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1-8

 武藤良には憧れの人がいる。

 一つ上の従兄で、陽の光のように温かい笑顔を常に浮かべた優しい人だった。

 大好きで尊敬していたのに、彼に関する記憶は朧気で顔も声も上手く思い出せない。


 それは、彼が町を去るときに周囲の記憶を消したからだということを良は知っている。

 去る間際、彼がある人物と話している姿を目にした。記憶を消したという話はそのとき知ったものだ。

 従兄を追いかけた先で聞いた話。姿を現すに現わせず、聞き耳を立てていた良を見た無機質な目を覚えている。


 人間のものとは思えない、情の欠如した目の持ち主は今、良と同じ教室にいる。

 その人物は周囲にささやかなざわめきを生み出しながら、我関せずを貫いて窓の外を眺めている。一切の表情が宿らない顔はあの頃からほとんど成長しておらず、機械のようだと思っていた心を肯定する。


「ミナサーン、授業の時間デースよ。Be quietデース」


 斜め後ろに視線を置いて様子を窺っていた良の耳に担任の声が届いた。慌てて授業の準備をする面々に紛れて良も姿勢を正す。


「今日はサポート役として特別講師をショウタイしています。岡山健サンデース!」

「は……?」


 微かな声につられるように良は後ろを振り返った。斜め後ろの席に座るその人は目を僅かに見開いて村中を見ていた。

 機械のようだった顔に感情が宿る瞬間を良は初めて目にした。


「聞いてませんけど」

「それでは健サン、よろしくお願いシマース。ミナサンもどんどん健サンに聞いてくださーい」

「……はぁ、仕方ないか」


 小さく息を吐いたのを最後に健は表情を消した。そうして教室全体が見えるように立ち上がり、教室の隅に陣を取る。


 始まった授業を静かに眺める健に話しかけるものをは一人もいない。

 学園一の問題児で、人を殺したことがあるなんて噂を持つ人物に関わろうとする人間がいないのは当然の話だ。良だって、気になってはいても声をかける勇気を持てないでいる。


 もし、この場にあの人がいたらどうしていただろう。


「はーい。健せんせー、分かんねぇとこがあるんすけど」


 誰もが教室の隅に立つ人物に気を遣うように授業を受ける中、一人の少年が手を挙げる。

 中口航輝。良の幼馴染にして親友である少年だ。健と友達になったと嬉々として報告してきた彼は物怖じすることなく、日焼けした顔に笑顔を宿して健に話しかけている。


「すごいな、航輝は」


 呟く良の後ろで次は転校生の少女が手を挙げた。ただ何も知らないだけとは違う表情を浮かべた少女の許へ行く健の無表情は少しだけ和らいだ気がした。


「ごめん」

「ううん。健のせいじゃないこと、ちゃんと分かってるから。わざとだったら怒ってたかもしれないけど」


 微かな話し声に釣られるように後ろを盗み見る。――目が合った。

 あの日と変わらない無機質な瞳との刹那の邂逅に心臓を鷲掴みにされる思いがした。視線はすぐに外されたが、鼓動は早鐘を打っており、良が平常心を取り戻すのに少しばかりの時間を要した。


