9. あなたの全てを肯んじます
階段に差し掛かる頃、天城は「東京へ行こうと思っています」と告げた。
「九月中には名古屋を離れるつもりです。先ほど先生にも中退する旨をお伝えしてまいりました」
天城は落ち着いた声音で語った。東京では叔母の許へ身を寄せること。東京の音高を受験すること。そのためかつての恩師の下で声楽の勉強をし直すこと。
「先日、恩師のところへご挨拶に伺いました。一年ほど前、碌に理由を説くこともせず出奔した身でしたから、敷居は高く感じられました。ええいままよとドアを開け、飛び込む勢いのまま土間で土下座をいたしました。すると先生は私を叱りつけました。『馬鹿者。土下座などするな』と」
「できた方だな」
「先生は続けて仰っしゃりました。『そんなところで頭を下げて、土埃を吸い込んだらどうする』と」
「気にするのはそこか」
「その後私は清浄な防音室に連れて行かれ、そこで三時間以上正座をさせられました」
「容赦ないな」
俺が声を上げて笑うと、天城も口許に手を当てて「そういう方なのです」と愉しそうに笑った。
「その三時間、ご無沙汰にしていた間のことを根掘り葉掘り訊かれました。それから先生は『この一年を無駄にするなよ』と仰っしゃり、再び師事することを許してくださいました」
そう語る天城は、目を細めていた。
何となくその先生の顔が見えた気がしたよ。温かさとそれ故の厳しさ。それは、誰かさんにきっと似ている。
「……親御さんは反対しなかったのか」
「母は全く。『私はあなたの全てを肯んじます。どのように歌おうと、歌うのを止めようと、そして再び歌おうと。私は全てを受け入れます』と言ってくれました」
「そうか。母は強しだな」
「ええ。『たくさん否定されてきなさい』と背中を押してくれました。母が私を指導しようとしなかったのは何故か、ようやく分かりました。それから父は……父は『ボディガードを雇おう。何なら殺し屋も雇おう』と」
「どこに放つ気だ」
小さな笑い声が重なった。
三階に着き廊下に出たところで天城が訊いてきた。
「伊東さんはどういった御用向きで職員室に? 日直でしたか?」
「……俺も天城と同じだ」
天城は真顔で「土下座ですか?」と尋ねてきた。
「違うよ」
俺が首を振ると、天城は少し顔を赤らめた。
「俺も学校を辞めるんだ」
俺は天城に自分のことを話した。大事な話を聞かせてもらったからな。返礼という意味もあった。が、それより何より話したかったんだ。親父のこと。涼歌のこと。母のこと。そして自分のこと。色々と聞いてもらったよ。
「今俺は市内の病院で事務のバイトをしている。学校があるから夕方と土曜だけだ。平日の昼間空けてしまうのが申し訳なくてな」
「それで学校を?」
「学費の負担も大きいからな」
「……涼歌さんのことを大事に思われているのですね」
俺は「ああ」と笑って見せた。
「だからといって自分を蔑ろにしているつもりはない。俺には俺で目標がある。それをなおざりにはしない」
「目標ですか」
「医者になりたいんだ」
単純だろう?
……いや。確かに救急医療にも興味はある。一度は親父を救ってくれたしな。もし最初の発作でそのまま親父がああなっていたら、俺は平静を保っていられたかどうか。救急救命は俺と家族に猶予をくれた。今につなげてくれた。それは事実だ。
だがな、俺が惹かれているのは研究の方だ。さっきも触れたがブルガダ症候群は遺伝性の疾患でな、発症者の血縁を調べると、心室細動の既往歴があったというケースがまま見られるそうだ。女性に比べて男性の、特に四十代前後での発症が多い。俗にいう『ポックリ病』だな。仕事に邁進し家庭を支える壮年が何の前触れもなく逝ってしまう突然死のことだ。かつて『ポックリ病』と呼ばれた症例のうち多くがブルガダ症候群であったのではないかと言われている。
「……遺伝性なのですね」
天城はそう言って顔を曇らせた。
「そう。俺もいつか発症するかもしれない。そうなると、思いつく選択肢は二つ。一つはリスクの低減だ。家庭を持たなければリスク発生時の損失は比較的小さい」
「小さくありません!」
「いや、うん。それはそうなんだけどな」
昂ぶる天城を、俺はどうどうと宥めた。
「もちろんそんな選択肢はとれない。結婚したり子を生したりしなくとも俺には妹と母がいるからな。だから俺はもう一つの選択肢を選ぶしかない。俺がすべきこと、それはリスク自体の除去だ。つまりブルガダ症候群というくそったれをこの世から根絶することだ」
「……そうすると、医学部のある大学に行かねばなりませんね」
「ああ。どこも偏差値が高いから大変だよ。最初は公立の定時制に移ろうかとも思ったんだ。私立に比べれば学費の負担は軽いし、高校卒業資格を得られるからな。しかしだ、まあ、授業内容がな」
「医学部受験には不十分でしょうね」
「だから受験勉強は予備校ですることにした。高校に通わなくても、高卒認定試験で大学受験資格は得られる。一応は問題ない。親父の大学時代の友人が予備校を開いていてな、今はそこでお世話になっている。その塾長は豪気な人で、授業料を受け取ってくれないんだ。『金なんかより進学実績で返せ』とな。名古屋は大手予備校のお膝元だからな、難関校を目指す生徒は皆そちらに行ってしまうらしい。俺が国立の医学部に受かればよい宣伝になるということだ。塾長はいつも『おまえはガチョウなんだからさっさと金の卵を産め』と言いながら首を絞めてくる」
「まあ。それでは合格しないわけにはいきませんね。とはいえ伊東さんの成績ならば十分に見込みがあるでしょう」
「それがそうでもない。ほとんどの国立大学医学部では面接試験を課しているんだが、これが問題でな」
「伊東さんは人品に問題があるのですか?」
「ないと思いたいな」
「私もそう思います」
「ありがとう。……俺にとって問題となるのは学歴なんだ」