6-10
振るった一撃は軽い挙動で振り払われる。これで何回目かなんて数えるのはもうやめた。
対策会議から毎日のように星司は、こうして八潮にあしらわれる日々を送っている。
講師組の相談の結果、基本は和幸が優雅を、八潮が星司の面倒を見ることとなった。
レオンと海里の二人は八潮が来られない日の代わりという話だったが、八潮は毎日来てくれている。
「有給使えって上に言われとったからちょうどええ機会や」
というのは八潮の言だ。
「踏み込みが甘いっ!」
二人はもう一時間近く手合わせをしている。その間に星司は何度転がされたか分からない。
あしらわれ、転がされ、すぐに立ち上がっては八潮へ果敢に仕掛ける。
何度も繰り返した疲労が溜まっていたのか、反応が少し遅れた。踏み込みの甘さとして現れたそれに指摘を受け、連撃でひっくり返される。
「ちょっと休憩するか」
「はあ、はあっ、すみません」
体力はある方の星司ではあるが、いつもと違う動きをしているせいか、もう息が上がっている。
手合わせならレオンや海里、流紀辺りなんかとも定期的にしている。
ただ八潮は今まで手合わせした誰よりも容赦がない。ほぼ素人の星司への配慮が一切ないのだ。
文句はない。二週間という短い間で強い間で強くなるためにはこれくらいがちょうどいい。
「気にせんでええ。俺もちょっと手加減が苦手で……堪忍な」
「今はこれぐらいがちょうどいいっすよ。俺の相手は、健、ですし」
和幸によって対戦相手が決められた。
優雅は夜、和幸は宣言通りに悠の相手も、そして星司は健の相手をすることとなった。
話した方がいい。その言葉がこんな形で実現させられるとは思っていなかった。
「あ、休憩?」
手合わせをする二人の傍らで何かの資料を読んでいた海里が顔を上げる。
読んでいるのはこの拠点の中にあった資料だ。星司が手合わせをしている間、ずっと資料を読み耽っている。
「ああ。海里は相変わらず熱心に読んでんな」
覗き込むが海里の持っている資料は白紙だ。
いや、厳密に言えば、白紙でもない。星司の目には白紙に見えるというだけだ。
この拠点にある資料はすべて資格のある者にしか読むことができないらしい。
海里には資格であって、星司には資格がない。
「すごいよね、これ。俺も少しは勉強してるけどどういう術式なのか、まったく分からない」
白紙にしか見えない資料に眉根を寄せていた星司へ海里はにこやかに語りかける。
見慣れた笑顔に心を解かされたように星司の表情は軟化する。
「健君はどこで術の基礎を学んだんだろうね。八潮さんは何か聞いたりしてませんか」
「んー、使い方と知識は生まれたときから持ってたって話やったかな。研究を重ねて、術の開発してここまでのセキュリティが作れるようになったっとか」
記憶を掘り起こして言葉を並べ立てる八潮。星司はただ驚いて聞いていた。
最近考えを覆されて驚いてばかりのような気がする。
それだけ星司は健やその周辺について知らず、それだけ目を背けて生きてきた。そういうことだろう。
「生まれたときからって生まれたときからってことっすよね?」
「ははっ、混乱するのも無理ない。でも俺はそう聞いとるし、嘘でもないと思っとる」
「健君には生まれる前の記憶があるのかな」
理解を越えて混乱する星司とそれを笑う八潮。海里はそんな二人とはどこかずれた感想を口にする。
呑気な語調に対して隻眼は真剣な光を宿している。資料に注いでいたのと同じ目である。
「俺が会ったときにはもう使いこなしとったし、それ以前の話は悠に聞いた方が早いんと違う?」
「悠くんはずっと一緒にいるんだもんね。あ、ずっとというわけでもないのかな」
健と悠は双子――という設定である。二人には血の繫がりはなく、悠は岡山家の人間ではない。
星司すら最近知った事実を海里は以前から知っていたように呟く。
