15
暗闇を縫うように、空を飛ぶかのように風を纏って瑠樺は空を走った。
野愛には部屋で少し休んでから来るように言ってある。妖力はあっても、『妖かしの一族』の血族ではない野愛にとって、今の瑠樺のスピードに合わせて走ることはとても無理だ。
いつもはのんびりと向かった道を一気に駆け抜けていく。
瑠樺が矢塚の屋敷にたどり着いた時、既にそこには何人もの一条家の術者たちの姿があった。
見知った若い術者が、瑠樺に気づいてすぐに声をかける。
「奥の座敷です」
急いで屋敷の中へと足を踏み入れる。
入った瞬間、すぐにプンと血の匂いが鼻をついてくる。しかもこれはただの血の匂いではない。焼けたような血肉の匂いに気分が悪くなる。
しかも、やけに空気が重い。これは物理的なものだ。きっと何らかの術により、この屋敷の中の空気に妖力が混じっているのだろう。
そこに入るには覚悟が必要な気がした。
瑠樺は一度足を止め、大きく息を吸ってから座敷へと足を踏み入れた。
その光景に息を飲む。
何度も通ったその座敷、なのに今夜はまるで見えている世界が違っている。床は血で真っ赤に染まっていた。
その血溜まりの中央に、胸に槍を受けた一人の女性が倒れている。
見覚えのある顔はすでに生気を失っている。
瑠樺はその傍らに寄り添うようにしゃがみ込むと、手をそっとその頬に当てた。
ひんやりと冷たい感触が伝わってくる。
知らぬ間に指が震えている。
血の海のなか、キラリと輝くものが見えた。
その死体の周りに細かく砕けた結晶の欠片が散らばっている。
(これは?)
それは以前、瑠樺の羽をあやのが結晶にしたものだ。
その背後からしゃがれた声が聞こえた。
「来ておったのか。早かったな」
現れたのはいつものように黒い羽織袴姿の斑目だった。「その槍には触るな」
「槍?」
斑目は自らの杖で、ふみのに刺さった槍を指した。
「それには『妖かし』を封じるための呪符がいくつも貼り付けられている。我ら『妖かし』の血をひく一族にとってはちと厄介な代物だ」
確かにその槍の柄からは不吉なものを感じる。ピリピリとした嫌な感覚が触れなくても伝わってくる。
「どうしてふみのさんが?」
「わかるのか? ふみのとあやのの違いが」
わりと斑目は落ち着いているように見えた。
「ふみのさんにも、あやのさんにも一度会っていますから。どうしてこんなことに?」
瑠樺はもう一度訊いた。斑目は何かを知っている。その冷静な口調からそう直感させられた。
「ふみのは矢塚を監視していた」
「監視? 何のためにですか?」
「こういう時のためだ」
「それじゃ、これは矢塚さんがやったのですか?」
「そうだな。きっと矢塚に殺られたのだろう。いかに美月の一族といえども、ここでは矢塚のほうに利がある」
「そんな……どうして矢塚さんが?」
「あの男はもともと『妖かしの一族』ではない。だから不思議ではないのだ」
「そんな言い方ひどいと思います。矢塚さんの立場はあなたと同じじゃありませんか。そのあなたがそんなことを言うなんて」
「そういうことを言っているわけではない。詳しく話すことは出来んが、儂と矢塚は違うのだ」
「矢塚さんはどこに?」
「わからん。今、あやのが捜している。そして、『常世鴉』たちも一緒にな」
「矢塚さんをどうするんですか?」
「見つけ出す。もし、あやのが見つけ出せば、その場で処分することになるかもしれんな」
ゾクリと背筋が寒くなる。
「……あやのさん」
「おまえもわかっているだろうが、美月の一族として、姉妹としてこれを見逃すことは出来ないだろう。瑠樺、まさか止めはしないだろうな。言うまでもないが、止めても無駄だぞ」
あやのの気持ちを考えれば、斑目の言うことは理解出来る。だが、矢塚はこれまでに何度も瑠樺を助けてくれた。事情がハッキリしない今、矢塚がみすみす殺されるのを見過ごしたくはない。
「私が『和彩』を名乗れば、あやのさんを止められるんでしょうか?」
「そうかもしれないな。だが、それで無理にあやのを止めたところで何になる?」
「ここには他に……」
瑠樺が気になっていたのは草薙響のことだ。野愛の情報では、矢塚が結界をはる前に草薙がここに来ているはずだ。
だがーー
「他? いや、ここには誰もおらんかった」
つまり、草薙の行方もわからないということか。「どうかしたのか?」
「いえ、なんでもありません……でも、いったい何が起きたんですか?」
やはり、草薙のことは、今はまだ話さないほうが良いだろう。
「詳しい事情は儂にはわからん。言えるのは、矢塚が裏切ったということだ。いや、裏切らざるをえないことになったということか」
「裏切った? いったいどうなっているんですか? 春影さまならわかるのですか? 春影さまは知っているのですか?」
「聞いてはならん。今はまだ聞いてはならん。あの方も悩んでいらっしゃる。今、おまえが口を出してはならん」
斑目は絞り出すような声で言った。やはり何か特別な事情があるということか。
「結局、何一つ私には教えてもらえないんですね」
「すまんな。知らぬほうが良いこともある」
狡い言葉だ……と、瑠樺は思う。だが、自分が草薙のことを話さないのも似たような理由なのかも知れない。そういう意味では他人を責められない。
その時、一つの影が屋敷の中に飛び込んできた。
「ふみのさん!」
それは音無雅緋だった。
「雅緋さん」
真っ青な顔をした雅緋は、瑠樺の姿などまるで見えていないかのように、真っ直ぐに倒れているふみのの身体に飛びついた。
「ふみのさん! どうして……どうしてこんなことに!」
雅緋が泣いている。心の底から泣いている。
その泣き声が瑠樺の胸を突き刺した。
かつて父を亡くし、傷心の雅緋に手を貸して今の力を授けたのは美月ふみのだった。
以前、ふみののことを『変態狸』などと冷たく呼んでいたこともあるが、雅緋にとって美月ふみのが大切な存在であったことは間違いないだろう。
雅緋は怒りに満ちた目で、その胸に刺さっている槍に手を伸ばした。
「雅緋さん、それはーー」
瑠樺が声をかけるよりも早く、雅緋はその槍を握りしめる。
その手から煙が噴上あがる。槍に貼り付けられた呪符が強烈な熱となり、雅緋の手を焼いている。それでも、雅緋はその手を離そうとはしなかった。
慌てて瑠樺が止めようとするのを、斑目が杖で制する。
呪符をもろともせず、雅緋は槍をふみのの胸から抜き取って床に突き立てた。そして、再びふみのの身体を焼けた手で抱きしめた。その胸に顔を埋め、人の目をはばかることなく大声をあげて涙を流す。
雅緋にかける言葉が見つからなかった。
今は、そっとしておくことしか出来ない。
自分の無力さを感じていた。
瑠樺は雅緋を残して屋敷を後にした。




