、これ」
彼女の言葉は耳に入らない。今の僕には、人の話を聞けるほどの余裕なんて無かった。
——だって、僕の体が、僕のじゃ無かったから。
男じゃありえない程大きく、胸が膨らんでいた。声が高かった。髪も長かった。服も違った。
驚いて立ち上がる。視点が普段と比べ物にならないくらい低い。如月さんよりも低い。太ももが露出している。足元がスースーする。
信じ難いことに、だがどこをどう見ても、僕は女の子になっていた。
「き、如月さん!何で、いつの間に僕は、こんな体に——」
そんなこと、彼女に聞いても答えを得られないのは分かっている。しかし混乱する僕の脳は、藁にも縋る思いでこの状況の答えを彼女に求めた。
「……?なんでそんなにオロオロしてるのか分からないけど、心配しなくてもいつもの葵と変わらないよ」
「——え?」
自分の耳を疑った。彼女から得られたのは求めていたものなんかじゃなく、それどころかもっと残酷な何かだった。
どこからどう見ても僕は僕じゃないのに、彼女は僕を僕だと認識している。訳の分からない状況に、頭がどうにかなりそうだった。
「き、如月さん。僕って男……だったよね?」
冷や汗が止まらない。
僕の質問を聞いて、彼女は首を傾げる。
「えっとー……葵はずっと女の子だよ?」
——求めていた非日常は、僕の望まぬ形で訪れた。
最後まで読んでくださってありがとうございました!