「海里は知ってたのか、健と悠のこと」
「うーん、となんとなく? ほら、双子というには似てないし、二人を見てたら……」
その隻眼は鋭く、ただ見る以上の情報を得ていることがある。外側だけではない中身までも海里には見えていて、今回もそういうことなのだろうと思う。
だとしても一緒にいた時間の長い自分が気付けなかったことが胸に燻る。
「俺は双子だから感覚的に分かったのかもね」
表情を曇らせる星司をフォローする海里の口調は軽い。フォローのようでその実、場の空気を整えるための言葉だ。
海里は見た目に反してスパルタなところがある。甘えや弱さをその温かな笑顔で包み、軽く柔らかな口調で叱咤する。それが武藤海里という男だ。
「俺も悠がいつから健と一緒かはよう知らんなぁ」
「その辺りの話は星司の方が詳しい?」
「んあ、あー、悠か。俺もあんまりはっきり覚えてねぇんだよな。多分、健が春野家から帰ってきたときに一緒にいて、それから今みたいな感じでずっと……」
姉の話と自分の朧げな記憶を合わせて選ぶように言葉を並べる。
幼い頃、健は黒い服の男に連れ去られた。それから約一年、春野家に滞在している。そこから帰ってきたときにはすでに悠は一緒にいた。
「やっぱ健君に直接聞いた方が早そうだね。どこまでちゃんと答えてくれるかは分からないけど」
ずっと資料を読んでいることもそうだが、海里は何かについて調べているらしい。
おそらくは健も深く関わっていることで、レオンたちにすらその詳細は伏せている。一度聞いたときには、
「自分の立ち位置を決めたいんだよ」
そう言って、隻眼で遥か遠くを見つめていた。少しだけ健と重なって見えた。
「星司の方はどんな感じ? 動きはだいぶよくなったみたいだけど」
「転ばされてばっかだから分かんねぇよ」
動きがよくなったと言われても星司自身に自覚はない。
指摘された部分を直しても転ばされる。自分なりに攻略法を考えては転ばされる。まったく歯が立たない。
息が上がり、疲労も露わにする星司に対して八潮は汗一つかいてもいないのだ。それは鍛錬が始まってからずっと変わらない。
「八潮さんってめちゃくちゃ強いっすね」
決して侮っていたわけではない。外から見るのと実際手合わせするのとでは重みが違うのだ。
普段は人懐っこさを宿しているその目が抜き身の刃となって向けられる瞬間。
本物に触れて身が竦み、圧倒される感覚は星司の胸を高揚させた。
「健の教えがよかったのと、ずっと本物の中で生きてきたお陰やな」
「小さい頃に教育を受けたって聞きましたけど?」
「あー、俺は昔、七歳のときやったかな。暗殺組織に売られてな、そこでみっちり戦い方を教えてもらったんや」
壮絶とも言える過去を八潮は変わらない口調で語った。表情すらも変わらず、八潮にとってはもう終わった話なのだと告げている。
「貴族街じゃよくある話、俺はまだマシな方だ」
一瞬、八潮の声音が変わったような気がした。人好きするように整えられた関西弁が外れ、作り込まれた仮面が外れ、君江八潮という人間が初めて姿を現したような――。
そんな感覚は瞬きの内に消えて、仮面が再びつけられる。
「その暗殺組織ってもしかして八潮さんが壊滅させたっていう?」
「海里!?」
デリケートな話題に躊躇いなく踏み込んでいく海里。
土足で踏み荒らすような所業。海里らしくないと思わず声を上げる。
問いかけられた八潮本人はといえば、
「はは、ストレートに聞くなあ。せや、俺を育てた暗殺組織を俺はこの手で殺した」
笑いを持って受けて、真っ直ぐな言葉で肯定した。そこに悲哀や悲憤、憎悪の欠片はなく、過去として消化したという事実があるだけだ。
売られたと話したときと同じように八潮は大したことはないと語る。
嘘偽りなくそう思っているのだ。生きてきた世界が違うのだと思い知らされる。
