第九話 通学ミソジ
朝食が並ぶテーブルに、一人の青年が座っている。
「おはよう、母さん」
台所の方から、上品そうな女性が淹れ立てのコーヒーを片手に歩いてきた。
「おはよう、今日は早いのね」
「ちょっと、目が覚めちゃって……、父さんはもう仕事に?」
「ええ、なんか急患が入ったとかでタクシーに乗ってかなり早く出てっちゃったわよ」
テーブルに置かれたコーヒーをゆっくりと飲みながら青年は、ため息交じりに、誰にも聞こえない大きさでこう言った。
「俺の未来の姿はあれか」
三人家族には広すぎるテーブルに、パン、スクランブルエッグ、ソーセージ等が湯気を上げている。
黙々とそれらを口に含み、すっと席を立った。
「じゃあ、いってくるよ」
身支度を整えて、玄関を出る。
閑静な住宅街、都内でも一等地に立つ豪邸だ。
「いってらっしゃい」
母親が見送る声が届かないほど、門扉までは遠い。
青年は、いつものように高校へと向かう。
毎日、毎日同じ道を、同じ目的地に向かい、また、同じ家に帰ってくる。
それをただ反復していく作業。
変化があるとすれば、食事のメニューくらいだろうか。
ただ、今日はいつもと違うところがあった。
いつもより、早く目が覚めた。
ただ、それだけのことだが、青年にはちょっとした高揚感を感じさせる出来事であったようだ。
「おはよう、操真君」
道すがら同級生に声をかけられた。
「あぁ、おはよう」
「なんか、いつもより早くない?めっちゃめずらしいんだけど」
笑いながら、同級生の女の子が操真と呼んだ青年の肩をバシバシたたく。
「痛いって、ちょっと今日早く目が覚めたんだ、変な夢を見て…」
と言いかけて、ふと考えた。
変な夢を見て?
「ゆめ?どんな?」
同級生は、不思議そうな顔をして操真の顔を覗き込む。
「あ、いや、なんかそんな気がしただけ、たぶん見てない」
操真は、額から出る汗をぬぐいながら言った。
「何それ、へんなの」
同級生は、笑いながらまた、操真の肩をバシバシと叩いている。
しばらく、二人でいつもの通学路を歩いている。
少し時間が早いせいか、登校する生徒もまだまばらだ。
「そういや、今日はやたら暑くない?」
「え?どっちかっていうと肌寒いけど……操真君、熱でもあるんじゃない?だいじょぶ?」
熱い、とにかく体中に熱がこもっているように感じる。
今朝家を出るときまでは、何にも感じなかったのに。
夢の話をしたあたりから、突然体中が熱くなってきたようだ。
調子は悪いが休むほどでもないかと、少し重い体を進める。
そして、二人は校門の前まで来た。
私立覇有高等学校。
都内でも、有数の進学校で卒業生は全員一流の国公立大学や有名私立大学への進学を果たしている。
各界の著名人もこの学校の卒業生が多い。
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」
「なに?」
「私の妹がさ、こないだなにかのオーディションか面接に行ってきたんだけどさぁ、なんか変なんだ」
「変って?」
「帰ってきたからどうだった?って聞いたら、どこになんの面接に行ってきたか何にも覚えてないんだって!」
「確かに変な話だね」
「でしょ?操真君の家ってお医者さんでしょ?なんかの病気なのかな?」
「健忘症、記憶喪失の類だろうけど、すごいストレスを受けたとかかな?父親は外科医だし聞いてもわかんないかな……」
「そっか、ごめんね変な話して」
「いや、興味深い話だったよ、心配だったら一度病院に連れて行ってみれば?」
操真は、少し考え込んだあと、
「ところでさ、君、名前なんだっけ?」
ここまで一緒に登校してきた同級生に真顔でこう言った。
「へ?ちょっとひどくない?おんなじクラスなのに名前知らないの?」
まさかの質問に、少し顔を赤くしながら同級生は答えた。
「月野よ!ちゃんと覚えといてよね、確かに数えるほどしか話したことないけど……」
「ごめん、ごめん、あんまりクラスメイトとかに興味がなくってさ、ちゃんと覚えたよ月野さん」
「私なんか、ちゃんとフルネームで覚えてるよ、操真 晴一くん!……やっぱり、学校一の天才は変わってるよね」
「否定はしない」
「勉強だけじゃなくって、スポーツも出来るんでしょ?人生楽しくってしかたないんじゃない?」
意地悪そうに、月野は操真に言った。
「いや、そうでもないよ……だってもうゴールはわかってるんだもん」
寂しそうに、そしてつまらなそうに操真はつぶやいた。
「もう、死ぬまでの停車駅は決まってるんだ」
操真 晴一は、十七歳の高校二年生。父親は祖父が経営する大病院に勤務する医師、母親は元女優という家に生まれた。
後々は父親が病院を継ぎ、その後、彼が跡を継ぐ。
そう決められた運命だった。
正直、父親と会話した記憶もそんなになく、思い出と呼ばれるようなものもそんなにない。
ただ、学業だけは厳しく管理されていた。
だからといって、今の生活に何の不満もなく、こういう登場人物の設定にありがちな父親が嫌いだ、ということもない。
与えられる課題を淡々とこなしていく、ただそれだけの生活だった。
だから、感情の起伏も大きくなく、よく言えばクール、悪く言えば同級生の名前さえ覚えようとしない冷たい性格といえる。
外見は、母親ゆずりの中性的な美しい顔立ちで、表情の変化に乏しいということも相まって、まるで美しい人形のようだと異性からの人気も高い。
実際、髪も耳が隠れるくらいの長さなので、女性に間違えられたことも数多かった。
モデルや、芸能界へのスカウトにも何度もあったが、持ち前の無表情で目すら合わさず立ち去って行った。
興味がないわけではなかったが、自分の進路はもう決まっていたから。
二人は教室に入った。
操真は、一番窓側の席に座って、頬杖をつき外を眺める。
そして、いつもと変わりない同じような一日が始まった、ただ、いつもより登校時間が早かったことと、同級生の名前を一人覚えたこと、熱っぽい体であることを除いて。