第六十二話 覚醒ミソジ①
その男は、ゆっくりとこちらに向かって泉の上を歩いている。
「あれは敵だ!! 早く! 早く逃げなさい!!」
本郷の声だけが大きく響く。気がつけば、辺りの音が消えていた。風に吹かれて木々の葉の擦れる音。砂が巻き上がり岩にぶつかる音。泉の水が揺らぐ音。聞こえるのは、この場にいる五人の息遣いのみ。その内二人は今にも消え入りそうな弱い音を発している。
空間は、再生不良の動画のようにカクつき、時折二重にずれる。
まるで、その男の存在を拒絶するかのように、この場の全てが活動を停止しようとしている。
「高嶺さん、走れますか?」
ハルイチは、腰を抜かしている高嶺に手を貸して立たせる。
「え、ええ…なんとか…」
「ハヤカちゃんは、二人を抱えて高嶺さんと逃げて、ハヤカちゃんなら軽いもんだよね?」
「う、うん…、でも、ハルイチ君は?」
ハヤカは不安げな表情でハルイチを見た。
「あいつを、足止めします…」
そう言うと、杖を力強く握りしめ正体不明の男に向ける。
「無理だ!! 奴には勝てない!! すぐに逃げなさい!!」
本郷の制止する声を無視して、ハルイチは全力の魔法を唱えた。
「【ルモエイスゴ】!!」
小さな弧を描き、巨大な火の鳥が正体不明の男に向かって放たれた。
男は、泉の真ん中で足を止めると、避ける素振りをまったく見せずに真正面から火の鳥を受け止める。
大きな火柱があがり、爆音が辺りに響く。
その後、小規模な爆発が幾重にも重なり、その都度、爆風が吹き荒れる。ハヤカは立っているだけでやっとだ。
最後に一度、大きな爆発が起こり、泉の底が露出された。
巻き上げられた泉の水が雨となって降り、再び泉の水へと還る。
「なんて威力だ……、この魔法にそんな設定はしていないはずだが……」
本郷が驚きの声をあげる。
「だが……」
一陣の風が吹くと、水蒸気や砂煙が一瞬にして吹き飛ばされた。
その男は、その場に無傷で立っていた。
それどころか白衣に汚れ一つついていない。ハルイチの魔法攻撃など、まるでなかったかのような様子であった。
「【ルコオイスゴ】!!」
ハルイチは、それも想定済みであったかのように、間髪いれずに上級攻撃魔法を唱えていた。
ハルイチが放つ氷の竜は、男には届かず足元に着弾した。
「外した!?」
ハヤカがそう言うやいなや、着弾地点の泉が一気に凍りつき男の両足を凍りつかせる。
「【キデンイスゴ】!!」
動けなくなった男に、雷獣が襲い掛かる。
男は静かに右手を正面に突きだし、手のひらを雷獣に向けた。
小さな破裂音が起こると、雷は消えてしまった。
「な、何をした!?」
ハルイチが、再度魔法を唱えようと身構えたすぐ隣に、その男はいつの間にか立っていた。
「子供の遊びなど、通じるわけがないだろう」
男がそう呟くと、ハルイチの右腕の肘から先が千切れ飛んだ。
ハルイチとハヤカ、それに高嶺がその光景に唖然とする中、杖を握りしめたままの千切れた右腕は、少し離れた地面に落ちた。
腕を斬られるのは二回目だな。
ハルイチは、咄嗟にそんなことを思いながら、おとずれるであろう壮絶な痛みに耐える心づもりをしていた。
そして、男による無慈悲な見えない二擊目が、ハルイチを襲おうとしていた。
その時、両者の間を斧が割って入った。
「なんで、逃げないんだ!!」
ハルイチの声の先には、ハヤカがいた。
ハルイチを無視して、ハヤカは振り下ろした戦斧の返す刃で男を斬りつける。
男はそれを難なく躱して言った。
「目を閉じてそいつを振り回したところで、永遠に当たるわけがないだろう」
男の言うとおり、ハヤカの両の目はしっかりと閉じられていた。
「ハヤカちゃん、逃げて!! 君に人間を傷つけることは出来ない!!」
「できます!! いえ、やります!! やらなきゃ!!」
ハヤカはバックステップを踏み距離を取ると、戦斧を顔の前に垂直に立てて構えた。
「【火蝶風擊】!!」
ハヤカは【火蝶風擊】を放った。
膨大な数の蝶々が、一気に男に襲い掛かる。
「疑似霊子が本物に敵うわけないだろう……」
男が右手を前に出すと、淡い光の壁が現れた。
ハヤカの渾身の火蝶風擊は、みるみる光に弾かれ消えていってしまった。
「そ、そんな……」
「さて、これで終わりに…」
男はそう言いかけると、前に突き出した自らの右腕を見る。
その白い袖口の一部が、黒く焦げていた。
「こしゃくな真似を……、%]<$め……、いや、まさか、@<$が……」
無表情な男の眉間に小さく皺が出来、怒りの表情を見せる。
ハヤカの全身に無数の小さな穴が空いた。それは、男の左手がハヤカに向けられた瞬間だった。
「え……何…?、痛……」
大量の血を吹き出し、倒れこむ。
「【ルモエ】ぇぇぇ!!!!」
ハルイチは、左手から火球を生み出すと、自分の右腕の傷にぶつけた。
「ぐあああああああ」
痛みか悲しみかわからない獣のような叫び声をあげて、火の魔法で無理矢理、止血を行った。周囲に肉の焼けた匂いが立ち込める。
そして、倒れこむハヤカに駆け寄ると容態を確認した。
かろうじて息はある。
一番近くにハヤカ、少し離れた所にホウジョウとタロウが横たわり微かに動いている。そして、大木の後ろに唯一無傷の高嶺が隠れている。
白衣の男は、いつの間にかハルイチの目の前に立っていた。
「【ルモエ】【ルモエ】【ルモエ】【ルモエ】【ルモエ】!!」
ハルイチは、反射的に残った左手を、素早く男の胸元に当てて、ゼロ距離で魔法を連発した。
確実に男に直撃したはずの火球は、煙をあげて服を少し焦がすだけに終わった。
「こいつもか…」
男は胸元の焦げた跡を見て呟く。
「不味い……このままだと全滅だ……!」
本郷の声がする。
「く…そ……」
ハルイチは、その声がどんどん遠ざかっていくように感じ、そのまま意識を失ってその場に倒れた。
「わかっているぞ、イシリよ、先程からこいつらを護る小細工をしているな?」
「そうだ……今の私に出来る事と言えば、か弱い防御魔法をかけてやることだけだ」
「それがなかったら、こいつらは即死だったはずだ、その無駄な介入が余計に苦しみを長引かせるだけだというのに…」
男はそう言うと、倒れこんだハルイチとハヤカに止めを刺そうと近づいた。
男は足を止めた。
気がつくと、誰かが立っている。
タロウだ。
その両目は赤く輝いている。
タロウは、倒れているホウジョウを見た。
男は、経験したことのない寒気を感じた。
タロウは、ハヤカとハルイチを見た。
男は、肌に突き刺さるような殺気を感じた。
「……お前がやったのか」
タロウは、男を睨みつけた。
怒りに満ちた声と視線を受けて、男の身体が一瞬硬直する。
思い出したかのように呼吸を再開すると、男はタロウから距離を取った。
「なんだ? 私はあの男から何を感じた? なぜ距離を取った?」
混乱している男の胸ぐらを、タロウの左手が掴んでいた。
「お前がやったのかと聞いている」
タロウの赤い眼が、一層その輝きを増した。




