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 瑠樺は急ぎ矢塚の山に向かった。

 一見、それは山にかかるただの黒い霧だった。だが、近づくにつれ、それは別の姿になって瑠樺の視界に飛び込んできた。

 無数の妖かしたちが山を覆っている。

 そして、それに対抗する術者たちの姿が見えた。

「街に行かせてはならない! ここで封印しろ!」

 栢野出石たち『九頭竜』をはじめ、斑目率いる『常世鴉』の術者たちも総出で対応に当たっている。そこにはケガから復帰したばかりの綾女の姿もあった。まだ、戦いに加わることは控えているようだが、若い術者たちの指示についている。

「どうして急に?」

「私たちにもわかりません。とにかく今は妖かしたちを一匹残らず封じることです」

 そう言って、綾女は若い術者たちに活を入れる。

 確かに迷っている時間はなかった。

 この妖かしたちが大量に街に押し寄せることがあれば大変なことになる。瑠樺はすぐに他の術者たちと同じように妖かし封じに取り掛かる。

『フタクビ』の姿は見えない。ここにいるのは力の弱い妖かしばかりだ。

 数は多いが、封じるのはそう難しいことではない。もともと、あの事件以来、矢塚の屋敷には『九頭龍』の陰陽師たちが待機しており、すぐに術者たちが集まることも出来た。

 少し時間はかかるかもしれないが、問題なく封じることは出来るだろう。

 しかし、なぜこんなふうに大量に発生したのだろう?

 妖かしたちを封じながら、瑠樺はふと考えていた。

 まるで瑠樺たちをおびき寄せるために現れたかのようだ。その考えに瑠樺は少し怖くなった。

 そして、もう一つ気になっていることがあった。それは音無雅緋のことだった。今、彼女はどこで何をしているのだろう。

 もちろん彼女に手伝ってもらうようなことではない。彼女に助けてほしいと思っているわけでもない。だが、今までの彼女ならば、こういう時にはどこからともかく現れたのではないだろうか。

 その雅緋が一切、姿を現さないことが気がかりだった。

(それでもーー)

 今は目の前のことに集中するしかない。

 一時間も過ぎた頃――

「二宮さん!」

 術者たちの指示についていた綾女が慌てたように足を引きずりながら駆け寄ってきた。

「どうしたんですか?」

「今、波城さんから電話がありました」

 それは一条春影の身の回りを世話する侍女の名前だった。同じ一条家の中で働く者としてのつながりはあるが、彼女のような立場の者が術者に連絡をとることなど滅多にないことだ。

 それが何かの異変であることは明らかだった。

「どうして波城さんが?」

「『フタクビ』です。奴が花籠館に現れました」

「花籠館に?」

 花籠館は一条の屋敷から5キロほど離れた場所にある。江戸時代、大地主だった者の屋敷だったのだが、既に空き家となって長年経ち、処分に困っていたところを一条で買い取って改築したのだ。

「先程、春影さまがそちらに向かわれたそうです」

「じゃあ、こっちの妖かしはーー」

「罠です。二宮さんはすぐに花籠館へ向かってください」

 口惜しそうに綾女は言った。その気持はよくわかる。彼女にケガを負わせた『フタクビ』が現れたのだ。きっと本来ならば綾女自身が一番に迎え撃ちたいところだろう。しかし、それが出来ないことを彼女はよくわかっている。

 少数の術者たちをその場に残し、瑠樺たちは急ぎ『花籠館』へと向かった。

 それはわずかな時間だった。

 だが、瑠樺たちがそこにたどり着いた時、既に全ては終わっていた。


*   *   *


 そこはこれまで見たこともないほどの残酷な景色が広がっていた。

 その光景に瑠樺たちは思わず息を飲んだ。

『花籠館』は半壊の状態だった。多くの柱が折れ、屋根は落ち、そこらじゅうに瓦が散乱している。

 その庭には、月の光に照らされ、全身に血を浴びた雅緋の姿があった。

 透き通るような白い肌も、艷やかな長い髪も、今はベットリとした赤黒い血で濡れている。

 その足元には『フタクビ』をはじめ、その影響を受けて凶暴化した妖かしたちの死体がいくつも転がっている。 蓮華にあれほどまでの手傷を負わせた『フタクビ』が、雅緋によって肉片と化している。

 その雅緋の姿はまさに鬼神そのものだった。

 周囲には彼女から発した妖気が渦を巻いている。その強い妖気だけで人を殺しかねないほどの力を秘めている。実際、急いで駆けつけた若い術者の何人かは、その気に当てられ気分が悪くなって蹲ることになった。

 その姿に誰も身動きが取れなかった。

「雅緋……さん」

 瑠樺は雅緋に近づいていった。自分に雅緋が止められるのかどうかはわからない。それでも彼女を止めなければいけないと感じた。その腕を美月あやのが握りしめて瑠樺を止めた。

「今は止めておきなさい」

「どうして?」

「今の雅緋ちゃんは怒りにかられている」

「でもーー」

「雅緋ちゃん自身がその力を制御出来ていないのさ。大丈夫、近づかなければ誰を傷つけることもないよ。もし、無理に止めようとすれば、瑠樺ちゃんでも傷つけるかもしれない。そんなことになったら、雅緋ちゃんはずっと後悔することになるよ」

