6. 天鵞絨張りのオルゴール
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オルガンを持って生まれてきた。
声楽の世界では天賦の才を持つ者をそう喩えることがあります。オルガンといえば教会のパイプオルガンや音楽室のリードオルガンなど風琴を思い浮かべるでしょう。オルガンという言葉にはもう一つ、身体の器官という意味があります。そうした二重の意味を込め、優れた声帯をオルガンに喩えるのです。
八月上旬のあの日、私はその言葉を思い出しました。
吉奈さん。河津さん。お二人には以前お話しましたが、私は幼少の砌よりずっと声楽を学んでまいりました。
音楽家というと、物心つく以前より英才教育を受けなければ大成しないといったイメージがおありかもしれません。ピアニストやヴァイオリニストの場合には確かにその通りです。楽器を用いる技術は積んだ研鑽が音に出ます。
しかし声楽家の場合には一概にそうともいえません。声楽は真に才能が問われる分野です。才能というのは先天的なものです。楽器はお金で買うことができます。三千万円も出せばホールに置かれるクラスのスタインウェイを贖うことができるでしょう。しかし声帯というオルガンは、持って生まれる以外に入手の術がありません。
そして声帯は成長とともに変化し続けます。声帯が安定するのは二十代後半になってからです。幼児期はおろか十代でも専門教育には早いといわれる所以です。
声楽を学べる中学や高校ももちろんありますが、始めるのは大学からでも決して遅くないのです。高校までは声楽に触れずに育っていたにも関わらず、大学で一気に才能を開花させ世界の舞台に飛び立った、などという事例もあります。
なお、藝大を始めとした音大の入学者選抜では、演奏実技や音楽理論に加えて国語や外国語など学科試験が課されます。歌うことしかできない者は、声楽を学ぶ場に迎え入れられないのです。
ですから、音大の声楽科志望者の中には、そうした選抜要項から逆算し、敢えて高校では普通科に通うという戦略を採る者もいます。音楽科は、どうしても普通科に比べて学科の授業時間が少ないものですから。
私ですか? 私が城東高校の普通科に入学したのは……。
私はこの春に中学を卒業するまで父母と共に東京におりました。父は、祖父の兄が経営する自動車製造ロボットメーカに勤務しております。これまでは東京本社におりましたが、春からは名古屋本社で役員の任を仰せつかっております。母は東京の声楽教室に務めておりましたが、父の異動に伴い名古屋の系列教室に籍を移しました。
あ、いえ。私は母から教わったことはありません。母は私を指導しようとしませんでした。その代わり、音大時代の同窓である羽沢先生という方に私を預けたのです。
羽沢先生は、独特の厳しい指導で名を馳せた方です。先生は幼少時にこそ技術を身に着けるべきとお考えでした。
ええ、先ほどの話とは矛盾しておりますね。しかし、羽沢先生には先生なりの持論がおありです。「確かに二十代半ばまで声帯は安定しないが、脳に楽器の操り方を刻み込んでおけば、技術で声帯の変化に対応できる。幼い頃に刻み込んだ技術は、将来音楽を楽しむための武器になる。鬼だって手ぶらで暴れるより金棒を振りまわした方が楽しいに決まっている」というのが先生の主張でした。
幼稚園児や小学校低学年の生徒には、とにかく歌わせて音楽の楽しさを教えたりとか、異なる調性の曲を多々聞かせて音感を自然に身に着けさせたりといった指導をする先生が多いのですが、羽沢先生は児童にこそと基礎的な技術訓練を徹底的に教え込む方針を採っておりました。
同じことを幾度も幾度もできるまでひたすらに繰り返させ、生徒が泣き出すと「声が嗄れたらどうする」と叱るのです。そのため、嫌気が差して止めてしまう生徒も、また我が子を他の教室へと移らせる保護者も多かったと聞き及んでおります。
私も幼稚園に通っている頃に絶対音感を身に着けさせられました。そうです。絶対音感とは、聞いた音がどの高さなのか、手がかりなしに判ずる能力のことです。これは六歳までに身につかなければ生涯手に入らぬものといわれております。
……今のは、GとAの間の音が強かったですね。ゲーとアーはドイツ語のアルファベットです。
ええと、曖昧な言い方になるのは仕方ないのです。そうしてテーブルを叩いて出るのは、純粋な音ではなく、種々の振動が入り混じった雑多な音です。