 それから健は午後の授業の全てを講師役として参加した。たった数時間では健がいる状況に慣れることはできず、質問したのは航輝や星を含めて数人だけだった。

 全ての授業が終わり、やけに緊張感に満ちた教室から多くの生徒たちが逃げるように立ち去っていく。そんな中、一人の人物が訪れた。


「聞きましたよー。先生役で授業を受けてたんですって。来るなら言ってくれればいいのに……。健兄さんのいけず」


 姦しく健に話しかけるのは、隣のクラスの岡山悠だ。航輝と仲がいいということもあって良もそれなりに親しくしている。

 誰もが避けたがる問題児へ、彼が無遠慮に話しかけられる理由は至極単純。彼は健の双子の弟なのである。

 無邪気を詰め込んだ表情で彩られているせいか、双子というほど顔立ちは似ていないとうに思える。


「昨日は家にも帰ってきませんでしたし、寂しかったんですよ。……それで、目的は果たせたんですか?」

「半分はね。もう半分は――」


 ほとんどの生徒がいなくなった教室で双子は声を潜めて会話を続けている。激しい温度差を感じさせる態度と、似ても似つかない表情からは想像もつかないほど距離は近い。

 他の生徒に倣うように荷物を手早く纏める良は途切れ途切れに聞こえる声に思わず手を止め、聞く気はなかったはずなのに思わず耳をすませる。


「夏凛はあまりそういう話しないから……。あ、でも、一回だけ」


 違和感なく双子の話に参加している転校生の声。悠以上の親しさを持って健と接する彼女の態度は只者ではないと感じさせるには十分だ。

 転校生の名前は春野星。あの子の双子の姉だと考えると複雑な思いが胸中に沸き起こる。


「昔、パーティで王子様に会ったって言ったことがあったよ。五歳の時だったかな」

「星はその王子様を見たことがあるの?」

「ううん、話だけ。私は熱出してパーティには参加してないから……」


 聞き耳に集中する良は横目で三人の様子を窺う。無表情の裏で考え込む素振りを見せる健は悠と話しており、転校生の少女は穏やかな笑顔で見守っている。

 双子の会話は先程よりも密やかで良の耳には完全に届かなくなった。盗み聞くことしかできない自分に息を吐き、部活に行こうと鞄を持ち上げた。その時、三人の中にまた一人加わった。