 月が雲に隠れ、妙に生暖かい風が頬に当たる。

 やがて、雅緋は瑠樺たちに気づいたように顔を向けた。

「矢塚なのね」

 その血だらけの顔、ギラギラとした目で雅緋は言った。「この妖かしたちからは矢塚の気が混じっている。これまでの騒ぎも、ふみのさんを殺したのも、全てこの男の仕業なのね」

「み、雅緋さん……どうして?」

「瑠樺さん、答えて。お願い」

「たぶん……でも、矢塚さんにも何か考えがーー」

「そんなことは関係がないわ」

 雅緋はキッパリと言い切った。「私はこの男を許さない」

 その右足が『フタクビ』の頭を踏みつける。

 グシャリという音と共に、『フタクビ』の頭が潰れた。再び、強い妖気がその場に放たれ、背後で数人が倒れる音が聞こえた。

 その瞬間、嫌な予感が全身を巡った。

(この男?)

 今、雅緋はそう言った。ハッキリと言った。

 瑠樺は恐る恐るその肉片と化した妖かしの姿へと目を向けた。

 ドロドロとした血で濡れたその妖かしの肉片、その中に人の形をしたものが見えた。それは矢塚の変わり果てた姿だった。

「矢塚さん……」

 ポツポツと静かに雨が降り出す。

「捜しても見つからないわけだわ。『フタクビ』の中に隠れていたなんてね。いえ、『フタクビ』が矢塚そのものと言えたのかもしれないわね」

 あやのがそれを見つめながらつぶやいた。

「そんな……」

 雨がしだいに強くなっていく。

 そんな中、ゆっくりと雅緋が動き出す。

 雅緋自身、満身創痍といった状態だ。

 妖力を使いすぎたのか、その足取りはとてもぎこちない。今にも倒れそうなほどフラフラと身体を揺らし雅緋が去っていく。その体から妖気が煙のように立ち上っている。

 すぐにでも駆け寄って、助けたいと思った。

 それなのに体が震える。足が動かなかった。

 雅緋の後を追うことが出来なかった。

(情けない)

 ずっと信頼を寄せていたはずなのに、初めて雅緋に恐怖を感じていた。

 だが、今、雅緋に一人にしておきたくはない。

 力を振り絞って前に進み出ようとする。

「大丈夫だよ」

 そう言ったのは美月あやのだった。「雅緋ちゃんには私がついている。だから、大丈夫」

 ポンポンと軽く瑠樺の背中を叩く。そして、あやのは雅緋の後を追いかけて屋敷を出ていった。

 瑠樺はそれを黙って見送るしか出来なかった。

 その時、屋敷の奥で叫び声が上がった。

「春影さま! 春影さま!」

 すぐに一条家の者たちによって、傷だらけの春影が運ばれてきた。本人の傷のせいか、全身が血で真っ赤に濡れている。とても意識があるようには見えない。生きているのかどうかすらわからない。

 栢野出石が素早くその体に駆け寄る。そしてーー

「まだ息はある。早く医者を!」

 慌ただしく栢野に付き添われるようにして、術者たちに抱えられ春影が運び出されていく。

 庭の片隅に波城みゆきが蹲っているのを見つけ、瑠樺は近づいていった。

「波城さん、どういうことですか? いったい何があったんですか?」

 そう訊きながらも、その答えを聞くのが怖かった。

「私には……よくわかりません。妖かしたちが現れたと報告を受けた後、突然、一人でこちらに移ると仰られたのです。私が心配になって様子を見に来たら、あの……あの怪物が襲ってきたのです。春影さまは術を使って私を外に逃がしてくださいました」

 それを聞きながら、春影を襲ったのが雅緋ではないことに、瑠樺は内心ホッとしていた。

 そっと瑠樺の肩に手が触れた。

「大丈夫ですか?」

 いつの間に来ていたのか、隼音怜羅は瑠樺をいたわるかのように声をかけた。

「私は……大丈夫です。それよりどうしてこんなことに……」

「おそらく春影さまはご自分で処理しようとされたのでしょう」

「処理?」

「春影さまは『フタクビ』が矢塚さんであることを知っていたのではないでしょうか。そこで彼をここに呼び寄せた。いえ、彼ははじめからここに隠れていたのかもしれませんわね。ひょっとしたら春影さまが『フタクビ』となった矢塚さんをここに匿っていたのかも」

「どうして矢塚さんが『フタクビ』に?」

「おそらくあれは……『堕ち神』」

「なんですか? それは」

「私も目にするのは初めてです。しかし、あれが『堕ち神』というものなのでしょう。心が闇に染まったのです。私たち『妖かしの一族』に流れる妖かしの血、そこにはもともと闇の因子が含まれています。だからこそ人の心を持っているのです。しかし、その心が闇に引き寄せられたのです。闇に染まりすぎれば『堕ち神』となるのです。春影さまはきっと矢塚さんが『堕ち神』となったことに気づいていらっしゃったのでしょう」

「どうして春影さまが?」

「それは矢塚さんが、一条家の仕事をしていたからかもしれませんわ」

「一条家の仕事?」

「あのお二人は何らかのお仕事をされていた。それが何なのかは私にはわかりません。私は『詩季』を継いでおりませんからね。しかし、春影さまはこういうことも予想されていたのかもしれません」

 春影は自分を一条家から離そうとしていた。きっと、それはこの結果を見越してのことだったのかもしれない。

 春影と矢塚は、何をやっていたのだろう。


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