楽器の場合は、整数倍の倍音のみで構成された純粋な音を出すように作られています。だからこそ楽器の音は美しく響くのです。そうした音ならば、もっと明確にその高さを言い表すことができます。
音の高さを表す名前には音名と階名があります。音名とは絶対的なものでして、日本ではイロハやドイツ語のAHCで表すことが多いですね。
例えばAといったら110ヘルツの倍音、特に440ヘルツの音を指すのが一般的です。階名の方は音階の最初の音から相対的に位置づけられる高さのことで、日本ではイタリア語やフランス語でドレミと……。
はい、そうですね。長くなるので止めておきます。ともかく絶対音感とは聞いた音の音名が分かる能力のことと思ってください。絶対音感にも程度があり、人によっては周波数の高さまで……はい、止めます。
羽沢先生はレッスン以外の場でも、常に声楽の徒であることを求めました。「調性が入り混じった現代音楽は聴くな」、「タバコの臭いを嗅いだら呼吸を止めて速やかにその場を離れろ」、「カラオケには行くな」、「移動ド唱法を押し付ける音楽の授業では耳を塞いで口パクしろ」と、こうした箴言もまた生徒に疎ましく思われる一因であったようです。ただ、私はそうした教えを守ることを苦には感じませんでした。
そうして羽沢先生の教えを受けた私は、確固たる技術を身につけ、声楽のための声帯を手に入れました。正しい高さの音を、正しい発音で、正しい長さで鳴らす。正確な演奏には絶対の自信を持っております。
ええ。ここは、ここだけは謙遜するつもりはありません。韜晦は恩師への侮辱となります。
中学時代、私は数多くのコンクールで賞をいただきました。同年代では全国でも屈指の演奏家であったと自負しております。
そうして私は『オルゴール』という異名を戴きました。
私の正確な演奏を自動演奏の機械に擬えたものです。異名を口にする方々の心中には毀誉褒貶が相半ばしていたようです。
正確な演奏、と言うだけならば簡単ですが、実現するのは困難です。精確なオルガンを持ち、かつ、それを正しく操る技術を持たねばなりません。
そうした才能と研鑽を称賛する一方で、『正しいだけ』と貶める気持ちを抱くのも宜なるかなと思います。コンクールでは演奏の正確さを評価します。歌は聴く者の感情に訴えかけるものですが、感情を評価することはできません。感情を測る客観的な物差しがありませんから。だから評価には正確さという物差ししか用い得ないのです。
しかし、人は音楽にそれ以上を求めます。音楽には、物理的な空気の振動以上の何かが宿ると信じています。ベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調作品67に、本来はなかった『運命』という通称を付けてしまうのです。
『正しいだけ』というのは、『コンクールで賞をとるためだけ』という意味です。正確ではあってもそれ以上ではない、そう言いたかったのでしょう。
私の演奏は、よくこう評されました。『空虚である』と。
『オルゴール』というと皆さん天鵞絨張りの宝石箱を思い浮かべるようです。蓋を開けると音楽が鳴り出す。その音楽がよく響くのは、中に何も入っていないから。初めて聞いたとき、よくそんな回りくどい皮肉を思いつくものだと思わず笑ってしまいました。
そしてもう一つ。『オルゴール』というのは、お二人もご存知でしょうが、ピンを付けたシリンダをぜんまいの力で回転させ、櫛状のコームを弾くことで音を奏でます。ピンもコームも金属です。奏でる度に僅かながら摩耗します。当初は正確だった音程が、いずれは崩れるのです。十代でオルガンを完成させたとしても、二十代半ばまでは変化の途上。どうせいつかは狂い出す。そうした願望を込めたのでしょう。
人は皆似たようなことを言います。正直、聞き飽きました。それでも、例え聞き飽きたとしても、耳にするその度毎に、少しずつ、少しずつ何かが摩耗していくものです。
いっそ正確な演奏を止めてしまえば。そう思ったこともありました。しかしそんなことはできません。正確とは正しいということです。羽沢先生も、その教え子である私も、何一つ間違ったことはしておりません。
正確であれば疎まれ、正確でなければならず、正確であるためには瑕瑾の一つも許されず……。
私は、羽沢先生の顔が利く東京の音高から推薦入学の話をいただいておりました。音高というのは音楽科のある高校のことです。父母は、東京で暮らす叔母の許へ私を預けるつもりでおりました。しかし私は東京を離れ、ここ名古屋へ来ることを選びました。