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いつかの春に  作者: 村井なお
第二章 それはいつかの春のこと
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5. それはいつかの春のこと


 天城美音と初めて出会ったのは、いつかの春のことだった。


 名古屋のとあるホールでのことだったらしい。実のところ、そのときのことを俺は碌に覚えていない。後から妹に教えられたんだ。「お兄ちゃんも昔天城さんに会ってるよ」と。妹はそのときのことをずっと覚えていたらしい。天城は憧れの人であり、目標なんだそうだ。


 うちの妹、伊東涼歌(すずか)は俺より一つ下の中学三年生だ。涼歌は幼い頃からずっと声楽教室に通っている。一昨年の全日本ユースクラシックコンクールでは、中学生の部で全国大会にも進出した。


 うちの妹は天才だ。


 それは聞き飽きた? そう言ってくれるな。俺にとって一番の自慢なんだ。


 ……そう。一昨年は全国大会に進んだ。一昨年はな。


 昨年は出場しなかった。


 小室。宇佐美。お前たちには前にも少し話したな。うちには親父がいない。


 昨年の六月だった。俺が中学三年、涼歌が二年のときだ。そぼ降る雨が幾日も続いていた、ある日のことだった。授業を受けていた俺は、教室に駆け込んできた先生に応接室へと連れて行かれた。ソファには涼歌が座っていた。


 しばらくすると職場から母が来た。母が乗ってきたタクシーにそのまま乗り、俺たちは長久手ながくての高度救急救命センター指定病院へと駆けつけた。母は動転していて、詳しい事情を聞くことはできなかった。


 俺たちはセンターの廊下で待った。待っている間のことは妙によく覚えている。学校の廊下と同じリノリウムのはずなのに、夕陽で赤味を帯びたセンターの床は妙に柔らかくて、靴裏にべとべと貼り付いてきた。


 涼歌は身動ぎもせず緑の誘導灯を見つめていた。そして不意に「ゲーとアーの間」と呟いた。母はずっとバッグの中をかき回していた。財布と小さなポーチしか入らないようなハンドバッグだ。それでも母はずっと何かを探していた。


 しばらくすると、集中治療室から青い術衣姿の医師が出てきた。俺たちはその医師から詳しい説明を受けた。父は職場で突然意識を失ったという。倒れたときには、呼吸はおろか脈拍も停止していた。が、父の同僚がオフィスのAED(自動体外式除細動器)を適切に扱ってくれてたおかげで、父はその場で蘇生した。


 脈拍の停止はおよそ四分。脳に障害が出るほどの長さではない、未だ意識は戻っていないが脈拍も呼吸も弱いながら安定している、命に別条はない、体温は保ったまま様子を見ている。医師はそう説明した。


 脈拍の停止というのは、当然のことながら脳に血液が行き渡らなくなることを意味する。停止時間が延びれば延びるだけ脳に後遺症が残る蓋然性は高くなる。その対策として、脳低体温療法という処置がある。全身の体温を三十度前後にまで下げることで、血流停止に伴う脳組織の不可逆的な化学反応を阻止するわけだ。


 このときの親父は体温を保ったままだった。つまり、そこまで深刻な状況ではなかったということだ。


 知ったふうな口を聞いているがな、こうした知識は後から得たものだ。当時は何も知らなかったよ。もしあのとき俺にもっと知識があったなら……まあ、何も変わらなかっただろうな。


 搬送された翌日、親父は意識を取り戻した。どうして自分が病院にいるのかと一時的な混乱は見られたが、高次機能障害は確認されなかった。


 その日のうちに、親父は市内の心臓疾患専門病院の循環器内科に再搬送され、そこでより精密な検査を受けた。カテーテルを挿入して電気信号の生理検査を行なったり、サンリズムという薬品を投じることで意図的に不整脈を誘発させ、その状態で心電図をとったりな。


 その結果、親父はブルガダ症候群と診断された。ブルガダ症候群というのは、男性に多く発症する遺伝性の心疾患だ。解剖学的には異常が見られなくとも、電気生理学的な異常から心室細動のような致死的な不整脈を引き起こす疾患のことだ。


 ブルガダ症候群の治療法は確立している。治療法といっても、根本的なものではない、いわば対症療法だ。心臓の近くにICDという小さな除細動器を埋め込んでな、心臓に不整脈が発生したら、こいつが電気信号を発して細動を除くわけだ。親父もこのICDを埋め込むことになった。


 倒れてから一週間後くらいだったかな。親父に一時帰宅の許可が出た。一時帰宅は親父の強い要望を受けてのものだった。急な入院だったからな。仕事も家のこともそのままにベッドで寝ているのに耐えられなかったんだろう。その後ICDの埋め込み手術を行うとなったらまたしばらく入院だしな。


