6-14
調度品一つ、床や壁の素材の一つ取ってもお金がかかっているのが窺える。
父が病院の院長を務めているとはいえ、一般市民的金銭感覚の星司には落ち着かない空間だ。
三日の滞在にあたって星司たちには部屋が用意されている。和幸と星に用意された部屋とはランクが一つ下がるが、十分すぎるほどの厚待遇だ。
優雅と同室なのがせめてもの救いだろう。
その優雅も今は不在で、広すぎる部屋にただ一人。落ち着かない。
「素振りでもすっかあ」
星司は幼い頃に剣道を始めてから、ほとんど毎日のように素振りをしている。
使い慣れた竹刀が手元にないものの、おもちゃの剣に霊力をまとわせれば刃渡りも重さも同じにできるので問題はない。
素振りするのに適している場所は一度、紅に案内してもらっている。
行動は特に制限されておらず、部屋の外も自由に出歩ける許可を得ている。すべての行動に自分の命がかかるという条件付きだが。
部屋も広ければ、廊下も長く、屋敷全体はもっと広い。迷うのがオチなので、星司は素直に案内された場所のみに立ち寄ることにしている。
「あれは悠か?」
悠もまたこの屋敷に滞在している。姿を見ること自体は不思議なことではない。
ただ、見慣れた無邪気とは違う、暗く冷たい表情を浮かべた姿がやけに気になった。
悠が進む先にあるのは貴人の居住区。そこには健が眠る部屋もあるので特別不審な点はない。ないが、星司は胸中に湧いた不審に駆られるように悠を追いかけた。
勝手知ったる場所といった風に悠はどんどん広い屋敷の中を進んでいく。
星司もまた悠を追って歩を進める。不安はありつつも速度は落ちない。
やがて悠は扉の前で止まった。通り過ぎてきたどの扉とも違う、シンプルなデザインの扉だ。
この屋敷の扉はどれも細かい細工が施されており、シンプル過ぎる扉は異質だった。
悠の姿が扉の中に消える。星司もまた重たい扉を開けて――。
「僕に何かご用ですか」
大きくて丸い目がじっと星司と見つめている。
「きっ、づいてたのか」
「気付かれたくないならもっと気配を消した方がいいと思いますよ。僕にはバレバレです」
悠は曲がりなりにも裏の世界で生きてきた人間だ。星司の下手な尾行など簡単に見破れるのだ。
「悪い。後をつけるつもりはなかったんだが、その、気に、なって」
「別に責めているわけじゃありませんよ。来たいなら来ればいいんじゃないですか。面白いものはありませんけどね」
無邪気さが鳴りを潜めているせいか、いつもより冷たく感じる。
これが本来の悠なのだろうか。
その片鱗は今までも度々向けられてきた。ただ、今の悠からはこれまで向けられてきたものと違って刺々しさは感じられない。
興味が失せたように悠は背を向けて歩き出す。
扉の先には地下へ続く階段があり、悠はその階段を乏しい表情で下っていく。
「この先に何があるんだ?」
「牢屋ですよ」
端的でも悠は言葉を返してくれた。会話をしてくれる気はあるらしい。
短くない時間、階段を下へ下へと歩いていけば、入り口と同じシンプルな扉へと行きつく。
扉の前には門衛に似た制服を着た男が立っている。悠の言葉を信じるなら看守だろう。
「部外者は立ち入り禁止だ。とっとと引き返して――」
「僕は岡山悠です。当主から話は聞いていると思いますが」
「もっ、申し訳ありません。どうぞ、お通りください、悠様」
深々と頭を下げて、慌てた様子で道を譲る看守の横を悠は無表情のまま通り過ぎる。その冷たい一瞥を受けて、星司も後に続く。
扉が開かれた瞬間、鼻腔に突き刺さった匂いに思わず顔を顰める。
数回訪れたことのあるスラム街の匂いに似ている。現代日本という恵まれた環境で生きてきた星司には縁遠く、なるべく息を吸わないようにして悠の横に並ぶ。
「ちょいちょい気になってたんだけど、お前ってここだとそこそこ地位が高いのか?」
使用人だけではなく、巫女までもが悠に頭を下げる姿を何度も見たことがある。
巫女は貴族街で高い地位にいる存在だと浅い知識で知っている。
「まあ、そうですね。僕は守鬼ですから地位的には巫女よりも上ですよ? 本家の中じゃ、その辺しっかりしてますからね。価値あるものを丁重に扱うことを厳しく仕込まれているんです」
「その、守鬼ってのは何なんだ? お前は人間だよな」
「人間ですよぉ。種族的には? 能力的には鬼よりですがっ」
すっかりいつもの調子を取り戻した悠は無邪気に言葉を重ねる。