「なーに、難しい顔で話し込んでんだ?」


 良の親友にして幼馴染の中口航輝である。日焼けした顔に快活な表情を浮かべ、自分たちだけの空気を作り出す三人の輪に入り込んでいく。

 無遠慮ながらも、相手に不快な思いを抱かせない絶妙な距離感を保っている。


「そういや、春野さんの妹、休みなんだって?」

「うん、そうなの。風邪をこじらせちゃったみたいで」


 聞こえた会話に再び動きを止めた良の動きを見計らったように航輝がこちらを向いた。


「心配だなー。な、良?」

「え、あ、ああ。そうだね」


 まさか話を振られるとは思っておらず、動揺を乗せた言葉を返す。一瞬、無機質な瞳に値踏みされた気がした。

 何気なく目を向けた先で、勘違いではないと言うようにこちらに向けられた目を見て息を飲む。走る緊張に気付かない航輝と悠が話している横を抜けて、健は良の前に立った。


「良さんは春野家のパーティに行ったことあるんですか」


 どこか壁を感じさせる口調は丁寧で、その無機質さは逃げも誤魔化しも許さない。

 そもそも岡山健という人間を前にして誤魔化す度胸など良にあるわけがない。


「父さんに連れられて一度だけ……」

「へぇ。俺は行ったことないんですよね。やっぱり豪華なんだろーな」


 世間話の一端というように会話を続ける健に値踏みしている気がしてならない。


「てっきり健は行ったことあると思ってたわ。春野さんとも仲いいし、ほら、春野家に出入りしてるって噂もあるだろ?」

「健兄さんにはああいう華やかな場所は似合いませんからねー。どっちかって言うと、一人で暗い場所にいるタイプです。ね? 健兄さん?」

「否定はしないけど、なんかムカつく」


 引き剥がされた無表情をすぐに立て直した健は航輝と悠の他愛もない会話を横目に良へ一歩近付いた。

 困惑を表情に表す良に微笑み、懐に紙片を忍ばせる。そして、「それじゃ」と軽く片手をあげ、全てを悠に任せるように教室を後にした。


 ●●●


 翌日、良は駅前の公園に立っていた。その手にあるのはあの日、健に渡された紙だ。

 紙に記されているのは今日の日時と、待ち合わせの場所だ。渡す時、健は「夏凛を助けたいと思うなら」と耳打ちした。


 良は今、不安と不審を抱きながらここにいる。

 事情は分からない。けれど、助けたいと思う気持ちは確かに良の中で息づいている。

 言葉ばかりで約束を守れなかった罪悪感が生み出した正義感は決して嘘じゃないと信じている。


「遅くなってすみません。来てくれてありがとーございます」


 遅くなって、と言いながらも健はぴったり時間通りに来た。一秒の遅れもなく姿を現した様はいっそ恐ろしさを感じさせる。

 制服ではなく、安物のパーカーを纏った健の横からひょこりと悠が顔を覗かせた。


 てっきり健と二人きりだと思っていた良は驚くとともに安堵の息を漏らす。

 分かりやすい良の姿を見ても健は何も言わない。良は少しだけ罪悪感を覚えた。


「悠は制服なんだね」

「こっちの方が落ち着くんですよね。もしかして、僕の私服見たかったんですかー?」

「そういうわけじゃないけど」


 見たい見たくない以前に、悠が一緒に来るなんて思っていなかった。

 誤魔化すために選んだ話題は結果的に同じ場所へと帰結する。


「雑談はそこまでにして本題に入りましょーか。……良さんには悠と一緒にある場所にいってもらいます。おそらくそこに夏凛さんがいると思うので」

「ある場所って……?」


 問いかけに首肯した健はどこからともなく地図を取り出した。何もないところから出てきたように見えた地図に驚きながらも、恐る恐る受け取る。

 駅裏の地図のようだ。特別変わったところの見られない、ごくごく普通の地図には二か所に赤い点がつけられている。


「どっちがいーですか?」

「へ?」


 行く場所も全て健が決めていると思い込んでいた良は困惑を隠せない。

 表情の読めない顔は真っ直ぐにこちらを見つめている。真剣さだけは伝わってくる。

 冗談というわけではないようだ。本気で良に選ばせようとしているのだと、やはり戸惑いながら赤い点の一つを指で指し示す。


「んじゃ、俺はこっちに行くか。詳しい話は悠から聞いてください」


 言って、健は一足先に目的地へ向かっていく。残された良は未だに消えない困惑を抱えながら、悠の横で緊張の糸を緩める。


 健を前にすると緊張してしまう。

纏う空気のせいだろうか。良の知らない世界で生きてきたことを如実に表した雰囲気が近づくだけで身を固くさせるのだ。


「大丈夫ですか、良さん」

「あ、ごめん」

「いいえ? 健兄さん相手で緊張する気持ちはよーく分かりますし。ともあれ、僕らも出発進行といきましょう! 話は歩きながらもいいですか?」


 首肯する良に無邪気な笑顔を返し、健とは逆の方向へ歩き出す。

 夏凛は誘拐されているのだと悠は言った。監禁場所は、健の調べで二か所まで絞れたものの、そこで手詰まりとなった。

 彼女を見つけるためにはある存在が必要になるから――。


「それが夏凛さんの王子様というわけです。夏凛さんにとっての王子様……それがズバリ! 良さんということですね」

「どうして俺だって……?」


 言葉を交わしたのはたった一言、二言くらい。そもそも健は良に会話を持ち掛けた時から良がそうであると確信を持っているようだった。

 良本人すら信じられない事実だというのに。心当たりがないわけではないが。


「さあて? 僕には健兄さんのお考えは分かりません。推測ならいくつかできますけど」


 無邪気な表情の中に悪戯っぽさを混ぜて悠は答える。表情一つとっても、兄以上の親しみやすさを感じさせる。

 似ているところ以上に似ていないところの方が多いように思える。双子というのが嘘だと言われても納得してしまえそうなくらいに。


「夏凛さんはパーティで王子様に会ったと話していたそうです。それが一番のヒントってことですね」

「でも、それだけじゃ俺だとは言い切れないだろ? 春野家のパーティにはたくさんの人が来る」

「しかもパーティは年に数回開かれる。五歳の時の、星さんが参加していないパーティ。それだけじゃ絞り切れません。こりゃ参ったって状態ではありましたよ」


 病弱で臥せりがちだった星がパーティに不参加なことは珍しくない。むしろ、参加していた方が絞りやすかったくらいに。

 とりあえず、参加者名簿をもらって地道に探すしかないと話し込んでいた時に航輝が割り込んできた。良を巻き込む形で。

 悠には急に話を振られて驚いているようにしか見えなかったが、健には違うものが見えていたようだ。


「良さんの言動に思うところがあったんでしょうね。だから、こうして呼び出した、と」


 悠の推測はここでおしましだ。近いところにいても天才の考えの全てを理解するのは不可能ということだ。

 少し切なくて悲しい事実。不意に目を伏せた悠の顔に宿るのは哀切。

 子供らしい無邪気な表情ばかりに彩られた悠の、大人びた表情に良はしばし呆気にとられる。


「でも本当によかったんですか? 僕がいるとはいえ、かなり危険がありますし。かすり傷じゃ済まない可能性だって十分にあります。今からでも無理だって言うなら、僕から健兄さんに伝えますよ?」

「いや、いいよ。危険なのは二人も一緒だろ」

「それはそうですけど、僕らは良さんよりもずっと強いですし」

「でも危険なのは変わらない……と俺は思う」


 蔑む風味を含ませた言葉に対する返答は悠にとって予想外のものだった。尻つぼみな部分はともかく、少しばかり良のことを舐めていたかもしれないと表情を崩す。

 宿るのはトレードマークの無邪気。けれども今までとは少しだけニュアンスが違う。


「僕好みの答えですね」

「……悠は」


 呆気にとられ、息を飲む。

 良と悠の関係は友達の友達という言葉が一番しっくりくる。航輝と仲がいいから良も自然と話すことが増えた。

 それだけの仲であり、知らないことの方がきっとたくさんある。けれど普段とどこか違う悠の態度に抱くのは違和感だ。


「悠は、一体何者なの?」

「僕は健兄さんの弟ですよ。今までも、これからも、ずっとずぅーっと」


 この日、良は初めて悠の笑顔を見た気がした。無邪気で隠し事など一つもない、そう思っていた人物の初めてを。

 健と同じく、この岡山悠という人物も実は一筋縄でいかない存在なのかもしれない。

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