 病院を出た親父は、家と会社を往復する毎日を再開した。親父は商社の管理職でな、責任感は人一倍だったし、仕事には全身全霊を傾けていた。自分が不在にすることで業務が滞るなんて我慢できるような人ではなかった。後で、会社の人からそう聞いた。


 病院に戻る前の日、親父は何時になっても帰ってこなかった。その日親父は深夜のオフィスに一人残っていた。今度は誰もいなかった。


 諸々の書類を整理しているとき、俺は「ブルガダの見つかる前に生命保険に入っていたのは運がよかった」と呟いてしまった。母は泣いたよ。こんな息子で申し訳ないと思う。


 一時退院の間に、俺自身も親父から引き継ぎを受けていたんだ。遺族年金の手続きを行うこと、住宅ローンは消費者にできる借金としては抜群に金利が低いから、生命保険が入っても一括返済はせずキャッシュとして保持しておくことなど、親父は当時中学生だった俺に言い含めた。その頃母は少し疲れていてな、仕事も休んでいた。俺が聞くしかなかったんだ。


 それまで俺は城東高校を第一志望に据えていた。城東は親父と母の母校でな、二人とも俺を入れたがっていた。進学実績も市内では有数だし、俺にも異存はなかった。


 だが事情は変わった。私立の学費は高い。進学するにしても公立でないと苦しいと思っていた。逡巡する俺に母は言った。「城東の制服姿をあの人に見せたい」と。夏になる頃だった。それまで休んでいた母が復職した。母は強い人だ。


 必死に勉強したよ。模試ではA判定が出ていたが、それでもまだ足りていないと思った。当日三十九度の熱が出たとしてもなお余裕で合格できるくらいにならなければ、俺は報いることができない。そんなことを考えていた。結局は杞憂に終わってよかったよ。


 涼歌には、今年になってから音楽科のある高校から誘いがかかるようになった。一年生のときには全国にも進んでいたからな、当然だ。レッスンから帰る涼歌の手には、いつもパンフレットがあった。うちにも手紙や書類が届いた。


 だが涼歌は「音大に行くなら普通科で勉強するのもいいみたい」と興味を示そうとしなかった。


 親父がいなくなってから涼歌は望みを口にしなくなった。服がほしい、遊びに行きたい、甘いものが食べたい。何をするにも金がかかると、そう気づいてしまったようだった。


 金がかかるといえば音楽だ。声楽教室のレッスン料もそうだし、音楽科のある高校は私立ばかりだからな。


 涼歌は音楽科に惹かれていた。それは間違いなかった。パンフレットも手紙も、燃えるゴミに出てくることはなかった。ときどき涼歌の机やカバンからそれらが顔を覗かせていた。


 事あるごとに俺は言ったよ。「やりたいことがあったら言っていいんだぞ」とな。


 涼歌はいつも笑って応えた。「何にもないよ」と。


 もどかしかった。自分の力不足が恨めしかった。親父がいれば。幾度そう思ったことか。


 涼歌は天才だ。


 それに何より涼歌は歌うのが好きだ。見ていれば分かるし、声を聞けば伝わってくる。


 一度でいい。一度でいいから、何をどうしたいか言ってくれれば。


 そして八月上旬のあの日。


 全日本ユースクラシックコンクールの東海地区本選は、毎年昭和文化小劇場で行われる。


 その日、涼歌はいつになく気を張り詰めていた。朝食を抜いたし、朝のアニメも見なかった。ドレスと靴を履いて姿見の前に立つといういつもの験担ぎもしなかった。


 俺と涼歌、そして母はいつもどおりタクシーで会場へ向かった。コンクールのときはドレスに楽譜にCDプレイヤーにと荷物が多いし、電車は雑音が多い。タクシーの中でも涼歌は黙りこくっていた。いつもならずっと小声で歌い続けているのにだ。


 会場で涼歌は衆目を集めた。一昨年には一年生ながら中学生部門で全国に進出。にも関わらず前年は出場辞退。注目の的になるのも無理はない。


 だが、涼歌には周囲の視線を気にする様子はなかった。ずっと俯き、自分の世界に深く入り込んでいるようだった。緊張とは少し違うような、集中はしていても迷いがあるような、自分に問い掛けているような。


 確かなことは分からなかった。涼歌のことはそれなりに分かっているつもりだが、歌と向き合っているときのことは別だ。俺には分からない世界がそこにある。そのときはそう思っていた。


 ドレスバッグを受けとり、控え室に向かう途上、涼歌は不意に足を止めた。


 そして振り返り、俺と母に宣言した。「今日、決めてくる」と。


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