馴染みない場所、雰囲気に身を硬くする星司を気遣ってくれているのかもしれない。
暗い廊下には鉄格子が並んでいる。大小様々な広さの牢屋のほとんどが空室で、住人がいても生きているのか、死んでいるのか分からない状態だ。
漫画で見たことがあるだけの未知の世界。無意識に全身が強張ってしまう。
「守鬼は鬼神の宿主を守るために生まれた存在です。宿主と同じ日同じ時間に生まれた存在。その間には見えない経路が結ばれいて、宿主に降りかかる災厄を受け入れて浄化するってのが守鬼の役割です」
今の鬼神の宿主は健だ。悠は健を守るために存在している、ということだろうか。
二人の関係を近くで見てきた星司には素直に頷ける説明だ。
「僕の健兄さんの間に結ばれたパスは不完全なものですけどね」
小さな呟きには隠し切れない悲哀が宿っていた。
大きくて丸い目に映し出される感情の波を見て取り、星司はそれ以上の追及をやめた。あんな表情を見て、それ以上のことを聞こうなんて思えない。
これもまた逃げなのだろうか。
「話はここでおしまいですね。ここからはお静かにお願いします」
悲哀を刹那で消し去った悠は三つ目となるシンプルな扉に手をかけた。
次は何が待ち受けているのか、期待や高揚よりも不安を膨らませる星司は久しぶりに綺麗な空気を吸い込んだ。
澱んだ空気に触れていたのはほんの二、三分程度だったが、もう何時間もあの空間にいた気がする。
新鮮とはいかないまでも、澱みのない空気で満たされた肺が歓喜しているのが分かるほどだ。
「ここは凶悪犯罪者を収監している場所です。今いるのは一人だけですね」
星司が問うよりも早く悠は端的な説明を言葉にした。
収監されたたった一人。悠はその顔にどこか緊張のようなものを滲ませながら、その人物と相対した。
広い牢屋の中、一人の女が囚われている。
まとうのは薄汚れた白い着物一枚。腕には壁に固定され、膝がつくか、つかないかくらいの位置で宙吊りにされている。
地面につくほどの長い髪は薄暗い牢屋の中でも艶めいて見える。顔は髪に隠れて見えないが、美しさの片鱗が傍からでも感じ取れた。
「久しぶりですね」
冷え込んだ悠の声に反応して、女はゆっくりとその顔を上げた。
隠されていた顔が明らかになる。感じていた片鱗を肯定するように美しい顔が。
弧を描く薄い唇は赤く、妖しい雰囲気をまとっている。
そして――その目には奇怪な紋様が描かれた布が厳重に巻かれている。
「だぁれ」
甘ったるい声が狭い空間に響き渡った。
顔が向けられていても、布で隠された目が二人の姿を映し出すことはない。
「まさか僕のことを忘れたとは言わせませんよ」
「……その声、もしかして心悠ちゃんかしらあ。大きくなったわね。声が大人っぽくなった」
心悠、と。女は悠のことをそう呼んだ。
不愉快だと顔を歪める悠はより険しく、女のことを睨みつける。
関係性が読めない中、星司は黙して二人のやりとりを見つめるに徹している。
「見られないのが残念だわあ。きっと美人になってる。だって私のあの人の子だものね」
「母親面するのはやめてもらえます? それらしいことなんて一度としてしていないくせに」
「それでも私は心悠ちゃんの母親だものお。その事実は変わらないわ」
子供っぽく彩られた甘ったるい声は大人びて言葉を紡ぐ。独特な空気の喋り方で明かされた二人の関係性に、ただ驚きを持って見つめる。
「はは、おや」
不思議な話ではない。悠は岡山家の人間ではないのだから、他に親がいるのは当たり前の話だ。
失念していた事実を想像を超える形で突き付けられた。思わず漏れた声は許してほしい。
「あらぁ、他にも誰かいるの? 男の子の声ね。心悠ちゃんの好い人かしらあ」
「違います」
「否定しなくてもいいわよお。愛するのはとてもいいことだもの。愛は人を満たすもの。素晴らしいものよお」
「その結果、相手は処刑されて、自分はこんなところで一生を過ごすことになっても?」
軽蔑を宿した問いかけに女は赤い唇に浮かべた笑みをさらに深くした。妖しさを漂わせる姿で口の端から笑声を零す。
「それでも尽きないのが愛の素晴らしさなの」
響き渡る女の声は無垢な少女のようで、歪みなく歪んでいた。
「心悠ちゃんにもいつか分かるわよ。私の子だものお」
その事実が耐え難い、と顔を顰めて悠は踵を返した。その目を、その肩を震わせながら、自分の母親へ拒絶を示した。
その小さな抵抗も、目が隠された相手には届かない。