貴族街は治外法権。子供を売ることも、人を殺すことも罪とされていない。
罰する法はなく、罪を罪として認識するかはその人の感情次第。その感情さえも当たり前と消化された世界でまともに機能するとは言えない。慣れてしまえばすべて終わりだ。
健もそんな世界で生きてきたのだと考え、胸に痛痒を覚えた。
あの無表情を貫くような顔が貴族街での経験によるものだとは思いたくないが。
「んじゃ、そろそろ再開しますか」
「あのっ、一つ聞いてもいいですか」
休憩の終わりを告げる八潮へ、迷いながら声をかけた。
無表情に徹してばかりの健。それを上書きするように星司の脳裏には別の健の姿が浮かんでいる。
「なんや?」
首を傾げ、続く星司の言葉を待つ八潮。
言葉にする最後の最後まで迷いながらも星司はそれを口にする。
「健と、桜宮家当主って仲悪いんですか」
脳裏に浮かんでいたいつもとは違う健の姿。それは――苛立ちを隠さず、御簾越しの相手を睨みつける健の姿だ。
真剣な眼差しに対する暗い緑の目が驚きを映し出し、すぐに八潮は笑声を零した。
「えらい可愛らしい表現やな。仲が悪い……まあ、仲が悪いっちゃ仲が悪いと言えなくもないか」
星司としては大真面目、それも聞くべきか迷ってさえいた問いを笑われ、困惑よりも羞恥が宿る。
迷うほどのことではないと言外に告げられたような気がしたのだ。
「んー、あの二人の関係を説明するのは難しいな」
悩ましげな声を出す八潮は宙を仰ぎ、頭の中を整理するように数拍。
向き直る八潮は苦笑気味で、やはり悩ましげな表情を見せている。
「当主様は健のことを気に入っとる。ただ、愛し方が特殊っちゅうか、なんちゅうか、ことあるごとに性質の悪いちょっかいをかけてて、健がそれを疎ましく思っとるって感じやな」
相手が目上の人物だからか、言葉以上に複雑なものがあるのか、八潮の歯切れは悪い。
仲が悪いという言葉を可愛らしいと称した八潮をまた“ちょっかい”と言葉を和らげるように紡いだ。
健の姿をさせた土塊に巫女風の衣装を着せていたのも“ちょっかい”の一つなのだろう。
「それだけ、ですか」
ただ性質の悪いちょっかいだけで健があんな態度をするのだろうか。
引っ掛かりの覚えるのはそこで八潮の言葉は納得までいかない。
「それだけや。納得できひんって顔やな」
図星を突かれた気分で星司は八潮を見た。
他者の感情に振り回されず、自分を貫くのが健という人間だ。穏やかな感情の起伏は誰にも乱せないはずのもので、崩された無表情には相応の理由があるのだと。
「それだけやけど、違うのは――あの方が健の弱味を知っとるってことや」
「健君の弱味か。少し、当主さんに興味が出てきたな」
「だったら海里も本家に来いよ。お前がいるなら俺も心強いぜ?」
無理だと分かっていたから冗談めかせた言葉を返した。
「俺よりも八潮さんに頼んだ方が早いんじゃないかな」
笑みを含んだ海里の言葉は目から鱗で、その手があったかと八潮を見る。
協力してくれているが、八潮は処刑人。その意識が強く、対戦者として勧誘することは頭になかった。
「俺は戦う気はない。止められとるわけやないけどな」
「やっぱ戦いたくないんすか。仲間だし」
「んー、戦いたくないのは間違ってへんけど、心情的ってより能力的な話やな。それに健の目的に従うんが俺の望みやから」
言葉以上に複雑なものが宿っている気がした。己の中で咀嚼し、消化して単純な言葉として表しているのだ。
外側からは複雑なものでも本人にとっては単純なものなのかもしれない。
「さて、今度こそ鍛錬再開させるで。あと数日で健に勝てるようにならなあかんのやから」
「そうっすね。お願いします」
「頑張って」
親友の声援を背中で聞きながら、星司は八潮と向かい合う。
健と戦う日はすぐそこまで迫っている。今は強くなるのみ、と木剣を強く握りしめた。