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いつかの春に  作者: 村井なお
第二章 それはいつかの春のこと
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8. Vivace

 次に天城と会ったのは、始業式の日の放課後だった。


 職員室を辞して廊下を歩いているとき、進路指導室から出てきた天城と出くわしたんだ。


「先日はお見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありませんでした」と、天城は丁寧に頭を下げた。


 俺は「よくあることだから気にするな」と応えた。……いや、本当なんだ。適当な慰めではない。休憩時間や審査後に号泣、慟哭、叱責の声が響くなんていうのは珍しい話ではない。


 それから、俺も天城に礼をして返した。


「冷静な指摘に感謝する」


 あのとき涼歌は昂奮していたし、俺もそうだった。ようやく涼歌が望みを口にしてくれた、と。


 天城のおかげで、俺も涼歌も立ち止まることができた。そして涼歌は一度立ち止まってなお、そこから一歩を踏み出す姿勢を見せた。


「天城のおかげで妹の覚悟の程を知ることができた。鬼手仏心というが、他人の決心を試すなど、なかなかできることではない。ありがとう」


 天城は「買い被りです。私は……」と俯いた。


 廊下を歩きながら、天城は事情を語ってくれた。自分も声楽を学んできたこと。中学三年の夏を最後に歌とは距離を置いていること。


「私が音高に進まなかったのは、私自身の弱さ故です。それを正当化しようとしたのです。涼歌さんには謝らなくてはなりません」


 天城はどこまでも謙虚だった。


「……あの後涼歌は『さすが天城さん超クール!』と目を輝かせていた。悪いが、もう少しだけ憧れの人でいてやってくれないか」


 俺がそう頼むと、天城は困ったように笑った。


「分かりました。今となっては私のほうが涼歌さんを見上げる立場なのですが」


「そうなのか? 順位でいえば天城の方が上だったろう。今年涼歌は全国に進めなかったしな」


「それは涼歌さんがコンクールという物差しの限界を外れてしまったからです」


「ああ。結果発表の後、先生も涼歌に説教をしていた。『外れるのはまだ早い』とな。涼歌もそれは分かっていたようだった。コンクールは楽譜通りに歌わなければならないということだな」


 俺が分かったようなことを言うと、天城は「いえ。ええと」と小さく唸り声をあげた。それから俺の方へと向き直って宣告した。


「少し厄介なお話をさせてください。厄介ではあるのですが、伊東さんには是非知っておいていただきたいのです」


 俺が「頼む」と頷くと、天城は一つ咳払いをしてから説明し始めた。


「まず覚えておいていただきたいのは、涼歌さんの演奏は楽譜通りのものであったということです。これはよくある誤解なのですが、楽譜というのは非常に曖昧なものなのです」


「そうなのか?」


「はい。例えば楽譜には演奏の速度が書かれています。Allegroは『明るく速く』、Vivaceは『活発に』という意味です」


「……どっちが速いんだ?」


「Vivaceです」


「何故だ?」


「何故でしょう」


 天城は苦笑いを浮かべて首を傾げて見せた。


「一分間に込める拍の数を明記する場合もあります。メトロノーム記号というのですが、これも実は目安に過ぎません。曲の途中で『より速く』、『より遅く』と相対的な指定が入るのはしょっちゅうですし、古い曲ではそもそも指定されないことも多いのです」


「なるほど。曖昧だ」


「ご理解いただけて幸いです。今回涼歌さんの選んだ『Se tu m'ami』のテンポはAndantinoと指定されております。涼歌さんの演奏はこれに概ね合致するものであり、審査員の先生方も恐らく問題視されなかったと思います。問題はピッチです」


「ピッチというと周波数、音の高さか」


「そうです。単位にはヘルツを用います。楽譜にピッチの指定はありません。現在では基準となるAの音に440ヘルツを当てることが標準とされておりますが、古くは今よりずっと低い音が基準とされておりました。例えばバッハの頃、一七世紀バロック時代には415ヘルツをAとしていたようです。この差異は予てより議論の種となってまいりました。繰り返しますが楽譜にピッチの指定はないのです。現代の440ヘルツに合わせた演奏も、バロックの415ヘルツに合わせた演奏も、どちらもバッハの書いた楽譜通りの演奏といえるのです」


「……涼歌の歌も、楽譜から外れたものではなかったということか」


「はい。ただし、正確とはいい難いものであったのは確かです。涼歌さんの演奏は445ヘルツを基準としたものでした。伴奏のピアノが440ヘルツに調律されていたため、そこにはギャップが生じておりました。エンタテインメント的な演出でそうしたギャップを活かすこともあるのですが、コンクールでは減点対象となっても致し方ないといえます。コンクールは平等を期すものです。同じ物差しで測ること、それがコンクールの限界です。涼歌さんの演奏は楽譜通りのものでした。しかし物差しからは外れていたのです」


「平等のための不自由か」


「ええ。しかし完全な不自由ではありません。そんなものはあり得ません。コンクールで評価される演奏は無個性で無機質なものであるというのは大いなる誤解です。多くの人が神話を信じています。音楽は自由である、自由は楽譜の外にあると。楽譜を機械のプログラムや軍隊の命令書であるかのように思っています。そうでないことは、少しでも読めば分かるのに。


 楽譜通りに演奏したところで、どうしたって個性が出ます。同じVivaceでも、人によって活発さには差があります。同じ440ヘルツのAであっても、人の声には揺らぎがあります。正確な倍音だけで構成されることはありません。その構成比率こそが音色おんしょくというものです。僅かに外れた周波数の音が紛れこんでも、それは楽譜通りのAの音です」


 天城の口ぶりは熱いものになっていった。


「楽譜から外れた演奏とは、作曲者のものではなく、演奏する者自身の曲であるといえます。多くの音を元の作曲者から借りながら自由を標榜するものです。詰まるところ剽窃です。楽譜の外に自由を求むるならば一から自分で曲を作ればよろしい。演奏家の自由は楽譜の外にではなく、楽譜の先にあるのです」


 ついに天城は立ち止まり、拳を握って天を仰いだ。


 俺が「お、おう」と拍手をすると、天城はようやく我に返り、慌てて両手を振った。


「失礼しました。結局何を申し上げたいかというとですね……何でしたでしょう?」


「何だろうな」


 俺は笑いを堪えるのに必死だったよ。


「ええと……そうでした。思い出しました。いいですか。世間一般には音楽の自由に対する妙な信仰が蔓延っております。世には口さがない輩が数多跋扈しております。そして才持つ者は妬まれやっかみの的となります。涼歌さんはこれから専門教育を受け、その才を磨き、いずれは世に出ることでしょう。然すれば多くの批判と否定に晒されます。伊東さん。涼歌さんを理解してあげてください。その上で肯定してあげてください」


「約束するよ」


 俺は立ち止まって天城に頭を下げ「ありがとう」と礼を言った。


「そうだな。何も知らずイエスと言い続けるばかりが能ではないよな。正直なところ、音楽の世界は俺の与り知らぬものであると思っていた。そんなはずがない。これからは自分の問題として意識するよ。不見識が恥ずかしい」


「私こそ、分かったような口を利いてしまい面映い限りです」


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