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6-16

 桜宮家本家への滞在期間、和幸は頻繁に健が眠る部屋へ訪れた。

 療養中の人間の部屋に幾度も訪れるのはあまり褒められたことではない。それを理解しながらも訪れているのは胸の内に刻まれた不安が理由だ。


 和幸は十年以上も前に大切な人を立て続けに失った。


 鬼神の宿主として生まれ、両親にすら恐れられるように育った幼少期に出会った少女。

 外側しか見ずに和幸の権威にあやかろうと近付く者たちにうんざりしていた学生時代に出会った青年。

 自ら世界を狭めて生きる和幸を振り回し、広い世界に目を向けることを教えてくれた人たちだ。


 少女は、和幸の守鬼として生まれた人物だった。貴族令嬢としての立場を捨てて、使用人として和幸を天真爛漫に振り回した少女。

 彼女は自らの死を目の前にしながらも変わらない態度で和幸に笑いかけた。


「幸様の子供とお会いできないのは少し残念ですね」


 邪気に侵されたその身で、少女はたった一つだけの後悔を口にした。

 暗い顔を和幸には一切見せず、天真爛漫に笑ったまま、少女――由菜は死んだ。


 青年は、奇跡をもたらす藍の子として生まれた人物だった。執着心を持たない極度の面倒臭がり屋で、和幸も随分手を焼いた。


 彼の最期を見つけたのは和幸で、笑みを湛えた死に顔は心を焼いた。

 己の生にすら執着せず、突然過ぎる死すらも受け入れたその顔は綺麗で、何よりも彼――海斗らしい死に顔だった。


 二人の死を前にして和幸は泣くことができなかった。感情を爆発させる術を知らず、途方もない喪失感とひび割れた心だけが今も胸の中にある。

 ひび割れたままの心は今もなお、和幸の中に大切を失う恐怖心として残っている。


 由菜が、海斗が広げてくれた世界でたくさんの大切なものができた。そのどれ一つでも失う未来を想像するだけで心が軋む。


「俺の大切なものは俺よりも先に死ぬ」


 由菜がそうであってように。海斗がそうであったように。

 力が無意味な瞬間があって、ならばせめて手の届く範囲で生へ繋ぎ止めたい。そう思っている。

 今、和幸が向かう先に待っている少年もまた大切なものの一つ――。


「健、入るぞ」


 眠っている可能性の方が高いので意味のない確認だ。

 事実、ノックに返事はない。それでも最低限の礼儀は必要だ。

 健のいる部屋に返事のないままに入るのは初めてではなく、そのまま扉を開けた。


「……っ。健、大丈夫か」

「お、さ……ま」


 ベッドに傍で倒れ伏した健を見つけて慌てて駆け寄る。

 喘ぐような呼吸を繰り返す健はその目に和幸に映し出して口の端を上げる。

 脳裏に笑って死んだ由菜が浮かんで、微笑む海斗の死に顔が浮かんだ。


「ちょっと……ベッドから落ち、て」


 苦笑を乗せた言葉に疑いの目を向ける。

 重症にも拘わらず、抜け出そうとして力尽きた前科ならいくらでもある。


「ほ、んとっです、よ?」

「まあ、そういうことにしておいてやるよ」


 不満げな視線にそう答える。文句があるなら今までの行いを見直せ、と。


 苦痛に苛まれていても健は普段通りを努めるように言葉を並べる。その姿が由菜と重なった。

 健もきっと最後までいつもと変わらない健のままで死ぬのだろう。


「なんて……顔、してっです、か」


 苦しげな呼吸の合間に健は笑声を零した。咳混じりの笑声で和幸ははっと我に返る。

 悠と戦ったせいか、どうにも由菜の姿がちらついて困る。


 かつて由菜は和幸の世界だった。和幸にとって価値のあるものは由菜だけだった頃があり、思い出すたびに心が震えて仕方がない。


 気付けば、和幸の頬を冷たい指が触れていた。生の温かみを感じさせない指先が冷静さを取り戻してくれる。


「おれ、は……おーさまより、先にっ、死な、ないよ。歳の差、っいくつだと思って、るの……」


 冷たい手に反して声は温かい。その齟齬こそが健の優しさ。

 何度も触れてきた優しさに再び触れて、深く息を吐き出した。肺が空になるまで吐き出して、意識を切り替える。


 変わった表情に健もまた深く息を吐き出す。そろそろ限界が近いのだと悟って和幸は健の身体を抱えあげる。

 見た目以上に軽い身体は全体重を預けられても、大して負担にはならない。健を抱きかかえるたび、感じる重みに健らしさが詰め込まれている気がする。


「ありがと、ございます」

「気にするな」