「義理は果たしたので僕は失礼します。さようなら」
「もう行っちゃうの? 残念だわあ。またいつでも遊びに来てねえ。ここはとても退屈だもの」
投げかけられる甘い声には答えず、悠は返した踵のまま歩き出す。
腕を掴まれ、星司は引き摺られるに近い形で女の前を離れた。
掴む力は強く、その手は微かに震えていた。怒りか、嘆きか、判別できないままに星司は悠に引っ張られて三つの扉を通り過ぎた。
地上へと出て、ようやく悠は星司から手を放した。強い力で握られていた腕には痣が残っている。
「すみません」
低く、小さく謝罪を口にしながら悠は星司の腕へ治癒を施す。瞬く間に治り、十秒もかからずに痣は影も形も残さず消えた。
「あの人、元大姫巫女なんですよ。それが、禁を犯してあんな場所に幽閉されいるんです」
治癒を終えた悠は星司に背を向けて語り出す。
声には感情の波が感じられず、表情も見えない。殺し切れない感情を星司に見せたくないのかもしれない。
「桜宮家当主にその身を捧げた立場でありながら使用人の男と関係を持った。それがバレたのは僕を身籠った頃だとか」
淡々と事実だけを告げる姿からは彼の感情は読み取れない。
ただ表情を隠している以上、何も思っていないわけではないのだろうと考える。
「男はすぐに処刑されて、あの人の処分は僕が生まれるまで保留となりました」
「子供に罪はないから、か」
「いいえ。そんな甘い考え、貴族街にはありませんよ」
溜め息のように悠は星司の言葉を否定した。
「大姫巫女の子であれば、有用な力を持った巫女が生まれるかもしれないから、ですよ。結果、守鬼が生まれて、その功績によってあの人は幽閉されるに至ったって感じですね」
功績とは言うが、それが恵まれたことだとは星司には思えなかった。
独りきりで薄暗い場所で過ごす日々。潔く処刑されることとどちらがマシかなんて判断つかない。
「どうです? ちょっとは僕に同情してくれました?」
くるりと振り返った悠は無邪気を星司へ向ける。牢に入ってからのすべてが嘘だったのかと思いたくなるほどの変わり身だ。
それでも、あの震えた姿は決して演技ではないのだろうと思う。
「同情してくれたなら僕の協力者になってくれませんか」
「協力者って何の?」
「それはもちろん目的を果たすための、ですよ。星司さんが協力してくれれば百人力です」
星司には悠が評価するほどのものはないはずだ。力も知恵も、悠の知り合いの中では劣っている方と言えるだろう。
冗談でなければ、何か裏があるに違いない。
「目的の内容も分からないのに協力なんてできねぇよ」
「流されてはくれませんか。別に隠すことじゃないので言いますけど、僕の目的は――健兄さんの目的を阻止することです」
「は⁉」
悠の目的は健の目的に通ずるものだと思っていた。しかし、実際明かされた目的は星司の考えの正反対を行くものだった。
悠が健に忠誠を誓っているのは間違いない。その上で健の目的を否定しているのだ。
嘘でも冗談でもなく、その目は真実の証明だけをしている。
そういえば悠は健を行方不明になったときも似たようなことを言っていた。
「なんで、健の目的を阻止するなんてそんな……」
「健兄さんの目的が達成されると僕が困るからですよ。だから阻止したい。協力してくれませんか?」
媚びるように首を傾げて、上目遣いに問いかける悠。対する星司は首を横に振って答える。
「お前の目的は分かった。でも俺は健の目的を知らない。答えは変わんねえよ」
「むぅ、頑固ですねぇ。仕方ありません。今回は引き下がってあげましょう」
健の目的までも明かす気はないらしい。知らないと言っていたとはいえ、把握している情報すらも教える気はないらしい。
大人しく引き下がる悠はまだ未練がましく星司へ、ちらちらと視線を送っている。
「お前が俺に拘る理由が分からねぇよ」
「星司さんは健兄さんの弱味ですもん。だから味方になってほしかっただけです。王様も、星さんもぜんっぜん協力してくれませんしぃ」
ますます分からない、と眉根を寄せる。自分が健の弱味になるとは到底信じられない。
能力的な意味で和幸の名があがるのは分かる。恋人である星の名前があがるのは分かる。
困惑する星司に悠はただ笑みを向けて、
「ああ、そうそう。僕の話、あの人のことは他の人たちには内密にお願いします」
それだけ言い残して、悠は意気揚々と自分の部屋がある方向へと歩いていった。