 春野家で健が使っているものよりも上等なベッドに身を預けて、健は息を吐く。

 強制睡眠に抗うように瞬きをしながら、健は眠たげに和幸を見た。


「おー、さま。ゆめ、みたよ」


 いつも以上に舌足らずな口調で紡がれた言葉。

 以前、頑なに眠ろうとしない健にその理由を聞いたとき、「夢を見るから」と答えていたのを思い出す。


 詳細までは聞いていないが、いつも同じ夢を見るのだとか。

 その夢を見たくないから眠りたくないのだと健は語っていた。


 珍しく見せた弱味を思い出す和幸の姿に健は仄かに笑って、


「あの日の、ゆ、め」


 寝息混じりの言葉を残して、健は完全に寝入った。


 あの日とは何とも抽象的な言葉である。

 それでも和幸にはいつのことを指しているのか分かった。――健が貴族街の人間となった始まりの日のことだ。


 ありふれた日常と決別するきっかけとなった出来事は、健の中では夢に見て笑うくらいのこととして消化されているのだ。


 安らかな寝息を立てる健は今、どんな夢を見ているのだろうか。

 その頭へ手を伸ばし、柔らかな髪を梳くように撫でる。起きているときには中々させてくれないことだ。


「あの日か、懐かしいな」


 一番の当事者である健が気にしていないのなら、和幸が気にしても仕方がない。


 ただ過ぎ去った記憶の一つとして消化して、懐かしさで目を細める。

 和幸が健に、今の健に初めて出会ったのは桜宮家当主の命で訪れた場所だった。


 〇〇〇


 白い建物に囲まれた空間に和幸は立っている。貴族街の一角に居を構えるそこは研究区と呼ばれる場所だ。


 貴族街の表の長である和幸ですら両手で数えられるくらいにしか訪れたことがない。まだスラム街の方が行ったことがあるくらいだ。

 桜宮家当主の命はとある研究施設に侵入し、少年を救い出すこと。


「やはり何か思うところがあるものなのかい?」


 問いかけるのは紫紺の髪を持つ鬼だ。紅鬼衆の一角たる青年は涼しい顔で痛いところを突いてくることが度々ある。


 天然ではなく計算。その癖、感情の機微を悟ることのが上手い。だからこそとも言えるが。

 こうして性格悪く問いかけるのも気持ちの整理をする手助けなのだ。


「さてな」


 和幸はあえて答えを暈すような言葉を選んだ。

 救い出す少年は鬼神の宿主だという。数年前まで和幸が鬼神の宿主だった。


 宿主は死によって代替わる。例外はない。例外は、ないはずだった。

 しかし、守鬼の死をきっかけに和幸は鬼神の宿主ではなくなったのだ。


 この肉体に宿っていた紅き魂が消え、今はただ喪失感だけが残っている。

 和幸の身体から消えた紅を宿した少年を今から助ける。抱く感慨は特にない。

 直接この目で見ればまた感じることもあるのかもしれないが。


「それは頼もしい限りだね。煉鬼もそう思うだろう?」

「俺はその手のことは疎いんだ。話を振らないでくれ」

「つれないな。瀧鬼よりも幾分か会話にはなるけどね」


 今回の任務において二人の鬼を同行させている。

 五感を操る幻鬼と炎を操る煉鬼。暢気に会話する二人に息を吐き、白い施設へ足を向ける。


「話してないで行くぞ」


 事は一刻を争うのだ。気を引き締める思いで踏み入れた先にあるのは白一色で統一された世界。


 狭い受付は無人。そこを通り過ぎてさらに奥へ。

 部外者の侵入を拒むような厚く重い扉を開けた。瞬間、血の匂いが鼻腔に突き刺さる。


「これは……っ」


 白いはずの部屋が赤に染まっている。壁や床が歪に姿を変えており、それに巻き込まれた研究員と思わしき人間たちの死体が転がっている。


「力が暴走しているようだね。ここまで被害が及んでいるなんて、余程相性がいいよう……おっと」


 突然盛り上がった床を、ステップを踏むように避ける幻鬼は指示を仰ぐように和幸を見る。


 桜宮家当主からの情報だと、少年は地下にいるらしい。

 地下からここまで力が届いているというのなら、幻鬼の言うように器として適性が高いということだ。危うさを感じるほどに。


「急ぐぞ」


 歪み、盛り上がった壁や床を乗り越えながら三人は奥へと進む。

 地下へと続く階段は七個目の扉の先にあるという話だ。受けた命令の詳細を脳内で反芻しつつ、迫り来る壁を避ける。


 不規則、縦横無尽に暴れ回る壁と床ではあるが、避けるのはそう難しくない。

 道中には最初の部屋と同様に死体が転がっていた。中にはまだ生きている者もいたが、三人は構わず先へと急いだ。


「ここだな」

「ふむ、強い鬼の気配を感じる。当たりだね」


 戯言のように紡がれる言葉を聞き流し、地下へ続く階段を下る。

 一歩進むたびに鬼の気配が強まり、懐かしさに胸が疼く。


「おやっ、遅かった、よう、だね」


 地下の研究室へ踏み込んだ和幸たちを一際強い血の香りと、致命傷を負った研究員が迎えた。


 その目に映るのはまだ幼い少年。年は三つか、四つか。

 細い身体からは夥しい量の血が流れ、足元に水溜まりを作っている。

 少年の目は紅く輝き、虚ろに宙を見つめている。


「これは一体、どういう状況だ?」

「実験だよ。神を顕現させるためのね。お上からの命だったが、なかなか良い結果だ。そうは思わないかい?」


 煉鬼の問いに答えた白衣の男。白衣を自らの血で赤く染めた男である。

 おそらくこの研究施設の長が彼なのだろう。得意げに三人を迎えながら自身も少年の暴走に巻き込まれ、瀕死の状態だ。


「幼い子を傷付けて良い結果だなんていい趣味しているね」

「必要な措置さ。器が瀕死の状態となれば、神は顔を出す。お上のお眼鏡にかなったはずだけど?」

「あの方の考えは俺たちには分からない。……ただ、あの方はお前の死を望んでいる」


 和幸が手を下さずとも男はいずれ死ぬだろう。しかし、今は一刻を争う状況。

 一瞥で煉鬼へ指示を飛ばす。真紅の目が刹那、紅く瞬いたと同時に白衣の男は一瞬で炎に呑まれた。鬼の力で威力を底上げされた炎はすべてを燃やし、すべてを灰へと変える。


「煉鬼、施設にいる人間を残らず焼き尽くせ」


 生成した炎を煉鬼が持つ水晶へ注ぎ、命令を下す。


 少年を助ける他に、この研究所の人間をすべて殺すことも今回の任務に含まれる。

 本来、処刑人が担う役割だが、少年の存在が極秘事項なのと当代処刑人がいないという理由から和幸が出向いているのだ。


 頷きで了承を示した煉鬼の後ろ姿を見届け、一番の問題へ目を向ける。

 目を紅く輝かせる少年。鬼の力に意識を乗っ取られ、立ち尽くす彼へ。


「幻鬼、あいつの五感を奪え」

「難しいこと言うね。僕程度の力じゃ、簡単に上書きされてしまうだろうけど……仰せのままに」


 芝居がかった手振りの幻鬼はその目を紅く輝かせ、呼応するように少年がの身体が揺れる。

 部屋の中を荒れ狂う、神の力が刹那だけ止まり、和幸はその隙をついて少年へ駆け寄る。


「――っ」


 触れた手を通して鬼神の力が流れ込んでくる。

 無理に力を引き出され、外へと溢れ出していた力が簡易的に繋がれた経路を通って和幸の中に流れ込んできているのだ。


 元宿主である和幸は鬼神の力と相性がいい。懐かしさを感じる力を胸に、和幸は小さな身体を抱く。


「ぅ、あ」


 紅と黒。目の色が点滅するように激しく切り替わっている。

 呑まれていた自我が少しだけ顔を覗かせ、


「大丈夫だ」


 優しく語りかける和幸はその頭を撫で、強制睡眠の術を発動させる。

 子供は何も知らず、眠っていればいいと。しかし、術は弾かれた。


「……。耐性がある? いや、防御系の術を自動で発動しているのか」


 こんな幼い子供が? 信じられない思いで、抱えた少年を見つめる。

 鬼神の宿主とは別の何かがあるかもしれない。それこそが宿主の役割が和幸から彼へと移った理由なのかもしれない。


 考える和幸を無機質な目が見つめ、閉じられる。身体から力が抜けて全体重がかけられた。

 体力が尽きて眠ってしまったらしいと荒い呼吸の寝息で判断する。


「これからどうするんだい? 彼の治療も必要だろう?」


 紅鬼衆の中に治癒の術を扱える者はいない。和幸も精々気休め程度だ。

 彼の怪我を治癒するには程遠い、と少年の傷口を確認する。


「これは……」

「おや、塞がっているね。力の暴走した影響だけというわけじゃなさそうだ」


 ナイフを突き立てられたと思わしき傷は薄い皮で繋がっていた。

 鬼神の力は万物を操る力。身体の組織を操って、治癒を促すことはできる。


 力を暴走された際に治癒されたと考えるのが自然だ。鬼神の力は宿主を生かそうとする。

 しかし、そうだと結論付けるには治り過ぎている。


「取り敢えず、屋敷に戻る。幻鬼は煉鬼と合流してくれ」

「分かったよ。幸も気を付けて」


 少年――健を抱えて、和幸は春野家へと戻った。これが健が貴族街の人間となった始まりである。

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